その初めては誰のもの



《完全下校時刻になりました。校内に残っている生徒は、戸締りをして、車に気を付けて帰りましょう》


下校時刻のアナウンスをして、今は亡き有名なバンドのBGMを流す。
これといったアクシデントもなく無事に校内放送が終わり、私も戸締りをして放送室の鍵を閉めた。
職員室に鍵を返して幼馴染が待っているであろう昇降口へと向かう。
廊下を横切ろうとして、開いたままの教室のドアから机にうつ伏せている男子生徒の背中を見つけて「アレ」と思い立ち止まった。


「……律?」


ドアの上のクラスを確認する。
間違いなく律のクラスで、席の場所も本人。
机の脇に下げられているスクールバッグには私が何年か前の旅行土産で渡した黒柴のキャラのストラップがひとつだけぶら下がっている。
昇降口に居ると思ったのに、と思いながら私も教室に入って再び声を掛けた。


「律ー?りーつー」


自分の左腕を枕替わりに、左頬を下にしてすやすやと眠っている律の背中を摩る。
しかし余程深く眠っているのか、私の声に反応することなくその瞼は伏せられたままだった。


「……起きないとオオカミに襲われちゃうぞー」


傍らにしゃがみ込んで、その寝顔を見上げる。
文化祭も近いし、生徒会も忙しいのだろう。
眉間に薄く皺を寄せて眠る律の顔を、しばらく見つめていた。

部活動に勤しんでいた生徒たちが帰り始めて、段々と静かになっていく校内。
傾いた西陽が薄暗い空を連れて教室に差し込み、律の睫毛の影をその頬に落とす。


「……」


男の子なのに、綺麗な顔だなと見つめている内に"今なら誰にも気付かれない"という甘い囁きが頭の内で響く。

静けさが占める教室。
律も深く眠っている。
周囲に人はいない。私以外、誰も。

微かに聞こえる、規則正しく繰り返される呼吸。
無防備に整った素顔に、誘われるように私は顔を寄せた。


---


「律。起きて。夜になっちゃうよ」
「……ん…ごめん、待ってたはず、なんだけど……」


肩を揺さぶられる感覚に頭が動き、目を開けた。
体を起こせば、スクールバッグを背負い直したおなまえが「よっぽど疲れてたんだね」と苦笑する。
そのバッグに吊るされた数々のストラップがじゃらりと音を立てた。


「……暗い…」


僕が教室の外から見える空の色に意識を向けると、秋口の夕陽が今にも落ちようとしていた。
「何度も起こしたんだよ」とおなまえは脇に掛かっていた僕の鞄を机の上に置く。
その持ち手に手を掛けて席を立つと、静まり返った教室の中で椅子を引く音がやけに大きく響いた。

まるで何事もなかったかのようにおなまえは教室の出入口に立って、僕がついてくるのを待っている。
その表情は少しの違和感も無い程いつも通りだ。


「………」
「…どうしたの、まだ眠い?」
「ううん……鍵、返して来る」
「ああ。じゃあ一緒に行こ」


今日の下校案内の当番はおなまえだった。
だから数分前にもおなまえは放送室の鍵を返しに職員室に立ち寄ったはずなのに、またもと来た道を戻ることになるんじゃ。
けれど、かといって彼女1人を待たせるのもな、と思って止めないで歩き出す。


「昇降口かと思ってた」
「ん?……最初はそっちにいたんだけどね」
「忘れ物かなんか?」
「……うん。そんな所」
「違うんじゃん。ま、いいけど」


僕の返事におなまえは笑って、それ以上の追求はされなくなった。
本当にどんな答えでも興味がなかったようにも見えるし、正直に答える気が僕に無いことをすぐに悟ったようにも見える。

教室の鍵を担任に返す時、「まだ帰ってなかったのか」とおなまえを見て先生が声を掛けてきた。
「すみません、僕が引き留めてしまったんです」と謝罪すれば先生は閉口して、「影山も、気をつけて帰れよ」とそれきりお咎めが終わる。
長居は無用とさっさと校舎を出ると職員室からニヤニヤしていたおなまえが「流石ぁ」と悪戯に目を細めた。


「律が謝ったらすぐ帰してくれるんだね」
「別に僕だからって訳じゃないと思うけど…日頃の行いなんじゃない?」
「失礼な。律ほどじゃないけど品行方正にしてますって」
「……」
「その顔は疑ってるねぇ?」


