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女は役者だと誰かが言った。
所詮男は美しい彼女達の嘘も演技も見抜けないもので、結局は手のひらの上で転がされ遊ばれているだけなのだ、と。




「葵せんせー、次のテストの問題教えてー」

「えー、駄目よそんなの。ちゃんと勉強しなさい」

「いいじゃんケチー」

「駄目ったら駄目。ほら、先生出るからどいて」


ブーイングを聞き流しながら、教卓で教材を整えていた葵は立ち上がった。頬杖をついてその様子を見ていた俺は、毎度毎度大変だなと他人事のように息を吐く。実際問題他人事なのだから別に構わないのだけど。

クラスの男子数名に囲まれた数学教師の河野葵は、困ったように笑う。
育ち盛りの男子高校生に比べると葵はどうしても小さく、必然的に道をふさぐ男たちを見上げることになっていた。彼女の真正面に立ったクラスメイトは心なしかにやにやしていて、不審に思いその視線を追う。

顔よりもかなり下に向けられた目は、スーツの上着をやわく押し上げる胸元に注がれていた。恐らく斜め上からはよく見えるのだろう、しかし葵はその目線に気づくことなく通りすぎようとしている。
まあ俺には関係ないかと欠伸をし、次の授業の準備をしようと席を立った時、不意に鈴の鳴るような声で名前を呼ばれた。


「あ、そうだ影山くん」


まるで今思い出したとでもいうような口調で、声の主はにっこりと微笑む。
嫌な予感しかしなかったが無視する訳にもいかず、俺は渋々返事をした。


「…………なんスか」

「この荷物準備室に運ぶの手伝ってくれない?」


あくまで柔和な笑みを崩さないのがかえって胡散臭く、思わず眉根を寄せる。「なんで影山なの葵せんせ」と不満げに言う奴等に心の中でこっちの台詞だと返した。
表情を変えない葵は「だった影山くん数学の係でしょ」と初耳極まりない言葉を発する。そもそも教科の係という制度はなく、うちのクラスでは雑務系は基本日直がやることになっていた。

反論するべく口を開いた瞬間、俺は間髪入れずにその口を閉じる。俺を真っ直ぐ見つめる葵の目は異様なまでに凄みを帯びていて、その奥は暗に「余計なこと言うな」と語りかけていた。
刷り込みというのは恐ろしいもので、俺の脳裏には瞬時に幼い頃のトラウマが次々と浮かぶ。すべてを諦めた結果葵から目を逸らし、気が付けば言葉を返していた。


「…あー……そうでした…」


「は?」と訝しげな目で見られるのには気付かないふりをして、黒板の前に立つ葵の元に行く。篭に入った教材を両腕で抱えてから、にこにこと普段の笑顔に戻った葵の後を追った。












宝石を食べる金魚












数学準備室は埃っぽく、かつ汚かった。教科書やら書類やらが床に散乱していて、足の踏み場を探す方が大変である。
散らばった紙類を拾って適当に重ねてから、葵は振り返ることなく「それ、そこ置いといて」とぶっきらぼうに指をさした。さきほどまでの愛想の行方をぜひとも問い正したかったものの、どうにか我慢する。
葵が慣れた手つきで部屋の窓を開けると、強い風が吹き込んできた。その拍子にまた数枚プリントが舞い、しかし気にすることなく椅子を引いた。
ドカッと勢いよく座った葵は後ろに束ねていた髪の毛をほどき、根本をほぐすように頭を掻く。その姿はとてもさっきの『おっとり』キャラには似ても似つかず、女は怖いと小さく呟いた。


