トトロじゃなくて | ナノ




昨日の夜は9時に布団に入って、目覚ましのアラームと共に起きたのはぴったり6時。
健康極まりない、9時間睡眠を達成した私の体の調子はここ数年で一番じゃないかというほど良く、高鳴る心臓を無理矢理沈めて準備をする。
前日に必要な物は全て鞄に詰めておいた為、ご飯を食べて歯を磨いたら何となくする事がなくなった。
最後の足掻きとして単語の勉強だけしておこう。
何代目かの単語帳を開いて訳を確認しながら、おろしたての靴下の長さを調節する。

気が付くとテレビに映った時間は出なければならない時刻を指していて、埃をコロコロで取った綺麗なブレザーを羽織り慌てて玄関に立った。
茶色いローファーに足を突っ込み踵を合わせながら「行ってきまーす」と家の中に声をかけると、「頑張ってきてねー」と返事が返ってくる。
リビングから廊下に顔だけを出したお母さんが眠そうな目で手を振っており、私もその応援にガッツポーズで答えた。

スクバに揺れるお守りは、金糸で『合格祈願』と刺繍されている。
近所の神社に初詣に行った際買ったもので、オレンジ色という派手なデザインが気に入っていた。以来、今日までずっと鞄に付いている。



家を一歩出ると、予想以上の冷たい風が体に吹き付けて来た。
ヒョオォって擬音は本当にあるんだと納得しつつも眉をしかめ、動こうとしない足を気合いで前に進める。
マフラーに顔の半分を埋めてみたが気休めに過ぎず、制服の繊維の間を縫って寒さを貼り付けて去っていく風は、真冬のそれだった。


「………さっむ……」


毛糸のパンツとヒートテックのコンビでも、流石に2月の寒波には勝てないらしい。
11月の頃から例年以上の寒さと言われ続けてきたけど、今日が一番寒い気がする。

とは言ったって世界が突然暖かくなることはないので、私は意を決して駅に向かい始めた。

この辺りの学校の中でもかなり評判のいい烏野高校は、電車で2駅乗った先にある。
ファイルの中に入れた受験票を歩きがてら確認してからパスモを手に取った。

ホームには制服姿の学生が溢れかえっていて、皆緊張した面持ちで電車が来るのを待っている。
雪が降らなくてよかった、と今朝のラジオ放送を思いだしながら、周囲の受験生達と同じように列に並んだ。



同じ中学から烏野高校を受ける人はいたには居たが、仲良い友達は軒並み他校を受けるので、私は一人で会場に行かなければならない。
高校の校門をくぐると一際強い風に煽られて、スカートの中からダイレクトに冷気が入り込んでくる。
両手を擦りあわせて人の波に乗って進めば、心臓が先程よりも一層激しく鼓動を刻み始めた。

ああ、なんて心細いんだろう。

受験者の中には友達と来ている人もいて、「うわー緊張するね」「ね、まじでやばい」という会話をしているのが羨ましくてしょうがない。
この際誰でもいい、一回も喋った事のない人でもいいから、誰かと一緒に受ける教室に行きたい。

自分と同じ制服を着ている生徒を探し求めて忙しなく視線をさ迷わせていると、不意に私の視界に特徴的な髪型をした男子生徒が飛び込んできた。
恐らく入学時に大きめの物を買い、しかし思うように成長せず3年間経ってしまったのだろうと容易に想像出来る、サイズの合っていないブレザー。
髪の毛はツンツンと上を向いていて、何やら素敵な色をした前髪だけが額に降りている。

目を引いたその人は手元の受験票と壁に貼られた受験教室を何度も見比べて首を傾げていた。
皆が手早く自身の物と確認しそそくさと離れていく中で一人、困ったように頬を掻いている。
なんだかいたたまれなくなり、私は思わず近付いて声をかけてしまった。


「あの、大丈夫ですか?」


いざ近くに立ってみると彼は思ったよりも低い位置に目があった。
アーモンド型の瞳を二、三回瞬かせ、驚いたように私を見ている。


「あー…どこの教室か、わかんなくってさ」

「ちょっと受験票見せてもらってもいいですか?」

「お、おう」


バツが悪そうに頭を掻く彼の受験票を見る。番号と表を照らし合わせて探していると、端の方に目当ての数列が見つかった。
前に立っている人の頭でちょうど隠れているから、見えなかったに違いない。


「えっと、あの教室ですね」


指でその場所を指すと、少しだけ背伸びをして前を見た彼は「あ!」と嬉しそうな声を上げ、笑顔のまま私に振り返った。
「お前すげえな!」キラキラとした目で真正面からお礼を言われると、どこかむず痒い。どういたしまして、苦笑混じりに答える。


「なんか、礼になりそうなもん……」


ゴソゴソと自分の鞄の中をあさりだした彼はブレザーのポケットに手を突っ込むと、中から何かを引っ張り出した。


「悪い、こんなんしか持ってねえや」


そう言われて目の前に出てきたのは使い捨てカイロで、うまくリアクションが取れず行方を見守っていると、いきなり手を握られる。

うお、つめてえ。

びっくりしたように言った彼は私の掌にほかほかのカイロをしっかり握らせると、自身の手で包んでくれた。
あまり大きさの変わらない、けれどゴツゴツした手の温かさがじんわりと私に移っていく。


「体は冷やさない方がいいからな!」


ニカッと屈託のない笑みを浮かべた彼は最後にもう一度私の手をぎゅっと握り、「ほんとに助かった!」と走り去っていった。
手の中に残ったカイロは発熱反応を繰り返し、末端神経から順に暖めていく。
先程まで呆れるくらいにうるさかった心臓は、まさか手に移ったんじゃないだろうか。
名前も知らないあの人の触れていた指先がジンジンと強く痺れ、カイロからではない熱を持つ。


まさか、いや。


心の裏側にちらりと見え隠れした微かな感情を押し込めて、私は平然を装って自らの受験票を取り出した。


――――まさか、いや。


そこに並んだ番号が、さっき彼の代わりに探していたものとよく似ていたりなんか、しない、筈。
そう言い聞かせてみたものの心臓は元の位置で激しく脈を打ち始め、逸る気持ちを抑えて受験教室に向かった。


あの太陽みたいな笑顔の人と席が隣だったら、どうしようか。




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