Fool in love | ナノ





 簡単に説明すると、お互いの舌を絡め合う。ただそれだけの行為なのかもしれない。
 しかし、それだけの行為がどれほど重要なものか、また、どれほど幸福感を生み出すものか。今の臨也には身に染みて良く解る。いや、解らされたと言った方がいいかもしれない。
 そう、キスぐらい、別に静雄とが初めてというわけではない。どころか、セックスだってとうの昔に済ませている。
 だが、静雄とするキスは、そんなものとは比べるべくもない。
 彼とのそれは、気持ち良くて蕩けそうで、切なくて、苦しくて、恋しくて、愛しくて、泣きだしそうになって、笑ってしまうぐらい幸せなものだ。
 自分がこんな想いでいることを目の前の男は知っているのだろうか。つい半年前、長い長い戦争関係に終止符を打ち、“恋人”という枠になんとか収まってくれた平和島静雄という男は。
 自分の想いを吐露する際、『好きだ』とは伝えた。それが伝わったのかどうなのか、静雄がその告白を拒否することはなかった。けど、それだけだ。
 結局、静雄の口から明確な好意を表す言葉を引き出すことはできなかった。
 現在に至るまで、ずっと。
 女々しいとそしられようが構わない。臨也の頭の中には、そのことがずっと引っかかっている。
 一体、静雄は自分のことをどう思っているのか。なぜ、あの時告白を受けてくれたのか。どうして、口づけを許してくれたのか。これらを纏めて、正直に言ってしまえば、静雄から一言『好き』という台詞が聞きたい。それだけのことだった。だからといって、それを真正面から聞き出すのは気恥ずかしいし、何より臨也にも多少のプライドというものがある。まあ、そんなものは、静雄に告白した時にはほぼ砕け散っていたものだけれども。
 したがって、恥ずかしいだのプライドがどうこうというのは、単なる言い訳にすぎない。
 それを臨也自身も薄々は勘づいている。というよりは、はっきりと自覚しながら見て見ない振りをしている。元より頭の回転は速い男だ。それも、自分自身のことなのだ、解らないはずがない。
 では、なぜ、それを理解しながら今まで見て見ない振りをし続けてきたのか。
 臨也は、認めたくなかったのだ。静雄の気持ちをはっきりと確認することに恐れを感じていることを。
 臨也の短いようで、彼自身にとっては長い半生の中、こんな気持ちを他人に抱くのは初めての経験だった。例えるなら、狂おしく激しく荒々しい、嵐が逆巻く夜の暗い海のような。
 そんな風に、臨也のすべてが静雄に持って行かれたのだ。
 それ故に、だからこそ、怖かった。ただひたすらに恐ろしかった。
 自分のすべてを持っている相手に、自身を否定し、捨て置かれること。
 その瞬間を想像するだけで、堪らなく苦しくやり切れなくなる。
 静雄の心は確かめたい。でも、その心が自分が望むものとは限らない。
 このことについて、今のところ、どうすべきか結論は未だ出ていない。
 恐れと不安を抱えつつ、今日も臨也は静雄と相対している。
 


 お互いに明日が休みの夜。こういう日は、静雄が臨也宅を訪れ一晩泊まっていくのが、恋人同士になってからの二人の決まり事だった。正確には、それと示し合わせたことはないのだが、いつの間にか自然とそうなっていったのだ。
 二人で臨也の作った夕食を食べ、それぞれにお風呂も済ませ、後は寝るだけといったところ。
 ちなみに、本日は臨也が夕食を作ったため、お風呂は彼が先に入った。その間に、静雄は夕食の後片付けと皿洗いをしている。静雄が夕食を作った場合は、これの逆になる。
 ソファに横並びに座って、見ても見なくてもいい番組を流し見つつ、リラックスする時間。
 こういう些細な日常の瞬間でさえ、静雄と一緒だと思うと、臨也の胸はじんわりと温かくなってくる。
 ふと、静雄を横目で見やると、彼は眠たそうに何度か瞬きを繰り返していた。その後、ふわあ、と大きく口を開けて欠伸をする。
 くしゃみやしゃっくり等は、世間一般でいう“可愛い”には当てはまらない静雄だが、欠伸だけはその大きな体躯に似合わず可愛らしいのだ。
 のんびりと寝そべっている動物園のシロクマみたいだ、と臨也は思う。
 
