花環のワルツ | ナノ




柄杓に汲んだ水が、くすんだ灰色に落ちていく。
石に当たって跳ねた水滴が飛んでくるのに気にした様子もなく、徹はもう一度手首を傾けた。

祖父の体では頻繁に掃除に来るのは難しいのだろう。
及川の名が黒々と刻まれた墓石は雨風にさらされかなり汚れており、最後に来たのは2ヶ月前の月命日だという言葉を思い出した。
濡らした石を持ってきていたタワシで擦り、表面についた土を洗い流す。
ホースで水をかけるには水道が遠すぎるため、バケツに溜めてきた水をまた柄杓で掬った。

萎れてしまった花を抜き、代わりに祖母の好きだった真っ白い百合を綺麗に挿す。
百合の花言葉は何だったか、と幼い頃に聞かされた話を思い出そうと記憶を辿るもわからず、最近ボケたのかなあと溢した。
花を供えた後は線香を取り出し、二本の蝋燭にマッチで火をつける。
渋い緑色の先端にオレンジの炎を近付けるとあっという間に移り、やがて細い煙が立ち始めた。
この独特の匂いが、徹は結構好きだったりする。

未だ白煙を出し続ける線香をそっと立てて、静かに手を合わせた。
何年ぶりだろうか。訃報を聞いたのは3年前のこの時期だったが、中学、ましてや高校に入ってからは田舎に帰省する時間もなく、実際はもっとずっと前に会ったのが最後に違いない。
暗闇に包まれた瞼の裏で久しぶりと呟き、天国の祖母にただいまの挨拶をする。

徹は昔から、自他共に認めるおばあちゃん子だった。
父方の実家で父も徹も兄弟がいないため、ただ一人の孫ということもあり、愛情の全てを一身に注がれ育ってきたのだ。
毎年夏に帰るのが常となっていて、壊れかけて音のおかしいインターホンを鳴らせば、割烹着を着た祖母が笑顔で迎えてくれる。
しわくちゃの頬に浮かぶ笑窪は分かりにくかったが、にこにこと徹に目線を合わせてくれる祖母の事が、徹は大好きだった。


「…………無垢、だったっけ」


祖母の趣味は活け花と琴だ。
特に琴は体が思うように動かなくなる直前までは教室にも通っていて、70を過ぎてからも精力的に発表会に出ていた。

活け花はその合間にというか、暇があればやるといったスタンスで、しかしその腕は今思い返すとかなり良かったのだろう。
芸術的なセンスを必要とする物事は徹にはあまり向いておらず、幼い頃果敢に挑戦しては花を無駄にしてしまったのを覚えている。

無垢だ、確か。
不思議なもので、徹が生けてもへにゃりと首を垂らす花茎も、祖母がやると魔法のように美しく輝く。
居間に飾られていた剣山には大抵四季折々の花があったが、1年を通してもっともよく見たのは百合だったように思える。

祖母が楽しそうに語った百合の花言葉を思い出し呟くと、昨夜見た光景が浮かび上がり、思わず身震いした。
ないにも等しい街灯と月の光に照らされた、白いワンピースの少女。
百合のように白く可憐な姿は、無垢という花言葉がよく似合う。

いや、幽霊の事を考えたら、その手のものを呼んでしまうかも知れない。
細く折れそうな手指を赤に染めていたのが、見間違いでないことは確かである。
記憶をよくよく引っ張り出すとワンピースの布地にもやや赤い点があり、徹の中で密かに「少女惨殺説」が濃厚になってきた。

だめだ、幽霊だったら次見たときには死んだふりをしよう。
決心してからようやく拝んでいた手を崩し、徹は曲げた膝を伸ばして立ち上がった。







星の生る木の下







及川家の墓は実家から少し離れた、山の斜面を切り取ったような場所にある。
如何せん人口が少ないため墓石の数も他の墓地に比べて圧倒的に少ないが、晴れた日には村を一望でき、美しい景色を見せてくれる。
帰省をした次の日に早速そこに来た徹は今しがた使った柄杓をバケツの中に戻し、手で軽く扇いで蝋燭の火を消した。
太陽はまだてっぺんに来ているわけではないが、じわじわと肌の表面に汗を浮かせる暑さが身を包む。

