「葵、遅刻するよ」
靴も履き終えとっくに玄関でスタンバイしている京ちゃんを廊下の先に見据えながら、慌てて靴下を履く。
マーガリンすら塗れてないパサパサの食パンをくわえたまま片足立ちでどうにか進んでいると、呆れを隠そうともしない大きな溜め息が聞こえた。
「だから言ったじゃん、ちゃんと準備しとけって」
「はっへ、ほうひへほひはひへへひは」
「あー、はいはい、俺が悪かった。だからさっさとして」
両手が塞がっているため唇と顎でどうにかパンを口内に押し込んでいき、その隙に靴下を履き終わった。
乱雑に教科書を突っ込んだ鞄を持ち上げ玄関に降りると、忙しない私に苦笑を漏らした京ちゃんは「ほら、」とドアを開ける。
ローファーに足を入れたところで靴下が左右逆なことに気付いたけど、今さらもう遅い。学校で直そう。
「京ちゃん、まだ間に合う?!」
「家出た瞬間ダッシュだからな」
鞄から出したネクタイを結ぶのは諦め丸めてポケットに入れると、1歩外に出ていた京ちゃんの長い指が、そのネクタイをひょいと取った。
男子の物とは微妙に色の違うそれを慣れた手つきで私の首に回し、綺麗に結ぶ。
きゅ、と襟元まできちんとつけられて、私は京ちゃんとネクタイを交互に見た。
「………急がなくていいの?」
「チャリだから大丈夫」
ほら行くぞ、とドアが大きく開けられて、気持ちのよい朝の風が、明かりが、家の中を駆け巡る。
それから、一足先に自転車に跨がった京ちゃんの後ろの荷台に腰を降ろした。
スクバをリュックのように背負って、目の前の腰に腕を回す。
ベージュと灰色を混ぜたみたいな不思議な色をしたカーディガンに頬を寄せると、生地はなんだかゴワゴワしていた。
しっかり捕まってろよ。どこか楽しげな声が聞こえた次の瞬間、体がぐん、と前に引っ張られる。
強くペダルを踏み込んだ京ちゃんは、爽やかな通学路を勢いよく走り始めた。
私はバランスを取りながら京ちゃんにしがみついて、お気に入りの鼻唄を歌う。
「えらくご機嫌ですね」
「京ちゃんと一緒に学校行くのが久しぶりでありますからな」
そう、なんと言っても今日は、珍しく京ちゃんが朝練のない日なのだ!
バレー部に入るのはわかっていたけど、その休みの少なさを聞いた時には度肝を抜かれたものだ。
その練習に見合った結果を出しているのだから、しょうがないのかも知れないけど。
「ねー京ちゃん、今日一緒に寝ていい?」
使う洗剤と柔軟剤は変わらない筈なのに、抱きついたカーディガンからは私とは確かに違う匂いがする。
大人っぽいような、でもけしてきつくはない清潔な香り。一生かかっても私からは分泌できなさそうな香り。
私より遥かに大きい背中に鼻を押し付けて、大好きな匂いを肺の隅々にまで行き渡らせていると、ハンドルを握った京ちゃんは軽い調子で答えた。
「葵が来ると体の熱全部持っていかれるから、嫌」
「えー。いいじゃん、可愛い妹からのお願い!」
「妹ならば兄の言うことを聞いてくださいー」
「兄って言ったって、何十秒かしか変わんないし」
「じゃあ妹からのお願いは聞く必要ないな」
む、と言葉を詰まらせて唸り、うりうりと顔を擦り付ける。
京ちゃんと言い合いをして勝った覚がないんだけど、神様はどうして私達双子を平等にしてくれなかったんだろうか。
私と京ちゃんは二卵性双生児というやつで、双子だけどあまり似ていない。
生まれた順番で京ちゃんが兄、私が妹である。
とは言え誕生日も学年も一緒だから、あまりお兄ちゃんだとは思えないのだ。
勉強もスポーツもできる京ちゃんは何かと有名人で、私も「おう、赤葦の妹」と言われることは多いのに、どうやら逆は皆無らしい。
先に出ていった京ちゃんにすべてを奪われてしまったのか、私は尋常じゃなく勉強も運動も苦手だ。
だから何でも出来る京ちゃんが少しだけ恨めしくもあるし、と同時に自慢の双子だったりもする。
要するに、私は京ちゃんのことが大好きだ。
「京ちゃん京ちゃん」
「なに」
「これ、遅刻しちゃうね」
アラームに震えたスマホを胸ポケットから取り出して、表示された時間を彼にも見えるように突き出す。
ちらりと一瞬目をやった京ちゃんは深い深い溜め息ついてから、更に強くペダルに体重をかけた。
一気に加速した自転車はコンクリートの上を滑るように進んでいき、それがなんだか楽しくて、思わず笑みが零れる。
「だから急げって言ったろ!」
咎める口調でありながら京ちゃんもどこか楽しそうな声色で、私は右手を突き上げて「進め、京治号!」と叫んだ。
花弁に埋もるる、
「……私の馬鹿…………」
めっちゃ面白い映画あるよ、貸してあげるから今夜見て!