 (シロクマのシズちゃんか……なんか本当にこんな名前のいそうだよね)
 
 お付き合いして半年経った今では、こうして気の抜けた様子を惜しげもなく見せてくれる静雄だが、当初は池袋で偶然顔を合わせるだけでも、なんだかぎこちない空気が流れていたものだ。
 そうして考えてみると、出会ってから重ねてきた年月とは比較にもならないが、確かに半年分の“お付き合い”の実績がここにはあった。 
 今振り返ったら、初対面から並々ならぬ想いを静雄に抱いてきた臨也にとってはまさに感涙もので。
 思わず熱い何かが込み上げそうになり、臨也は慌てて首を振って思考を打ち切った。

「あ? どうしたよ?」
 
 そんな臨也の不審な行動に眉を寄せた静雄が、訝しげに、でも、穏やかな声で尋ねる。
 静雄のやんわりとしたその空気に、また胸が詰まる思いの臨也だったが、そんな格好悪いところは見せられない。

「うん、なんでもない。ちょっと、眠たくなっちゃって」
 
 代わりに、さっき盗み見た静雄の様子をまるで自分のことのように口にした。 

「あー……俺もちょっとねみー……」
 
 言い終わらない内に、静雄は先程と同様に欠伸をする。

「ふふっ。シズちゃんの欠伸って可愛いなあ」
「ん、そうか? つか、こんなでかい男が可愛いふぁ……けねーだろ……」
 
 言葉の途中で欠伸を挟んできた静雄に、臨也は眩暈がしてきた。もはや、可愛い、などという一言では言い表せられない。これだけで、一晩中は独りで喋り続けられる勢いの臨也だった。

「んー、もう、寝るか?」
「うーん、そうだねえ……でも、その前に、キスしていい?」
「ん……いちいち聞くなばか」
「ええー、だってこの間は、いきなりすんな!って怒鳴ったじゃない」
「ばか! あれは、手前が道端でしてくっからだろうが」
「けど夜遅かったしさ、一応誰もいないか確認してからしたんだよ?」
「んなことを言ってんじゃねえ。外でしてくる奴があるか」
「えー……シズちゃんはしたくなかった……?」
 
 不安そうに静雄の顔を窺う臨也。しかし、騙されてはいけない。もちろん、これはただの振りである。

「……っ……誰もんなこと言ってねぇだろ……」
「ほんと? じゃーあ、これからもしていいよね?」
「おい、調子に乗ってんじゃねーぞ。外ではすんな外では」
「んー、分かった。じゃあ、家の中ならいいんだ?」
「だから、さっきからそう言ってんだろ」
 
 …………するならさっさとしろあほノミ蟲。
 付け加えてそう言った静雄は、一瞬チラッと臨也に視線を寄越した。その目元は、うっすら赤く染まっている。
 この反応は臨也の予想範囲内ではあったが、いつまでたっても静雄のこういう表情に慣れることはない。
 
 (だって、可愛い。本当に。ていうか、可愛すぎ。ああああもう、シズちゃんマジ天使!!)
 
 軽く頭の沸いたことをうっとりと思い浮かべながら、可愛い可愛い恋人に臨也はゆっくりと顔を近づけていく。
 対する静雄も最近は慣れたもので、静かに目を瞑り、その瞬間を待つ。
 だが、いつもならすぐに少し薄くて形良い唇が触れてくるはずなのに、今日はなかなかその心地良い感触がやってこない。
 痺れを切らした静雄が、少し瞼を持ち上げてみると、呆けたようにこちらを見つめる男の姿があった。

「いざや……? 何してんだ?」
「へ? あ、ごめん……ちょっとその……見惚れてちゃってた」
 
 だってさあ! 勢い喋り始めると、臨也は矢継ぎ早に言葉を続ける。
 シズちゃん可愛いんだもん! シズちゃんの目、俺すごい好きなんだけど、でも、やっぱ目ぇ閉じて俺のキス待ってるシズちゃんのキス待ち顔の可愛さと言ったらそりゃもう堪ん――
 突然音がぶつ切れたラジオみたいに、臨也の声が吸い込まれた。
 ――静雄の口の中に。