家に帰ったら何をしようか。
朝お墓に行ってくると告げた徹に、祖父は新聞から目を離さないまま「そうか」と言っただけだった。
そんな祖父と二人で黙って同じ空間に居るというのは考えるだけで気が滅入るし、かと言って近くに同年代の知り合いがいるわけでもない。
むしろ年々子供の数は減っていっているらしいから、唯一の小学校も来年には廃校の予定だと母から聞いている。
コンビニはおろかスーパーマーケットさえすぐ近くにないという不便さに、徹は頭を抱えた。

法事はまだ何日か先だし、とりあえずゆっくり帰って、それから近所の人達に挨拶をしに行こう。
どうしても外せない用事があると言って入れ替わりに帰省する両親をやや恨めしく思いながらも、徹は諦めて墓地を後にした。





「…………ああ、」


それを思い出したのは、山を降りる為の石階段を下っている時だった。
墓場よりも高度は下がるが同じように開けた草原があって、その場所で遊んだことがある、と。

徹がまだ小学校の低学年の頃だろうか、確か近所で唯一人の同年代の子がいたのだ。
名前は忘れてしまったし、顔も朧気である。しかし確かに、徹は少女と遊んだ覚えがあった。

何故今の今まで忘れていたのか。
苔の生えた石を踏み締めた瞬間、頭の中へ強烈なイメージと共に舞い込んできた記憶。
そう言えば、彼女もワンピースを着ていたような気がする。

何となく気になってしまい、行きと比べて荷物が減り身軽になった体ひとつで、徹は思い出の草原に進行方向を変えた。





「あ、徹くん」


光の速さで徹が踵を返すと、草むらにしゃがんでいた昨日の幽霊(仮)が背後で「えっ、ちょっと待って!」と叫ぶのが聞こえた。
これはあれだ。振り向いたら呪われる的な何かに違いない。

懐かしい景色に目を細めて足を踏み入れた途端、だった。
先客がいるのかと視界の端に写った人影にピントを合わせると、徹の足音が聞こえたのか座っていた少女の首がこちらを向いた。
ばちんと目が合い間髪入れずに名前を呼ばれてしまい、一瞬フリーズした体の機能を無理矢理動かして背を向ける。


こんな所で会ったという事は、もしや俺は憑かれているのか。
無心になって口の中でうろ覚えの般若新行を唱えていると、右手を後ろから掴まれた。


「待って徹く、なんで、逃げる、の」


ぜいぜいと息を切らして言葉を紡ぐ幽霊は、やはり昨夜見た少女だった。
違うのは手が赤くない事と白いワンピースでないことだけで、胸まであるかないかという長さの髪を耳にかけていることも、徹の腕を掴む指の細さも記憶に新しい情報と合致する。

ひいひい言う少女は大きく深呼吸をして、落ち着いてから徹の目をキッと見た。
睨んでると言うよりは拗ねていると言った方がしっくり来る。
自分の体に触れている手がちゃんと実体でかつ温かい事に気付き、徹はやっと目の前の少女が生身の人間であることの確証を得た。


「もしかして、君は幽霊じゃないの?」

「え、幽霊?」


逆に聞き返されてしまい、徹は昨夜の自分の行動が果てしない早とちりだったのではと不安になってしまった。
というか実際完全な早とちりだったらしく、幼い顔立ちのままわかりやすく頬を膨らませ、少女はぷりぷりと言う。


「……いきなり帰ってきたと思ったら会った瞬間逃げられたから、知らない間に嫌われたのかと思ったんだよ」


大きなスケッチブックを持った少女は、先ほど思い出したこの場所で遊んだ少女と同じだ。
糸を手繰るように記憶がよみがえっていき、徹の口からはするりと声が漏れた。


「………葵?」


葵ちゃん徹くんと名前を呼びあって鬼ごっこをした。
10年以上前になる事でも人間案外覚えているものだなと、徹は自らの脳に感心する。
徹が呟いた名前はどうやら正解だったらしく、拗ねていた少女は一転満面の笑みを浮かべて大きく頷いた。


「―――久しぶり、徹くん」


お帰りなさい、とにこやかに言った葵に戸惑いつつもただいまと返し、徹は手持ち無沙汰に頬を掻く。
吹いた風が葵の髪の毛を煽ってシャンプーの甘い匂いが微かに鼻腔をつき、徹は詰めていた息を長く長く吐き出した。


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