ピカピカの靴を履いて駆け回った精一杯の反抗そして逃避は、甘酸っぱいものや愛しさや寂しさなどを軽く摘み上げた。ただただもがくように、土を踏み、走った。苦しくて、負の淘汰は生まれ続けた。チェリーパイを作って届けてくれたあの女のひとが常に頭の上を浮遊した。きっとそれは母親という不確かな存在なのだろう。おれに居場所を与えた女。おれに音を教えてくれた女。だがおれはピアノを上手に弾けていなかった。がしゃん、がしゃんと訳も分からず鍵盤を沈めさせていただけで、レッスンは嫌いだったし、よくわからない音色も嫌いだった。それにコンクールが近づく度に姉の優しさがおれにとって恐怖でしか無かった。父親はもっとわからない存在で、おれに無関心なのか、笑ったり悲しんだりした顔を見たことが無い。城を出ていく頃にはピアノを弾けるようになっていた。父親に会うことはなくなった。逆に母親と近くなった。ピアノを嫌いになれなくなっていく自分の価値を垣間見えた様な気がして、慣れず耐え忍んだ幼少期をとても振り返りたくはないのに、母親の暖かさが、どうしても欲しかった。

「獄寺くん、チャイム鳴った」
「あ……」
「寝てた?」
「……すいません、今起きます」

がたり、と音と一緒に頭を触りながら机から顔を上げた。真横に居たあなたと目が合った。あなたはにこりと笑って春だから眠たくなるね、と言った。ずき、と心で音が鳴る。この地球という星は音が溢れているなあなんてぼんやり思いながら学生鞄を持って教室を歩き廊下へと向かった。時々あなたは不思議そうな顔つきで振り向いた。何やらおれがとても静かで少し不気味なんだとか。

あなたの細い腕にとても触れたくて、駄目だという気持ちと疚しい欲望とが重なり合って、募るばかりだった。おれの腕は細くもなくたくましいというわけでもない。憧れも抱いてはいない。ただその細い腕でおれ達は守られているのだと考えたなら――。喉の奥深くを抉る様に唾を滑らせ、咄嗟に右の手のひらで顔を覆った。不純な妄想を映した顔をあなたに見せるわけにはいかないからだ。

「君が元気じゃないとさ」
「えっ」
「おれ調子狂う」

顔を覆った右手の指の間から振り返ってこちらを伺うあなたの顔が見え、思わず口を開いて驚いた。ああ、あなたは今のおれではなく夢を見ていたおれを見つめていらっしゃる。とても心配そうに。糊塗したおれの過去を。また心に、それは静かに優しい恋の音がした。あなたとの距離を縮め跋扈してしまえばそれはたぶん、激しく大きな音をたてるのだろう。おれが望む音であるのならば、何年経っても変わらず傾倒の意を持って受け入れよう。おれはあなたが、どうしようもなく好きなんです。

「すいません、ぼーっとしてたみたいで」
「本当に?具合悪いわけじゃないんならいいんだけど」

さらさらと静かな風が吹いている。校庭によく馴染む部活動の生徒の声や土を蹴る音が耳に入ってきてとても心地が良い。あなたがおれの様子を伺ったあと、また凛と前を見据えてきゅ、と歩くそのシューズの足音さえも、おれの聴覚をやんわりと刺激させるのには充分だった。

するりとあなたの左手の小指と薬指の間に自分の指を入れてあなたを振り向かせるには少しも時間が掛からず、あなたの指先は温かい春の様に愛らしくて、薬指の爪を親指で軽くなぞった。若干肩の振動が見え、顔は戸惑った様な、恥ずかしい様な。少し頬が赤らんでいる様に見えたのは夕焼けの色が反射した等の錯覚ではないことを祈ろう。中指まで捕まえたにも関わらず、手を繋ぐような形でもなく、とてもぎこちない。時間が止まったかのように吐く息がとても重く、少しだけ触れ合う手が震えてしまった。それを誤魔化す様にあなたの白く温かい左手の指先にそっと唇が触れるか触れないかぐらいの口付けを落とした。愛の告白もなく、ロミオとジュリエットの様にロマンチックなシーンもなく、男同士で不可解な行動をしてしまったことに僭越な後悔はなかった。これが日本特有の青春なのかなあなんて感じてしまったほどに、時間を弄んだ。尊敬の念で致したことかなのか、愛故か自分でもわからなかったそれを、あなたがわかる筈もない。お互い言葉が出てこないのを良いことに、その時を深く深く、噛み締めた。なのでその手を話す時は寂しく感じて息が詰まる。

「帰りましょうか」
「う…ん」

無常にあなたの後ろ姿を見つめる。おれはこの先あなたに爛れることがあるだろう。母親が僅かにくれた暖かさをあなたに貰ったような気がして、それをおれが誇りを持って命を懸けれるか否かは言うまでもないのだが、琴線に触れたこの胸にきっと誓える。
静まった廊下を歩くあなたの姿とシューズの音を記憶に残そう。淡い赤色になった頬を夕焼けのせいじゃないということをのさばることがないように、記憶の片隅に小さく。若い芽吹きをそっと撫でるようにこの感情を大事に仕舞うとしよう。


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