「ん、っ……」
 
 不意を突かれた驚きによって臨也の口から漏れ出た小さな声が、静雄の耳朶を打つ。
 その悩ましさに、キスを仕掛けた静雄の方が堪らなくなってしまった。
 日頃から感じてはいるのだが、静雄にしてみれば、臨也の発する声音は非常に艶めかしく響いて仕方ないのだ。
 当の臨也といえば、珍しく静雄の方からキスしてきたことに敬意を払ってか、最初は彼の好き勝手にさせていたけれど、途中からはもう主導権は臨也に渡っていた。
 静雄の首裏に手を回してきた臨也が、追い立てるように口内へ勢い良く舌を侵入させる。戸惑い怯えるように震える静雄の舌先。一気に緊張状態に陥ったのか、肩も上がってしまっている。
 そんな静雄に、怖くないよ、と言い聞かせるように、ふるふると小刻みに振動するそれに、ゆっくり自身の舌を触れ合わせる。
 すると、ほっとしたように肩の力を抜き、おずおずと舌を絡めてくる。
 まるで穢れを知らない少女のような振る舞いに――実際、知らないはずだ。そういう情報は得ているし、彼は自分とも未だにキス止まりなのだから――堪らなく興奮して、このまま押し倒しめちゃくちゃに犯してやりたくなる。そんな暴力にも似た情欲を、静雄の口内を少々乱暴に蹂躙する程度に抑えつけることに、臨也はなんとか成功した。こうした涙ぐましい努力を続ける自分を褒めてやりたくなったぐらいだ。
 その間にも、臨也の舌は静雄の口の中のどこかしこにも伸ばされる。舌表面だけではなく、舌の裏、綺麗に整列した歯列、上顎、果ては舌の根元まで。
 静雄の口内は、いつもどこか甘く儚い味がすると臨也は思っている。それは、彼の好物がプリンやショートケーキ等のいかにも女性や子どもが好んで食べそうな物だから、というだけでは説明がつかない。なにしろ、たとえ歯磨きをした直後でさえ彼の唾液はほんのりと甘く感じられるのだ。
 その理由を、今の臨也は知っている。静雄に思い知らされたのだ。

 (ねえ、シズちゃん分かってる? 君のせいなんだよ)
 
 溢れる好きを何度も何度も胸の内に押し止めながら、生温く甘くて切ない静雄の口中を味わう。
 その最中に、臨也はそっと瞼を開き、今は伏せられている静雄の目の辺りをじっと見つめる。
 感じ入ったようにぴくぴくと微動する瞼がとても可愛らしく、また色っぽい。
 こうしてキスの最中の静雄を観察するのが、臨也の密やかな楽しみだった。
 自分と唇を触れ合わせることに夢中になっている静雄が愛しくて堪らない。
 
 (可愛い。すき、好きだよ。大好き。シズちゃん……すき)
 
 繰り返し繰り返し、心中で呟く。今すぐにでも、面と向かって静雄に囁いてやりたい。でも、静雄とのキスだって止めたくない。
 一緒にすることはできないものか、と、もどかしくなる。
 ああ、それとも、こうやっていたら想いの千分の一でも伝わるのだろうか。
 舌を絡め合い、吸って、吸われて、やさしく舌を噛んで。息を継ぎながらも、唇を離すことはなく、角度を変えて深く深く交じり合う。
 その間中、何度か目を閉じては開き、臨也は静雄を盗み見た。
 そうして、幾度目だろう。またもや臨也が静雄を見ていると、突然同じように静雄が目を開けた。
 途端に、目が合う。静雄と。当たり前だ、臨也はずっと静雄を見つめ続けていたのだから。
 そして、臨也の瞳孔が驚愕で一回り大きくなる。
 彼は、気がついたのだ。ようやく、感じ取ることができた。
 静雄もまた臨也同様に、臨也のことを想ってくれているのだと。
 なぜそんなことが解るのか、なんて野暮なことを言ってはいけない。
 視線が交差した瞬間、静雄の瞳に映った臨也の紅玉に浮かぶ色と等しいもので静雄の琥珀が彩られていた。それだけで、理由としてはもう十分だろう。
 やがて、二人の色と温度は境界線を失い、溶け合っていった。




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