「……あーーーー、うっとうしかった!」


長い溜め息を織り混ぜて吐き出された言葉は、鬱憤を晴らすかのように苦々しい口調だ。背もたれに体重を預けた葵はちらりと俺を見て、「何よ」とふんぞり返る。


「……いや、大した演技力だなって思っただけっス」

「褒めないでよ、照れないけど。あとその微妙な敬語やめて気持ち悪い」


あまりな物言いに辟易するが、思い返せばこっちがこいつの本性なのだ。文句を言うことは選択肢から早々に外し、砕けたしゃべり方に戻す。


「で、俺はいつから数学係になった」

「そんなの私が知るわけないじゃない」


しれっと言い放った幼馴染みを睨むと睨み返された。美人がすごむと迫力があるな、なんて整った顔を見ながら考える。
記憶にある中でほとんど変わらない顔、抜群のプロポーション、実年齢は数年前から怖くて聞けていない。とは言え年の差を考えると俺より二回り以上上なのだから、三十路に足は突っ込んでいるのは間違いないだろう。
にも関わらず年を感じさせないキメ細やかな肌といい、年々磨きのかかっている体といい、もはや化け物じみている。


「あーあ、肩凝ったぁ。飛雄、あんたちょっとマッサージしなさいよ」


悲しいかな慣れというものが作用し、俺は黙ってその指示に従った。椅子をくるりと回転させこちらに背中を向ける。
細い肩に手を当てると、その予想以上の薄さに驚いた。しかし一度揉みほぐそうと指を動かせばバキバキという表現に相応しいほど凝っており、こんな奴でも仕事はちゃんとやってんのかと素直に感心した。


葵はいわゆる幼馴染みで、親同士の仲が良かったことと近所だったこともあり、昔からそれなりに交流がある。
俺が小学校に入学した時には葵は既に高校を卒業していたから、立ち位置的にはかなり年の離れた姉弟といった所か。

親からの話で教師になったとは聞いていたが、まさか烏野だったとは。春、入学したばかりの時期に久しぶりの再会を果たした時のことは死ぬまで忘れないし、あのときのすさまじい眼力は死んでも忘れられないだろう。

元々、外面が極端にいいことは知っていたつもりだった。
葵の性格は良いか悪いかと言われれば悪く、腹の中は白いか黒いかと言われれば真っ黒である。女王様気質とでも言おうか、とにかく俺は昔から彼女のパシリをやらされていた。まあずっと年上の美人の幼馴染みに構ってもらえるのが嬉しかったというのもある。
とは言ったって俺の中で葵は軽く恐怖の対象で、そんなイメージは彼女の高校の文化祭に行った時に衝撃を迎えた。
てっきりクラスメイトをパシっているものだと思っていた葵は自ら率先して仕事をこなし、皆から慕われていたのだ。そこにはいつもの不遜な笑みは欠片もなく、ぶっちゃけこいつは誰だと二度見した。

そんな経験があった俺は晴れて烏野高校に入学し葵と再会してから、彼女の演技に磨きがかかったことを身に染みて感じることになる。


「は?マドンナ?」


俺が何気なく洩らした言葉に、葵は予想以上の食い付きを見せた。反芻された声に首肯すればたちまち大爆笑され、この様子をクラスメイトに見せてやりたいと心底思う。

烏野高校のマドンナ。
どういうわけか葵はそんな異名をつけられている。生徒達を始めとし教師、事務員、果ては清掃の業者さんまで、葵の事を口を揃えて誉めるというのだ。


「ぶふっ……やっば、マドンナとか傑作だわ」

「俺もそう思う」

「飛雄あんたなめてんじゃないわよ」

「理不尽だろ……」


深く頷いた途端マッサージを続けていた手の甲を思いきりつねられ、思わず力が抜けた。するとすぐに「ほら、しっかり揉みなさい!」と激が飛び、なかなかどうして河野葵という女はわがままで自分勝手な奴だ。
お前ら全員騙されてるよとマドンナ呼びをする人間ひとりひとりに言って回りたいが、そんなことをすればどんな報復が待っているか知れたもんじゃない。だから俺は今日も、この理不尽さにそっと耐えるしかないのだろう。


女は役者だと誰かが言った。
所詮男は美しい彼女達の嘘も演技も見抜けないもので、結局は手のひらの上で転がされ遊ばれているだけなのだ、と。
だけどまあ、葵の我儘にもう少し付き合ってやろうと思える程度に、俺も彼女のことを気に入っているのだろう。彼女が俺のことを少なからず気に入っているくらいには、きっと。




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笹山様、リクエストありがとうございました。


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