花環のワルツ | ナノ




「…こんにちは」

「ああ……、君は」

「葵の友人です」


河野家のインターホンに指を伸ばしたスーツの男に、徹は声を掛けた。
面食らったようにまじまじと徹の顔を見た男は、やがて昨日家の前であった青年だと合点がいったように頷いた。


「あの、彼女に何の話をしに来てるんですか?」


徹の脳裏に、昨日二人で行ったあの草原で話す葵の姿がありありと浮かぶ。
オブラートに包むどころか非難の色さえ隠していない率直な質問に、男はぱちぱちと瞬きをした後、ふっと口許を弛めた。
嘲笑のような声が洩れ、おかしくてたまらないといった様子で男が笑う。


「何が、おかしいんですか」

「いや……友人の癖に、彼女から何も聞かされてないんだと思ってね」


怒りで頭がカッと熱くなるのを感じたが、気合いで収める。脳の中心を冷やすような感覚で、鼻から短く息を吸う。
飲み込まれるな。我を忘れるな。
挑発に乗ってたまるかと徹は表情筋に笑顔の指令を出し、柔和な笑みを嘲笑う男に向けた。


「葵が言いたくなさそうだったので、こうして直接聞いてるんです。他人にホイホイ教えられないような話をしているのは、貴方でしょう」


毅然と言い放った徹を見て「ほお」と愉快そうに肩を竦めた男は、インターホンにかけていた指を外して玄関から離れる。
家と柵の間を抜ける男に着いていくと、やがてすぐ裏に明らかに後から建てられたであろうプレハブの建物があった。
恐らく、これが葵のアトリエだ。

中で話をしようか、と我が物顔でドアノブに手をかけた男に対して、徹は「不法侵入で捕まりますよ」と憮然とした態度で告げる。


「ああ大丈夫。このアトリエは元々俺のだし、そもそも今現在葵と俺は血の繋がった親子だから」


表情を変えぬよう努めていた徹の口から、「は?」と気の抜けた声が出た。







云ったら君は何処へ行く







渋々入ったアトリエの中は想像以上にゴチャゴチャとしていて、チューブの絵の具がいくつか床に転がっていた。
またこんなに散らかしやがって、と文句を言いながらも散乱した画材を拾っている所を見ると、父親―――というか近しい者であるのは確からしい。

スペースとしてはあまり広くない。
布がかけられ絵が見えないようになっている5つのキャンバスで室内をかなり圧迫しているようで、座れそうなものは描く際に使うのであろう四角い木の椅子ひとつだった。


昨日葵に見せられたスケッチが、徹の瞼の裏に焼き付いて離れない。


『描き上げちゃいたかったんだ』


そう言ってさかさかと鉛筆を動かす葵の手から、次々と世界が生まれていく。
一望した村の景色と向こうに見える山々を正確に描いていく彼女の線に迷いはなく、徹の目の前で、平面が徐々に立体感を増していく。

鉛筆を握った手を止めぬまま、葵がゆっくりと話し始めた。
草木の揺れる音、風が去っていく音、さらわれて消え入ってしまいそうな声。


『………お父さんが、昔絵を描いてた人だったの』

「あいつに、葵に鉛筆を握らせたのは3才の時だったな。俺が画家崩れだったから、諦めきれなかった夢を託そうとしたんだよ」


宙を見つめて語りだした男の言葉に被さるようにして、葵の声が響く。


『小学生くらいの頃は、まだ普通にお絵かきが好きなだけの、どこにでもいる子供だったと思う。……それが、高学年になってから変わりだして』

「ある日完成した絵を見て、こいつは尋常じゃないセンスを持ってるって確信した。コンクールに出せば案の定表彰されたし、俺にはない才能の持ち主だってわかったんだ」


窓のないプレハブの中は空気の循環率が低く、段々と熱がこもっていくようだ。
壁にかけられた時計がカチカチと時間を刻む。言葉を挟むタイミングを掴めないまま、徹はじっと唇を引き結び男の話に耳を傾ける。


『……天才って言われるようになったのは、中学生になった位の頃だと思う。使える絵の具も増えたし、画材の幅もぐっと広がった。世界が一気に開けた感じがして、毎日絵ばっか描いてたなあ』