すっかり藍色に染まった空の下、並ぶ街灯が帰り道を照らしている。
規則正しく響く足音に相反して、考えれば考える程僕の思考が乱列していく。


--「…起きないとオオカミに襲われちゃうぞー」


すぐ側で聞こえたそんなおなまえの声に、意識が引き上げられた所で唇に触れた感触。
つい固まって、そのまま寝たふりを続けてしまったせいで閉じた視界ではいまいち状況を飲み込みきれなかったけれど、あれは……。


「お腹すいたなー……今日晩御飯何だと思う?」
「……そっちの?」
「影山家の」
「…………さあ…」
「ノリ悪〜。私はオムライスだと思うな」
「それは勘?」
「なんとなく」


僕の考え事と大分違った温度感で、おなまえは夕飯の予想をしている。
「うちは何だろうなぁ」と空を見上げながら思案している横顔が余りにも自然で、僕の悩みの種は夢か錯覚だったんじゃないかと思わされた。

……何だか、時間が経てば経つほど、そんな気がしてくる。


「…そう言えば、おなまえのクラスのさ」
「うん?」
「木備島って人、仲良い?」
「木備島君?……いやあ?下の名前も思い出せない程度の仲だけど」


僕の問い掛けに「あー、いたねぇ?ってくらい」と空を見上げながら答えるおなまえの姿から察するに、クラス内でも接点はほぼ無いんだろう。


「嗚呼、そう」
「その人がどうかしたの?」
「別に」
「別に、だったら私にそんなこと聞かなくない?」
「ううん。もう済んだから。だから"別に"であってる」
「えー?……まあ、言いたくないんなら、いいけど」


苦笑いを浮かべながらおなまえはそれきりこの話題には追求しなくなった。
その後も今マイブームのバラエティ番組の話や授業中の様子の他愛ない話を続けている内、互いの家に続く分かれ道に差し掛かり「また明日ね」とそれぞれ帰路につく。
いつもはそのまま真っ直ぐ家に向かうのに、つい一度後ろを振り返っておなまえの方を見た。
少しづつ遠のいていく背中は僕と違って此方に一瞥をくれることもなく、やがて角を曲がって見えなくなる。


「……、」


結局見えなくなるまで視線を送り続けてしまった自分に"何やってるんだろう"と僕は思考を振り払うように首を横に振る。
ようやく歩を進めた僕の足取りは勝手な失望感や罪悪感で重たく、自分の身体が鉛のように感じた。


---


昼休み。放送室で済ませた給食を下げ終えて教室へと戻る私を「みょうじ」と誰かが呼び止めた。
聞き慣れない声に返事をして振り返ると、クラスメイトの木備島君が少し離れた廊下の向こうから此方に近寄ってくる。
彼の顔を見て"昨日律が聞いてきてたなぁ"と律とのやり取りが一瞬頭に浮かんだ。


「木備島君。何か用?」
「昨日…手紙、置いたんだけど。下駄箱に」
「手紙?ごめん、気付かなかった。靴の下に置いてた?」
「え?いや……」


そんなものなかったと思うけれど、とは思いながら答えると木備島君も困惑した表情を浮かべながら私の顔色を窺ってくる。
下駄箱なら今朝も見たし、やっぱり手紙なんてなかった。
わざわざ書いてくれたのに申し訳ないけれど、心当たりもない。


「ごめんね、手紙の内容直接聞いちゃってもいい?」
「いっ、今か!?」
「あ。言い難いから手紙にしたのにそれじゃダメか!んー……どうしようかな」
「それは……、」


私の言葉に狼狽える木備島君は周囲を気にして、人気が私たち以外にないのを確認してから逡巡し再び私に向き直った。
「誤魔化してる訳じゃないんだな?」と何か念を押してくる彼に、首を傾げながらも頷く。
意を決した様なその表情にただならないものを感じた瞬間。


「好きだ」


私は人生初めて、告白というものを経験した。


---


「《完全下校時刻になりました。校内に残っている生徒は、戸締りをして、車に気を付けて帰りましょう》」


今日の最終放送は先輩の当番。
耳に入ってくる校内放送に合わせて、ぴたりと言葉の間の間まで綺麗に重なった自分の声に「流石私」と一人で満足していると、昇降口の傘立てに腰掛けていた私に「アレ」と律が声を掛けてくる。


「おなまえ待ってたの?もう帰ってると思ってた」
「うん、ちょっとね。一緒に帰ろ」
「いいよ」


律が「先出てて」と私に背中を向けた。
間伸びした返事をそれに投げながらもチラリとその背中を窺うと、律の下駄箱に何通かあった封筒を手際良く鞄にしまいこむのが見えて「モテますねぇ〜」と笑う。
「そういうんじゃないよ」と淡々とスニーカーに履き替えた律が隣に立って、私たちは歩き始めた。


