「あ、お出かけですね、船長…と皆さん」
甲板で船縁に寄りかかっていたエマが、ドアから出てくる4人──否、3人と1匹に駆け寄ってくる。
このシャボンディ諸島にたどり着く少し前の島で、ハートの海賊団は彼女に出会った。重い病に冒されながらも敵と闘い続けていた、とりあえず見目だけはかなり麗しい娘。
どういう気紛れか彼らの船長は彼女の病を取り除き、彼に心酔しきったエマは自らの敵と決着をつけた後で半ば強引にこの海賊団の一員となった。
「美味しいごはんとあつーいお風呂と、シーツ変えたてのベッドを用意してお帰りを待ってますね!」
読んでいた新聞を胸に抱え、ローにそう告げる笑顔は何の邪気もないように見える。少なくとも、船長の傍らにいるシャチとペンギンの目にはそう映る。恐らくその辺りにいる男のほぼ全員がそう思うはずだ。
だが、そうではない者がここに少なくとも1匹は存在する。
「新婚気取りか」
ベポの言葉が耳に届くと同時に、エマは笑顔を崩さないまま間髪いれずに言い返した。
「それなら『ごはんにする?お風呂にする?それともワ・タ・シ?』だよ」
シャチとペンギンが口の挟みどころを探す横で、ローは面倒臭そうに指で眉間を揉む。彼女の笑顔に最初から惑わされていない男が、ここにもう1人いるかもしれない。
エマは可憐に見える笑顔で、ベポの顔面に指を突きつける。
「微妙なニュアンスはクマちゃんにはわかんないかなぁ?そしてそんな想像するなんてクマちゃんはもしかして発情期?」
「誰がクマちゃんだ!ベポさんと呼べ、新入り!」
ベポの言葉を無視したエマの微笑みが、傍観者であるはずの2人の方へ向けられた。
「シャチさんとペンギンさんのもちゃーんと用意しておきますから!必要ならマッサージもつけますよ」
「メシも風呂もお前の担当じゃないだろ」
「おれのは」
ペンギンの言葉をさらりと流し、ベポが素の表情でエマにそう問いかけた。
あのやり取りの後で、そう切り替えられるところがベポの凄いところだとシャチは思っている。
エマはベポを見ながら軽く鼻で笑った。
「クマってお風呂入るの?ベッド使うの?エサは食べるよね、それは知ってる」
このメンバーで航海を始めてすぐに、エマとベポのウマのあわなさは顕著になった。シャチは人とクマなのにウマが合わないというのも不思議だと思ったが、ペンギンは犬猿の仲というともっと意味が判らなくなる、と、尤もなようなそうでないような事を口にした。
とにかくこの一人と一匹が喋り出すと、その話が平穏な終わりを迎えないのは確かだった。ベポが足技を使った事で、今回もそうなるのは確実だ。
エマは滑らかな動きでベポをかわし、頬に手を添えながら僅かに首を傾げた。
「クマってパワー押しのイメージなのに、ベポちゃんは動きが機敏だよねぇ」
「ベポ『さん』だろ!」
「私はこう見えてパワータイプなんだ。『血ヘドの天使』って二つ名がつくくらいにはね」
「怖ェよ」
「なんだよ、そのパワーと無関係の二つ名」
シャチとペンギンが静かに呟く。
彼らの側で船長は呆れたように息を吐き、エマの腕に手をかけてベポから引き離した。
エマの表情がぱっと明るくなる。
「その辺にしとけ」
「ごめんなさい、船長。ベポちゃんをからかうのが楽しくって、つい」
何かを言おうとしたベポを、ローが視線で制した。懸命な判断だ、やり取りを始めさせたらキリがない。
エマは胸元で手を組み、上目遣いでローを見つめている。崇拝の色を浮かべる瞳がキラキラと輝いている。
「船長が治療してくれたので、私『血ヘドの天使』から、ただの『天使』になれました」
「調子にのるな」
「船長つれないですね!普通の男の人なら『そうだね、天使だ』って返ってくるのに」
口調はぼやいていても、エマは嬉しそうに笑っている。もしかするとつれなくされるのが好きなのかもしれない。
船長以上につれない一匹が、牙を剥くような顔でエマの言葉に噛みついた。
「なにが天使だ!」