「葵の絵は必ずといっていいほど評価された。その頃俺がちょうど絵画関係の仕事に就いてたから、ツテで知り合った有名な評論家なんかに見てもらったりしたよ」


だけど、と。

二人の声がそれぞれの高さで、徹の耳に入ってきた。
エコーがかかる。重なった言葉は水面に落とされた絵の具のように、色の塊となって奥底へと沈んでいく。


『私、画家になる気は全くなかったんだ』

「葵がいきなり、絵を描きたくないって言い出した」


そこでようやく、葵は動かし続けていた手を止めたのだ。
スケッチブックには細部まで再現された村の景観がそのまま描かれており、軽く描いてこれなのかとクオリティの高さに徹は閉口した。


『ちなみに、何になりたかったの?』

『歌手』


想像もしていなかった答えに、驚嘆の声が出る。
そんな反応を予想していたのか、葵は「やっぱりそうなるよね」と笑った。

そう言われてみれば、記憶の中の葵は歌っている事が多いように思える。
けして下手な訳ではないが、絵に比べると他人との間に頭ひとつ飛び出ているとういうことはない。
きっと葵の父は、そういうことを言っているのだろう。


「俺は止めた。当たり前だ。歌ならあいつの代わりになる人間は腐るほどいるが、絵で並べる人間は世界のほんの一握りだからな」


『絵を描くことは、好き?』


徹の問いかけに数十秒黙り込んだ葵は、首を曖昧に傾げてふわりと笑った。
否定とも肯定とも取れない返答。


『多分、嫌いじゃないの』


嫌いじゃないけど、私の一番したいことじゃない。
嫌いじゃないけど、私の一番好きなことじゃない。


『絵をやめたいって言ったら、たくさんの人に反対されたんだ。勿体ない、勿体ないって。でもさ、勿体ないってどういう意味だろうね。好き好んで才能を手にいれた訳じゃないのに、どうして第三者に惜しがられなきゃいけないんだろうね』

「あいつは、間違いなく天才だ。今後100年先まであいつのような天才が現れるか現れないかと言われるほど、絵の神様に愛されてる」


壁に寄りかかって淡々と話をしていた葵の父は、キャンバスのひとつに近付くと被せられた布に手をかけた。
ばさり、徹の眼前に鬼才と言われた少女の作品が曝される。

息を呑んだ。
荒々しい筆遣い、キャンバスから昇り立つ情感に、背筋がぞわりと粟立つ。
次々と現れる河野葵の作品集を見て、徹は思わず「勿体ない」と言っていた。
芸術的なセンスが皆無である徹から見ても、素直に素晴らしいとわかる作品だった。
天才とはこういう人間のことを言うのだと、絵の具ののせられたキャンバスが徹に語りかけるようだ。


葵が絵の道から逸れようとしているというのは、例えるなら影山や牛島がバレーボールをやめるようなものだと、思ってしまった。
絵は、これで完成なのか。
美しい風景画の描かれたスケッチブックをパタンと閉じた葵は、立ち上がって吐き捨てた。


『才能とか天才とか、そういうの大っ嫌い』


徹の想いとは180度真逆の叫びが、その言葉には込められている。



才能ってさ、『神様から与えられた恩恵』なんかじゃなくて、『神様から課せられた義務』だと思うの。
貴方はこれをやりなさい、って、生まれたときから決まってるんだよ、きっと。
その才能が自分の好きなものとはまれば幸せだけど、はまらなくてもやらなきゃいけない。

それって、すごく不自由だよね。



自由になりたいとぼやいた葵の言葉を思い出していると、不意に入り口から物音がした。


「え……?何で、徹くんが、」

「俺が案内したんだよ。お前、使った道具くらいしまえ」


徹を見て固まった葵は、うろたえながらもプレハブの中を見る。
剥き出しになった絵と徹の表情に気付いたようで、何かを悟ったようにふっと息を吐いた。


「………徹くんは、私に絵を描くべきだって言う?」


脳髄が揺さぶられるような気がした。
なんと答えるのが最善なのか、全くもってわからない。
喉が乾く。口のなかが貼り付く。水分を失った空気が肺と喉の奥を往復し、やっとの思いで音をのせた。


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