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約束の時間は午前10時、そのきっかり5分前に鳴ったインターホンの呼び出し音に、私は慌てて上着を羽織った。この日の為に買ったと言っても過言ではないクリーム色のコートは、新品らしく皺ひとつない。
廊下に顔だけ出して「ちょ、ちょっと待ってください!」と声をかけ、最後の確認をしようと鏡の前に立った。
髪型から視線を足元に滑らせてから、鏡に近づきお気に入りのリップクリームを唇に塗る。パステルカラーの鞄を肩からかけて、準備は完了だ。スカートの裾にほんの少しだけコロンを振り、玄関に向かう。

気持ちヒールのある靴に足を入れて、小さく深呼吸をした。数えるほどしかしたことのないデートの直前はやっぱり緊張して、胸に手を当て暴れる心臓と闘う。

意を決してドアを押し開けた瞬間、予想以上に眩しい日差しに思わず目を瞑ってしまった。


「わっ」

「おっと」


勢いよく開いたドアに引っ張られるようにして、私の体は前に傾く。倒れる!と思い反射的に強張った筋肉は、以外にもぽすんと何かに支えられた。
思わず掴んだのは洋服で、しかも前にいるのは菅原さんだということに気付くのに、そう時間はかからなかった。大慌てで体を離せば頭上からは楽しげな笑い声が聞こえてきて、恐る恐る見上げる。


「すっ、すみません!」

「葵焦りすぎだろー、落ち着け。な?」

晴れやかな笑顔を浮かべた菅原さんは日の光の力もプラスして益々神々しく、合わせようとした目線を逸らしてしまった。色素の薄い髪はふわふわとウェーブをかけており、柔和な笑みを一層引き立てる。

首元にお洒落なストールを巻いた菅原さんの私服は直視するのが辛いほどに眩しくて、自らの格好に目をやった。
なんだかよく見たら、私の洋服は子供っぽいような気がしたのだ。ただでさえ年齢が二つ下なのに、格好まで子供だったら隣に並ぶのが申し訳ない。
そんなことを考えながらスカートを指先で摘まんでみると、ちらりと辺りを確認した菅原さんに名前を呼ばれた。はい、と顔を上げると間髪入れずに顎を掬われ、訳もわからぬまま唇が重ねられる。


「、っ?!」

「よし、とれた?」


あまりの衝撃に頭がついていかず、べろりと艶かしく唇をなめた菅原さんを見る。とれた、の意味に気付いたのは手に小さな袋を載せられてからで、私は目の前の彼がくれた袋の中身をそっと開けてみた。


「わ……、」

「ほれ貸してみ」


現れたのは明るい桜色のルージュだ。持ち手の部分にストーンが付いていて、日光に反射しキラキラと光っている。
どうしたんですか、と尋ねる為に視線を向けると、手の中の口紅は菅原さんの長い指にひょいと取られた。


「うん、やっぱり似合う」


何をされるのかと身構えた私の頬に綺麗な手が添えられ、今しがたのルージュが唇にあてがわれる。
なぞるように滑る口紅を他人に塗られるのは初めてで、状況を掴めないまま瞬きを繰り返した。ごく間近にある菅原さんの顔に鼓動がかつてない速さになるが、動くことが出来ないまま身を委ねる。

端までしっかりと塗った菅原さんは私の顔を満足げに見てから、ルージュのキャップを閉めた。


「あの、菅原さん?」

「これがひとつ目ね」


それを元の袋にしまい私の手に握らせた菅原さんはにっと口角をあげ、新しい悪戯を見付けた小学生のような笑顔を浮かべる。
ひとつ目ということは、ふたつ目があるのだろうか。菅原さんの言わんとすることがいまいち理解出来ず、渡されたルージュと彼の顔を交互に見る。


「行こう!」


自然に手を取られて、足を踏み出した菅原さんに引かれた。キラキラ光る太陽みたいな笑顔の菅原さんは軽い足取りで、私もつられて笑顔になる。
春の陽気に包まれながら、温かい陽に照らされた道を私たちは二人で歩き始めた。













やさしい春をあげる













最近出来たばかりのショッピングモールは人が溢れていて、はぐれないようにと繋いだ指に力が入る。後頭部しか見えない菅原さんは何度も振り返り「大丈夫?」と聞いてくれて、私はその度に返事をするのが精一杯だった。
彼は決して無理矢理進むことはなく、やっぱり女の子の扱いに慣れてるなあ、なんて妙な所で思ってしまう。そりゃこんなに格好よくて性格まで良いのだ、世の女性が放っておく訳がない。
一瞬暗くなってしまった思考を振り払うように繋がれた右手に力を込めれば、私よりも幾分強い力で握り返された。それだけで小さなモヤモヤはなくなってしまうのだから、中々どうして私という奴は単純だ。





「葵、それ欲しいの?」

「えっ、あ、はい……可愛いなって」


雑貨店で手に取ったマグカップを見ていると、後ろから菅原さんに声をかけられた。驚きのあまり落としそうになったそれを間一髪持ち直して、しどろもどろになりながら答える。
柔らかいタッチの羊のイラストが描かれたマグカップは普段使いにちょうどいいサイズで、加えてペアデザインになっていた。
「ふーん」と頷いた菅原さんは「じゃあ買ってくる」と軽い調子で言って箱入りの商品を手に取る。