「それってひとつひとつ返事するの?」
「……何でそんなこと聞くの」
「気になって」
「ああ、そう……宛名があれば。返事はするよ」
「なんて?」


私の問いに律はピクリと眉を動かす。
流石に踏み込みすぎた発言だったかな、と慌てて「あのね」と理由あっての言葉だったことを付け足した。


「私今日初めて告白されたんだけど、意外すぎてテンパっちゃって。で、手紙も書いててくれたみたいなんだけど、どさくさに紛れて無くしちゃったみたいなんだよね、私。だからちゃんと手紙でも返事しておきたくて、律はこういう経験多そうだから参考にしたいなぁ〜、なんて……」


"告白された"と聞くや否や律の顔が険しくなる。
訳を説明すればする程固く結ばれた唇の端が下がって、いかにも不機嫌なのが見て取れる程になってしまった。
これは火に油だっただろうかと、少しでも空気を柔和にするべくにへらと浮かべた私の笑顔も引き攣る。
と、律が口を開いた。


「付き合うの?」
「え?…あ……付き合…」
「下の名前も覚えてないくらいの相手なのに?」
「………」


今度は私の眉が反応する。

律は、私が誰から告白されたのを知ってるんだ。

昨日律が不自然に名前を上げた時の様子と、昼に会った木備島君の発言が頭の中に浮かんで重なる。


「律、昨日……最初は昇降口で待ってたんだよね?」
「………」
「その時、木備島君、見た?」
「……」
「木備島君、私の下駄箱に手紙入れたんだって。でも私、見てないの。確かに無かった」


帰り道の途中で完全に足を止めた私たちは、黙ってお互いを見つめる。
いつの間にか落ちてしまった陽のせいで、律の顔がよく見えない。


「……何で、黙ってるの…。知らないなら知らないって、言えば終わりじゃん?何も言わないのって…"心当たりがある"って言ってるような、もんじゃん……」


尚も沈黙を続ける律に、「何か言って」と言葉を催促しようと口を開いた時、ようやく律からぽつりと声が聞こえた。


「捨てたんだ。その手紙、僕が」


まさかと思って耳を済ませる。
息を止めて律を見上げる私に、「おなまえの下駄箱に入れるの、丁度見たから」と追い討ちのように律が続けた。

だから手紙がなかったんだ、と納得する反面、当然疑問が湧いてくる。


「…律って…そんなことする人だったっけ?」
「……だったんだろうね、実際そうしたってことは」
「…………なんで?」
「なんで、……って……」


私の口調を責めてると捉えたのか、暗さに慣れてきた視界で律が気まずそうに視線を逸らした。
その動作から後ろめたさは感じてるんだろうというのが見てとれる。
けどそれも一瞬で、次に律が私と視線を合わせた時には再び険しげな色の瞳に変わっていた。


「そんなの、聞きたいのは僕の方だよ」
「……逆ギレ良くないよ」


無責任な物言いに私もムッとしてしまい、少しだけ声に棘があったと思う。
すると律は私の肩を掴んですぐ側の塀に引き寄せると、逃げ場を封じるように両手を着いた。
否が応でも律と対面を強いられて、怒っているようにも苦しんでいるようにも見える律の鋭い視線とかち合う。


「寝てる僕に勝手にキスした癖に。おなまえが好きなのは僕なんじゃないの?なのに何でそんなヤツなんか選ぶのさ」
「! お、起きて…、……って、違うから!付き合わないよ!」
「……え?」
「断ったの!告白は!……でも急だったからちゃんと断れたか不安だから、手紙でもしっかり言っておきたくって…」
「…………ハァ…ごめん、八つ当たりみたいなことして」


溜息をついた律はゆっくりとした動作で身を引いて、私から数歩離れる。
「手紙の返事、どう書いてるのかって……そういうことか」と呟きながら首を横に振っている律に、改めて「でも人の手紙勝手に捨てるのホント良くないよ」と念を押す。
今までの鬼気迫る様子とは打って変わって、私の言葉に素直に頷いた律は「ごめん」と再び謝った。


