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教室に設置された2つの扇風機はバラバラな動きで首を振り、夏休み明けでだれ気味の教室の空気を循環させる。
もうすぐ9月になるというのに目が痛くなるような眩しさの窓の外にはスカイブルーの空が広がっていて、まだまだ夏は真っ盛りだ。
生徒たちを眠らせるためにあるとしか思えない古典の授業に、当然の如くクラスの半数が負け、そして私もその一人だった。










世界にひとさじの奇跡を加えて










おじいちゃん先生の抑揚のない声が、右耳に入って左耳から抜けていく。
ノートの文字は途中で途切れていて、後で誰かに写させてもらわないとな、と気持ちのよい微睡みの中考えた。
風でふわりと浮く髪の毛、心地好い室温、お腹は絶妙に空いていない。
普段の2倍くらいの重量になった気がする頭をがくんと下げ、本格的に寝ようとしていると、左側の頭部に何かがぽこんと当たった。


「…………?」


何だろうと思って確認しようとするも睡魔に負けて、気付かなかったふりをする。
するとまた頭に軽い衝撃。3回目に何かが当てられてから、私はようやく溶接されたかのように離れない瞼を開いた。


「………なに…」


フォーカスの合わない目を左隣に向けると、相変わらずそこには表情の読めない顔があった。
瞬きを繰り返し目の前の靄をどうにか取って、中学の頃から変わらない、ともすれば冷たい印象さえ抱かせる瞳を見る。


「それ、捨てといて」

「は?」


薄い唇が言葉を紡いで、細い指が床に転がっているゴミを指差した。
ぐしゃぐしゃに丸められた紙を見ると、きっと今しがた私にぶつけられたのはこれなんだろう。


「……国見、あんたその為だけに私の安眠を妨げたの」


滔々とした古典教師の声の合間を縫うように、ひそひそと会話をする。

国見英という男とは同じ中学出身で、何かと接点があるクラスメイトだ。
知り合い以上であるのは確かだけど友人かと言われれば首を縦には振りにくい、何とも言えない関係。
つかず離れず、今も昔も気が付かないうちに私の近くに居る。


「3つも投げたのに河野が起きないから」

「……ふざけんなよおー……」


噛み殺す事もなく大きな欠伸をしながらゆるい抗議の意を示すと、頬杖をついた国見が「ぶっさいく」と口許を歪めた。

整った顔をしているな、とは思う。
肌は白くてキメ細かいし、唇は赤くて顔は小さい。
でも、クラスの女子達が言うように「英くんイケメン!やばい!」とはとても思えないのは、私がこいつの顔に慣れたからなのか。


「そうだ、国見宛に伝言預かったの忘れてた」

「……また?」


昨日のHRの後に「国見くんに伝えて」と言われていた事を、たった今思い出した。
中学の頃と合わせるとかなりの回数になるいつもの『伝言』に、国見が眉間に皺を寄せる。
それはこっちの台詞だ。


「『今日の放課後、部室棟の裏で待ってます』だってさ」

「誰から」

「えーっと……ああ、佐々木さん」


一番前の席に座ったポニーテールの女子を軽く指すと、国見は面倒臭そうに息を吐いた。
『河野さんって国見くんと付き合ってるの?』
『よかった』
『じゃあ国見くんに伝えておいてよ』
自分で言えよと言いたいのは山々だったけど、あと半年近く過ごすクラスで波風立てなくないなと考え、私は黙って頷いたのだ。
正直何回目かわからないやりとりに、『クニミクントツキアッテルノ』のゲシュタルト崩壊気味だった。


「パスで」

「パスとかないから」

「じゃあチェンジ」

「誰とだよ」


河野とチェンジ、と悪戯っぽく笑った国見を、はいはいと流す。
こいつはきっと付き合いが長いから言ってるんだろうけど、こっちからしてみれば、だから変な噂を立てられるんだよという気持ちだった。
無遠慮というか無意識というか、一気に私の間合いに詰め入ってくるような言動は、嫌じゃないけど周りの目が面倒なのだ。


