ふと、徹の耳に聞き覚えのある旋律が入ってくる。
ものみな寝静まる時間というにはまだ早いが、静謐の隙間を縫うようにして歌が聞こえた。
あの日縁側で葵の歌っていた、名前も知らない洋楽だ。耳を澄ませばどうやら彼女の家の方から聞こえてくるようで、跳ね返ってきたボールを手で掴みそちらに目を向ける。
色で言うなら青だ。掬い取った手のひらの海ように透き通った、透明な青。
線の細い声は色となって、徹の鼓膜を揺らしメロディーを耳小骨に伝えていく。
何故だかその歌を聞いていると、心が和らぐようだった。
臍の辺りで渦巻く劣等感が、きれいさっぱり洗い流されていく。
及川さん、呼ばれた名前は耳にこびりついて剥がれようとはしなかったが、いくらか落ち着いたようだ。
ボールを両手で持ち、大きく息を吸い込む。
空という巨大な画用紙に錐で穴を開け、そこから光が漏れているような錯覚に陥った。
徹に降り注ぐ微細な輝きを閉じた瞼の中で感じながら、神経を耳に集中させる。
やがて途切れた歌声と地面を踏む音に気付いて目を開けると、河野家の門に立った葵と目が合った。
愚かな世界だったなら
「……徹くんどうしたの、こんな時間に」
ゆるいシルエットの服にパーカーを一枚羽織っただけの葵が、徹を見ておっかなびっくり声をかける。
錆びた鉄の音を鳴らして敷地の外に出てきた彼女に曖昧な笑顔を見せ、徹は肩をすくめた。
「ちょっと、散歩に」
まさか祖父と険悪なムードになったから出てきたなんて言えない。
白々しくも軽い調子で言うと、葵はさして不審に思う様子もなく「そうなんだ」と返事をした。
「葵こそ、女の子がお散歩に出るには遅い時間じゃない?」
「私は外の空気を吸いに来たの」
「もしかして絵描いてた?」
「当たり。家の隣にアトリエがあるから、今の今までそこで、ね」
アトリエ、という言葉を聞いて、徹は内心驚く。
葵にはバレないよう表情は変えずに「へえ」と相槌を打ちながら、横目でこっそり彼女を見た。
ただの趣味にしては、本格的過ぎる。
そもそも大学生なのかどうかさえよくわからないが、少なくとも娯楽のない田舎での道楽として絵を描いているのであれば、家の隣にアトリエというのは些か大袈裟なのではないだろうか。
もしやプロなのか、と星を見る葵の横顔をそっと観察したが、どう考えたって20の女子が画家とは思えなかった。
「アトリエかあ、今度見たいな」
徹が何の気なしに徹が呟くと、葵の顔が一瞬凍り付いた。
え、と驚愕にも似た戸惑いの声が薄い唇から微かに漏れ出て、予想だにしなかった反応に徹も狼狽える。
油を差すのを忘れてしまったロボットのようなぎこちない動きで首を動かした葵は、どこか震えた声で「駄目だよ、恥ずかしいから」と笑った。
それは祖父の言葉を彷彿とさせる、拒絶が籠った声だった。
要するに、アトリエは見に来るなということらしい。
「あ、徹くんボール持ってる」
話を逸らすためか、葵が徹の持ったバレーボールを指差した。
お互いの顔は頭上からの月の明かりと星明かり、それから光度が白熱灯とは思えないレベルにまで落ちた街灯でのみでしか照らされず、細かい表情はいまいち読み取ることができない。
「バレーやろうよ徹くん!」
明るく言った葵の顔は暗くてはっきりとは見えなかったが、楽しげな提案に徹も頷いてボールを高く上げた。
綺麗な放物線を描いて、葵からボールが返ってくる。
額の前につくった三角形にピタッと球体がはまり、上へと押し出すように手首を使えば、それは重力に逆らい宙への軌道を描き始める。
ボールが指から完全に離れるまで、意識を途切らせてはいけない。指先にまで神経を張り巡らせ、角度を決める。
ごく久しぶりにオーバーでボールと触れたような気がして、徹は一寸先の闇に消えていく球を見た。
「そいっ」
6人でやるスポーツを2人でやるのは当然無理があるため、軽くパスをし合う。
徹の指が軽やかな音を立ててバレーボールを弾き、それを必死に目で追う葵もそこそこ上手かった。
「徹くんは、バレー好きじゃないの?」
コツを掴み始めた葵の指が、真上に向かってパスをする。
