黒
の
光
彩
不確かな情報を沈め、刹那、君を愛苦しく想った。世の中の趨勢に苦しみ恒久を望む僕に、苦しみの数だけ幸福があるんですよ、と言った君。現実社会に生きた君。
真新しい黒色の絵の具が口元を緩ませ、白のカーディガンへ滴り落ちる。幼少の頃から、買った水彩絵の具を使って私物を黒色にするのが好きだった。僕の絵の具。僕のカーディガン。僕の、彼女。僕は彼女に辟易していた。
ひゅう。
ふわふわと、僕の前へと冷たく柔らかな風が通りすぎていく。もうすぐ冬だった。夜風に身を晒しながら、彼女が作る夕食をただじっと庭の緑を見つめながら待っていた。僕の手にはもうカーディガンなど無い。
彼女が自主的に台所へ立っていたことに初めから何の疑問も催さなかったのは、僕の領域に入ることを僕自身が気づかぬまま彼女を許したからだった。
そんな自身に呆れたりもしたが、いつしかその思いは雪の様にちらつかせながら、ふわりとどこかへと消え失せた。
寒い…
部屋に入れば暖房を点けているわけでも無いのに空気が淀み、沈んでいるのがわかる。彼女はそれを嫌う僕を理解しているから私事で簡単に僕を呼ばない。
畳の上に置かれたパステルカラーの色をした彼女のバッグが横へと倒れ、ふと、中から散らばって出て来た文庫本の題名が目に付く。渇いた口からはあまり上手に声を発することは出来ず、閉ざしたまま、脳内で呟いた。
消せない告白…
びりびりびり…。
剥く。剥く。剥く。
剥ぐ、剥ぐ、剥ぐ。
特に思い入れがあるわけでもない其れを、ただただその手が僕の意志とは裏腹に泣き続ける。
また絵の具を落とす。どろりと顔を出した黒は弧を描きながら本の上に滴り落ちた。そうしていくうちに、彼女の文庫本は一気に黒と化した。
「いい加減止めませんか、それ。」
ぐり。
目玉を転がせ、背中をうねらせ、彼女を視界に入れ、また僕は息を吐く。またまばたきをする。貞淑な彼女が夕飯を持って此方へ向かって歩く。テーブル前へとピタリと止まり、その状態のまま僕に耳を傾けている。
「ねえ、僕が君を愛さない理由を、君は知らないね」
「…雲雀さんは、誰も愛そうとしていません。それが答えではないのですか」
「ふ、無知過ぎるね」
憎悪を強化せよ。そう聞こえる僕の心性。ああ欠落している。破綻している。陶酔する僕も、才媛たる彼女も、知っている。僕が彼女を愛さない理由を。
彼女は醤油やら箸やらを取りに行ったりと、忙しなく動いていた。
僕は目を細めながら黒と化したモノ達を無関心に見つめた。彼女は僕に何も聞かない。それが正しいか否かを判断することは無い。
「自殺幇助罪という罪で死にたい」
「幇助罪…?どのような意味が?」
「辞書でも引きなよ」
「そうですか」
自殺という言葉を並べても動揺の一つも感じられない空気感。彼女は僕の話に決して興味が薄いわけでは無かった。僕自らが話題を出したのにも関わらず、その深い意味を彼女に教えない事によって、さながら触れてはいけないパンドラの箱を開けるような事柄をしてはいけないと、彼女は一時その場を糊塗したのだ。
カチャカチャ。
彼女は暗い色合いの料理が乗った皿を一人分、綺麗に並べ初めた。
「かぼちゃの煮付け、鯖の味噌煮、麻婆豆腐。麦の御飯。言われた通りにしましたよ」
「ああ、有難う。君のこの不完全さが好きなんだ」
「不味いなら不味いと仰って下さい。遠回しは嫌いですよ」
「完成された美に興味が無いことを、君は知っている筈なのに」
付け足してそれと君の黒髪と黒眼も好きだからね、と軽く言葉を滑らせた。彼女のご機嫌取りをしたつもりも無く、ただ純粋に本音を見せただけだった。
僕に背中を見せながら、彼女は台所へ向かっていった。自分の分の夕食を取りに行ったのだろう。
あなたがお好きでいらしてるのは
黒だけでしょう…
季節を感じさせた秋風が身に、蜩が鳴き心に、よく響いていた。だが其れを消し去るほどに、確かにか細い声帯が僕の耳には届いた。怪訝な顔を、一度だって僕は見たことは無いのに、僕の視界に入らない所でいつも彼女はそうしていた様に思えた。
完全なる黒と不完全な人間が交じっているのが好きだと言った事は一度も無い。僕と彼女の一定の距離感が存在する関係が崩れる事を、僕は常に畏怖の念を抱いていたからだ。
早々に食べ終えた夕食は、どことなく冷たい気がした。それは料理が冷めているのではなく、彼女の気持ちが微塵にも入っていないようで恐ろしく思った。彼女の意志を知るつもりも無い。彼女の側に居てはならないと、先程のその黒い一言だけでそう確信した。だけれどそう感じた後にまた、彼女が僕の側に居る理由など、最初から無かったことに気付かされた。
僕の心には何も残っていない。
しんとした部屋で、布団と毛布を片付けていた。彼女は僕よりも少し奥の部屋にて休んでいる。僕は黒のスーツに着替え、荷物を持つ。
廊下から庭に向けての小さな階段を降りた直後、背後に僅かな気配を感じた。振り返らずとも分かる、それは紛れもなく彼女の心。
「…雲雀さん、夜遅くにどちらへ」
ゆっくりと振り返り自身の背中を、高く美しい月に預け、彼女の瞳を見た。肩から薄い毛布を被り、真っ直ぐに僕を見据え、慎重に言葉を吐き出している。
彼女に気付かれない様にと、細心の注意を払いながら着替えを荷物にまとめていたのに対して彼女が起きていたという事は、僕の心の奥底に彼女との最後の記憶が欲しいと、切に願っていたのかもしれなかった。
それにしても、おんなの勘とは恐ろしい。
「イタリア。……もうここには戻らないよ、三浦」
「……、また、戦争が始まるのですか…?」
「いいや」
「では仕事へ…?」
おそるおそる口を開き、その言葉には憂いを含ませている。真実を僕の口から言わせる彼女は賢いだろうか、狡いのだろうか。
彼女がこんな僕を本当に愛していたのは勿論知っていた。自惚れではなく、事実だった。だからこそ、この口で、真実を言う決心をする。
「ねえ、マフィアと無関係の君の居場所はここじゃない」
「……」
「僕以外の誰かの為に、生きろ。三浦」
それが一番優しい選択。慎重に言葉を選んだ僕を笑えばいい。
「どうして……どうして、愛してくれないのですか。私は雲雀さんを」
「ああ、それから」
彼女の口から言わせてはいけないと瞬時に判断したのは、一度も聞いたことの無いそれを一度でも耳にすれば、僕の心が戻れなくなることを知っていたからだ。彼女はそんな僕を理解しながらも口にしようとしていた。彼女の顔を見れば、目元に雫が溜まっているのがわかる。
それを見た時、僕の心には充分過ぎる程の幸福を彼女に貰ったと痛感した。満たされていた。最初に彼女が言ったように、現実となっていた。
最後に、別れと感謝を。
「君の料理。美味しかったよ。それじゃあ、さよなら」
不完全な黒の君
幸せな美を結末に僕は君を追悼する
110907