嬉々とした表情でダビングされたDVDを渡してきたクラスメイトの顔に、頭の中でグーパンチを入れる。
ついでにお母さんもお父さんも今日は遅いから、リビングで見ちゃおうと思った、数時間前の自分もはたいてやりたい。
そもそも、おどろおどろしい音楽と共に『怨霊達のララバイ』という血文字が出てきた時点で、テレビの電源を切るべきだったのだ。
「……駄目だ、寝れる訳がない」
ララバイって響きも明るいし、もしかしたらそんなに怖くないのかも。
そんな甘い考えに好奇心も手伝って、結局2時間ガッツリホラー映画を見た。
部活から帰ってきた京ちゃんは青い顔の私に「どうしたの?」と尋ねてくれたけど、しょうもない意地が正直に白状するのを拒んだ。
ゆえに、私は今ベッドの上で一人、怨霊への恐怖と戦う羽目になっている。
時折鳴る物音が、必要以上に私の恐怖心を煽る。
晩ごはんのコロッケも胃の中で怯えているようで、布団をぴっちり被って目を瞑った。
しかし眠気は一向に訪れず、時計の針が進む音だけが大して広くもない部屋に響く。
このままじゃ夜が明けてしまう。
そう判断した私は体を起こして枕を掴み、毛布を脇に抱た状態でベッドから降りた。
ひんやりとした床に足をつけ、ひたひたと歩く。
廊下に出てすぐ隣のドアを音を立てないようにそっと開けると、静かな寝息が聞こえてきた。
深夜2時過ぎ、京ちゃんはすっかりと寝入っていて、ベッドにゆっくり忍び寄る。
いそいそと京ちゃんの布団に潜り込んで、枕をセットした。
「………?…葵……?」
身じろぎをした京ちゃんに小声で謝る。
「ごめん、起こしちゃった?」
「……なに、寝れないの………」
「いや、うん、そういう訳じゃなくて、えーと、京ちゃん寂しいかなって」
この期に及んで言い訳を述べてしまう自分が恥ずかしくないと言ったら嘘になるけど、やっぱり変な意地が邪魔した。
だけどそんな嘘は京ちゃんに通用しないようで、寝ぼけた彼は苦笑して、その大きな腕で私を包み込む。
「……ほら、明日もあるから早く寝ろ」
再び安らかな寝息を立て始めた京ちゃんの温かさに、力を抜いた。
同じご飯を食べて同じ石鹸で体を洗って同じ家で暮らしているにも関わらず、私とは違う京ちゃんの匂いが、いつもよりも強く香る。
―――胸に抱いた邪な想いを、京ちゃんはどれくらい気付いているのだろうか。
同じときにこの世に産み落とされた、大切な大切な私の半身。
どれだけ祈っても届かない願いから目をそらすように、私は京ちゃんにすり寄った。
触れ合った箇所から溶けてくっついて、やがて二人が一つになってしまえばいいのに。
世界が終わるその瞬間、私は花に囲まれた墓場で京ちゃんのしゃれこうべにキスをした。
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匿名様、リクエストありがとうございました。
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