「また断るの?」


教科書で顔を隠して国見にそう問うと、何言ってんだコイツとでも言いたげな瞳を向けられる。
いや、何で私がそんな目されるんだよ。


「なに、河野は俺に好きでもない女子と付き合えって言うの?」

「いやそうじゃないけど、国見モテんのに彼女居た事ないじゃん」

「まあいつも断ってるしね」

「あれだ、バレー部のナンタラ先輩とは真反対だ」


及川さんのこと?と聞かれて、頭の中で爽やかな笑顔を振り撒くナンタラ先輩を浮かべた。
周りの女の子の黄色い声は「オイカワサーン」と言っているから、多分その人だろう。


「あの人女の子大好きだよね」

「試合の度にうるさい女子がたくさん来るから、もうちょと対処考えてほしいけど」

「あ、私この間そのオイカワサンに声かけられたよ」


体育館の前を通った時に「葵ちゃーん!」呼び止められた時の事を思い出す。
今思うと、なんであの人は私の名前を知っていたんだろうか。

国見が話したのかな、と考えていると、急に真剣な目をした国見が捲し立てた。


「及川さんに?いつ?なんで?誰かと一緒にいた?何て言われた?口説かれてない?お茶に誘われてない?着いていってない?近くに岩泉さんとかいた?助け求めた?まさか変な事されてないよね?」

「え、いや、なんか、『君かあ、金田一の言ってた国見ちゃんの…ねえ』って言われた」

「……金田一をシメる」

「この会話の流れでなんでそうなんの?!」


私の返事を聞くなり妙に据わった目でシャーペンを握った国見をあわてて止めれば、渋々といった様子でそれを置く。
何故だろう、今だけはシャーペンが金田一の命の灯火を脅かす存在に感じられた。

おじいちゃん先生が教科書の文を読むのをやめ、板書に入る。
国見のせいかお陰か目はすっきりと覚めていて、私は力尽きたノートの続きを写し始めた。
先生は読むのも遅ければ書くのも遅い。
私達とは時間の流れが違う世界で生きてるんじゃないかと思うほどにゆっくりな先生の後ろ姿を見ながら、私は未だに半分以上夢の世界にフライアウェイした教室を見渡した。


「……伝言、ちゃんと伝えたからね」

「無理。俺好きな人いるから」


そんな事言わないであげてよ、と笑えば、不機嫌そうな顔をした国見が「……ほんと、鈍感にも程がある」と呟く。

さっき写しきれてなかった分も合わせて、黒板の文字をせっせとノートに取っていると、またしても私の左頭部に何かが当たった。
反射的に隣を見ても済ました横顔があるだけで、私は国見を睨んでから破られたノートの紙くずを拾う。
ついでに、とさっき当てられた3つも拾おうとすると、頭上から「今当てたやつ見て」という声が降ってきた。

手から溢れそうになるそれらを机の上に置いてから、私はたった今投げられた紙くずを手に取る。
面倒くさいと思いながらもそれを広げると、そこには国見の字で一文だけ。

『やっぱり河野とチェンジ』

だから無理だって、とため息をつきつつ、何の気なしに最初の1個を開いてみた。


「っ?!」


予想だにしなかった言葉に、慌てて残りも全て確認する。
おかしい。いやいやいや、ないない。
バッと国見を見ればばっちり目が合って、机上に広げた4枚の紙を指差して「ダウト!」と口パクしたら、にやにやと笑いながら首を横に振られた。

嘘でしょ、あり得ない。


「ほんとだっつーの」


私の心を読んだかのようなタイミングで放たれた言葉が、頭の中でぐるぐると回る。
いやだって、今までそんな素振り全くなかったし。国見との付き合いは3年目くらいになるけど、一度たりともそんな話は出てきた事ない。


「……い、いつから」

「中2の夏」

「冗談きついぜ英さん」

「俺が真顔で冗談かますタイプに見えんの?」

「ノー、アイドント…」


いつもと変わらない無表情を貫く国見の横顔を見て、青のグラデーションが美しい窓の外を見て、それからもう一度手元の紙を見た。
丸められたせいでしわくちゃの文字。
国見の綺麗な字は微かに熱を持っているような気がして、私は思わず指でなぞった。


さあ、ゲシュタルト崩壊を起こすあの質問に、次からはなんて答えようか。



『河野の事が好きなんだけど』

『いい加減気づいてくれない?』

『待つのはもう飽きた』





 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
燕様、リクエストありがとうございました。


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