「もし、おなまえが誰かと付き合ったらって思ったら……気付いたらもう、抜き取ってて…」
「……何処に捨てたの?教室?」
「家だよ。…家まで持って帰って捨てた」
「じゃあ昨日帰ってる時、律が手紙持ってたってこと?」
「……うん」
「中身は見た?」
「見てない。そのまま破いて捨てた。今朝の可燃ゴミで回収されてるよ」
「フン!」


ぺちん、と軽くではあるけど律の頭を叩いて折檻した。
反射的に「痛」と洩らした律に「人の気持ちを無下にするからです!」と言い聞かせる。
しかし何かを言いたげに私を見てくる律に、「何?」と尋ねた。


「でも…断ったんでしょ。結局」
「だって仲も別に良くないし…」
「ないし?」
「………それだけだよ」


そう言って私が元通り帰り道を歩き始めると、律もそれに続いて歩き出す。
余計な追求が来る前に家に帰ろうと私は早足になのに、容易く追い付いてくるのが癪で「ホントそれだけだから」と改めて口にした。


「ねえおなまえ」
「何」
「もし僕が、手紙くれた人の中の誰かと付き合うってなったら、おなまえはどう思うの」
「…律がモテるのって別に、今に始まったことじゃないじゃん」
「そうだけど。でもだからって誰かと付き合ったことはないよ」
「……知ってる」


小学生の頃だって、足も早いし顔も良い、頭も良ければそのオマケに優しいとくれば女子たちが放っておかなかったし、私はそれをすぐ側で見ていた。
律が誰かと恋人になったことがないのも、勿論知っている。


「だから、したんだよ」
「ん?」
「いつか律は素敵な女の子と付き合って、幸せになるだろうから。……その前に、お互いのファーストキス奪っておきたかったの」


私だけが知ってる律の初めてを奪いたかったし、私の初めてを律にあげたかった。
もし律が誰かと付き合っても、この事実は私の大切な思い出として秘めるつもりだったのに。

私の隣をついていた足音が止んで、このまま言い逃げてしまおうと家路を進めば後ろから律の声が引き留めてきた。


「それだけでいいの」
「……なに、が」


律の言葉の意味する所が気になって、つい足を止めてしまう。


「僕なら、もっと欲しいと思うけど」
「…律なら欲張りでも、叶うんじゃない?」


律に比べて、私は貪欲が許される程見目が言い訳でも無いし優秀でも無い。
私はこれで充分なんだと自分に言い聞かせる。
秘密にするつもりが相手に認められてしまったのだから、寧ろ共通認識に出来て万々歳だよって。

そう思っている内に、「おなまえ」と呼ばれた声がすぐ後ろで聞こえて、離れた距離がいつの間にか詰められていたことに気付く。


「こっち向いて」
「え。な、何」


言われるがままに振り返って、眼前の律を見上げた。
不機嫌でも、上機嫌でもなさそうな表情からは次に掛けられる言葉が予想できない。


「おなまえ、初めて告白されたんだよね?」
「う…ん。それが……?」
「じゃあ、自分から告白したことは?」
「えっ」
「ある?」
「…な、い」


次々に質問が降ってきて、その内私は律の言いたい事が薄々予感できてしまった。
大分、私の分が悪い。それは確実だとわかる。
決定的な一言を貰う前に離れようと後退った私の手首を、律が掴んだ。


「僕のファーストキスあげたんだから、おなまえも僕に頂戴」
「わ、私だって初めてのだったよ」
「足りない」
「足り、ませんか」


強くは無いけれど、しっかりと握られた手首が後ろに引こうとする度元の場所に引き戻していく。
振り払おうとすれば律はこの手を離すだろうけど、そうするべきなのかどうかわからなくて手首を見つめた。
視線を落とした私に「ねえ」と急かすように律の声が降る。


「僕が好きって言ってよ」


ぎゅうと掌を握り締めた。
こんな強迫のような告白があってたまるかと首を横に振ると、縋るような細い声。


「僕から言ったら、2番目になっちゃうだろ」
「……そんなの、気にしてたの」
「自分だって初めてに固執してる癖に。人の事言うなよ」
「そう…だったね」


密かに初めての唇を思い出として刻もうとしていた自分には律を悪くは言えないと気付かされる。
似た者同士みたいだと思った途端、「早く」と急かしてくる律の必死さが面白く思えて笑みが零れた。


「好き。私、律が好きだよ」


言葉にした直後、きつく抱き締められて胸が苦しくなる。
小さく呻いてから応えるように律の背中に手を回して、その背中を摩った。
肩口に埋まった律の顔は見えないけれど、すぐ耳元で聞こえた「僕も」という声は嬉しそうに感じた。







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