「いえ、そんな悪いですよ!私買ってきます!」

「えー、遠慮しなくていいのに」

「だって私口紅も貰ってますし…、」


渋る私に唇を尖らせた菅原さんは不意にぱっと顔を輝かせて、「なら一個ずつ買おっか」と言った。ピンク色の方を私が、水色の方を菅原さんが。可愛らしい羊柄を二人で一つずつ持ちレジに並ぶ。


「そういやこの羊、葵に似てるよな」

パッケージにデザインされたマグカップと同じイラストを見て、菅原さんは私と比べるようにそれを掲げた。

あまりのジャストタイミングさに、驚く。それからむず痒いような恥ずかしいような不思議な嬉しさが体を這って、私は「そうですかね」と曖昧な返事しか出来なかった。
私がこのマグカップを見てたのは、貴方に似てると思ったからです、なんて。





「菅原さん……っ、」


両手にショップの袋を提げた菅原さんは、私の声に反応して振り向いた。買い物も食事も一通り済み、時刻は夜の7時頃を回っている。ずっと建物の中にいるのであまりわからないが、外はとっくに日が落ちているだろう。


「ご飯代くらい、私に払わせてください!」

「だから、いいの。今日は俺が葵に色々してあげたい日なの」

「でも、どうして私があのお店行きたいって知ってたんですか?」

「んー、秘密」


悪戯っぽく微笑んだ菅原さんの背中を追いかけ、納得いかないまま隣を歩く。今連れていってもらったのはここのショッピングモールに入っているレストランで、美味しい料理とリーズナブルさで売っているお店だった。いつも並んでいて諦めるそこにすんなりと入れたのは、他でもない菅原さんが予め予約を入れてくれていたからだ。
あの店に行きたがっていた事を、彼に言った覚えはない。まさか、誰かに聞いてくれたのだろうか。とにかく至れり尽くせりで、こちらの方が萎縮してしまう。


「葵門限とか大丈夫?」


菅原さんの言葉で、今の時間を思い出した。はぐらかされたのはわかったけど「そろそろです」と言うしかなくて、私たちはショッピングモールを後にした。





外はもうすっかり暗く、星がまばらに輝く空の下を歩く。閑静な住宅街には二人分の足音がテンポよく響き、行きと同じ道を進んでいる筈なのに空気が全く違った。
春の夜はまだ肌寒く、吹いてくる風は冷たい。ご飯の件は結局私が折れて、菅原さんのご厚意に甘えることになった。その代わり、持ってもらっていた荷物はきちんと自分で持っている。


「あの菅原さん、今日はどうしてこんなに色々してくれたんですか?」


デート中ずっと考えていた疑問を、思いきってぶつけてみた。菅原さんはぱちぱちと目を瞬かせ、そして空を見たまま口を開く。


「だって、記念日だからね」

「?…記念日、ですか?」

「そう。今日付き合って1ヶ月でしょ」


菅原さんの言葉に、一月前の出来事を頭の中で回想した。彼の卒業式の日、私は泣きそうになりながら告白したのだ。玉砕覚悟で挑んだにも関わらず結果はあっさりオーケーで、更に泣きじゃくったのを覚えている。


「よって今日一日は、俺から葵へのプレゼントデーでした!」


まさかそんなことだとは思っていなかったので、私を襲ったのは焦りだった。菅原さんが記念日を覚えていたというのに、私と来たらどうだ。プレゼントなんて何も用意してないじゃないか。


「……それに、春休み終わったら会う頻度減るかも知れないし、ね」


少し重いトーンで吐かれた答えに、心臓を直接握られたように感じた。菅原さんは今年卒業してしまったのだから、この休みが終われば彼のいない学校に通わなくてはならないのだ。
そう考えるとまた目頭が熱くなってしまい、一ヶ月前散々流した筈の涙がぶり返す。足を止めてしまった私を見た菅原さんは「あー、悪い」と苦笑を洩らし、私の腕を引いて抱き締めてくれた。背中をポンポンと叩かれてしまうともう駄目で、どうにか塞き止めていた涙腺が決壊する。


「っ、ごめんなさ、い、私何もっ、すがわらさんにできてなくて、」

「いいから、気にすんなって。今日俺は葵とデート出来ただけで嬉しいから」

「でも、私も、」

「あ、じゃあ、俺のお願い聞いて」


いいこと思い付いた、とばかりに言われた言葉に、顔を上げた。真正面から目を合わせた菅原さんは穏やかな笑みを浮かべたまま、唇が動く。


「そろそろ孝支って呼んでよ」


俺はもうずっと葵って呼んでるのに。

彼らしいお願いに、涙を拭って頷いた。菅原さんは私の鼻をきゅ、とつまむと「ほら、泣かないの」と困ったように笑う。額に落とされた優しいキスは小さくリップ音を立て、夜はゆっくりと更けていくのであった。

神様、この人とどうかこれから先も、どうか。





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麗兎様、リクエストありがとうございました。


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