「クマの審美眼じゃわかんないかもね。私が可愛いのが」
唇に指を置く仕草は、恐らく目線の位置やまばたきの回数まで完全に計算されている。シャチとペンギンも大分慣れてきたもので、冷静にそんなことを考えられるようになってきた。
ただものでない美人であることは判ってきたが、ただの綺麗な娘であってくれた方が状況的にはどれほどましだったか。
人間の美醜にそもそも意味を感じないベポは、エマの態度に一気に興奮からさめたようだった。
「お前バカだろ」
「バカっていう方がバカなんだって、ベポちゃん知ってた?」
「うがー!!」
エマは火に油を注ぐのが上手すぎる。もっぱらベポの内なる炎限定だが。
2人が止める間もなく、ベポは素早い蹴りを彼女に向かって繰り出した。慌ててそれを避けたエマの体勢が少し崩れる。
クルー全員と揃いのジャンプスーツの腰に手をあて、彼女は唇をほんの少し尖らせた。
「ちょっとかすった。ほんと速いね、ベポちゃん」
「ベポ『さん』だって言ってるだろ!」
再度鋭い蹴りが放たれる。しかしベポの足の先にエマはおらず、船長の太刀が浮かんでいた。
それが甲板に落ちる前にローは素早く動いて鞘を掴む。
入れ替えて肩に担いでいたエマを放るように甲板に下ろすと、船長は太刀を持ちなおしながら争う2人に強めに睨みをきかせた。
「エマ、いい加減にしろ」
「はぁい。船長、能力使わせちゃってごめんなさい」
「ベポ」
「う、うん。行こう、キャプテン」
スタスタとタラップを下りてゆくローの後ろを、ベポが慌てて追いかけてゆく。船長の雰囲気に気圧されたのか、耳が少し後ろに下がっているのが判った。
エマはというと特に威圧された様子もなく、頬を染めて2人──1人と1匹の背中を見送っている。クマより女の方が打たれ強いらしい、とペンギンは半ば呆れながら考えた。
「船長に構ってもらえた」
「そりゃどういう感情の流れだ!?」
打たれ強いにも程がある。ペンギンは思わず大きな声をあげてしまった。エマは驚いた様子もみせず、ただ僅かに目を細める。
「どういうって何です?ペンギンさん。もっと船長や皆さんと仲良くなりたいなぁ、信頼されたいなぁって事ですよ」
シャチにもペンギンにもどうにも納得しがたい理由だったが、エマは爽やかな表情で煙に巻こうとしてくる。
「『船長に構われた』って言ったじゃねェか」
「そりゃあ船長にはもっと構われたいですよぅ。だって私にだけクールすぎませんか?」
「…じゃあベポは」
「ベポちゃんは構うとムキになるから楽しくってぇ」
ペンギンに向かって答えるエマの口調はとびきり無邪気だ。彼ら2人は同時に顔を見合わせ、一瞬の間をおいてから、シャチが代表して問いかける。
「…おれたちは?」
「先輩クルーの皆さんとは上手くやれてますよね?私がやり過ぎた時はフォローお願いしまぁす」
「もうやり過ぎてるだろ」
ペンギンの言葉に、エマはとびきりの笑顔になった。正体が判っていても、彼らが一瞬見とれたほどの魅力があるやつだ。形のいい唇が、微笑みを携えたまま言葉を紡ぐ。
「だったらフォローしてきてよ」
その低めの声には、つられて笑顔を浮かべていたシャチとペンギンの横っ面を張り倒すような威力があった。2人は顔を強ばらせ、その場を離れるべくぎくしゃくと歩き始める。
桟橋で足を止め、2人を待っている船長とベポ。タラップを降りながら、シャチは額に手をあて、ペンギンは帽子の位置を整えた。
「波乱の予感がしてきた」
「おれも」
桟橋を揃って歩き出した4人の背中に、エマの明るい声が飛んでくる。
「いってらっしゃーい」
完璧に無邪気を装った見送りの言葉が、シャチとペンギンの波乱の予感を強くする。
いつも通りクールな表情を浮かべた船長と、興味深そうに辺りを見回すベポとともに、彼らは桟橋を通りすぎ、不穏な島へと足を踏み入れたのだった。
《FIN》
2015.07.12
Series 1 - Two-Face -
Written by 宮叉 乃子