素面ではなかった筈だが、縁側での会話の内容を断片的にでも覚えているのだろうか。
月にかかるようにして夜空に上がったバレーボールは、徹めがけて一直線に落ちてくる。
「わからないや。前は好きだったけど、」
今は、もう。
その言葉は、徹自身が想像していたよりも頼りなく響いた。
落ちてきたボールを顔の前で受け止める。勢いを削がれたそれは運動の向きを瞬時に変え、葵が上げたのよりも更に高い位置に上っていく。
――――――お久しぶりです、及川さん。
ああ、まただ。呪詛のように絡み付いた声が、収まったと思っていたにも関わらず再発する。
非がないと知っているから、たちが悪いのだ。
無垢で無邪気でそれだけに残酷な、眩しいほどの才能の塊。
ニュースで見た後輩の顔が、記憶と共に回り始める。
「…………逃げて、来たんだ」
ボールを止めた徹の声に、「え?」と葵も疑問符を浮かべた。
片手でも持てるバレーボール。恐らく及川徹の21年間の歴史の中で、箸よりもシャーペンよりも長い時間触れ続けた物だ。
「昔から、才能とか天才って言葉が大嫌いだったんだよね。凡人には一生追い付けないってわかってたし、俺はどうやら神様に溺愛されて生まれてきたわけじゃなかったみたいだから」
始めたばかりの頃は、ボールに触るのがコートに立つのがチームメイトと喜びを分かち合うのが、ただ純粋に好きだった。
自分のトスで仲間がスパイクを決めるのは嬉しかったし、サーブを決めて名前を呼んでもらえるのも楽しかった。
ただ、そのバレーボールに焦りが見え始めたのは、間違いなく徹が中学3年に上がった時だろう。
ネットの向こう側に立ちはだかる強大すぎる壁に歯も立たなかったにも関わらず、今度はネットの味方側に脅威が現れたのだ。
「自分で言うのもなんだけど、俺結構バレー上手かったんだ。高校生の頃は県の4強にずっといたし、主将もやってたし、」
だけど、越えられない。
徹の行く手を常に阻み続けるその存在は、紛れもなく天性の才能だった。
牛島若利にあり、徹に無いもの。影山飛雄にあり、徹に無いもの。
運命の神は残虐なまでに残酷で、自らが与えた才を存分に発揮できる人間にチャンスを与えた。
「………本当は、もう1日遅れて来る予定だったんだけど」
『お久しぶりです、及川さん』
最後に会った時よりも更に伸びた身長。肩についた筋肉。提げたエナメルと、ジャージの背中の『JAPAN』という文字。
徹が競技バレーから足を引いた2年弱の間に、恐るべき後輩は日の丸を背負う場所にいた。
「一番会いたくない相手に、たまたま会っちゃったからさ」
へらへらしていると自覚済みの笑顔を、黙って聞いている葵に向ける。
徹に彼女の表情が見えないのだから、彼女も徹の表情が見えていないのだろうか。
だとしても、無理矢理笑ってでもいなければ今すぐ崩れ落ちて情けない姿を見せてしまうような気がした。
精一杯の強がりと見栄は、不格好な笑みとなる。
「……逃げたかった。バレーも何も関係の無いところで、才能なんかに振り回されない生活をしたかった」
最初の予定を変えて帰省する日を早めたのはその為だった。
たまたま地元に戻ってきていたのか、街で影山と出くわしたのだ。
日本代表に選ばれたのは知っていた。
整った顔立ちと正確無比なトス捌きで瞬く間にメディアに取り上げられ、一躍有名になったことも。
方や小学生の頃からの夢を叶えプロの選手に、方や夢を諦め地元の大学でお遊びバレーサークルのセッターとして週2回活動するだけだ。
高校時代にはネットを挟んで戦った両者の未来がこうも違うのは、何故だろうか。
「………………………私も」
それまでずっと口を閉ざしていた葵が、ぽつりと呟いた。
「私も、才能とか天才とか、そういう言葉大嫌い」
ただの相槌ではない強い想いの込められた声に、徹はそっかと返事をした。
お互いつらいね。
月明かりが流れてきた雲で緩やかに遮られていくのを見ながら、徹は目を擦った。
今夜は、星が目にしみる。
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