イノセントグライダー | ナノ




河野葵は記憶にある中で、自分から友達を作れた試しがなかった。
それは『作れた』ことがないだけであって、『いなかった』わけではない。幼稚園生の頃や小学校の低学年までは席の近い子やたまたま目が合っただけの子なんかでも葵を遊びに誘ってくれたし、何となくその場でニコニコしていればどうにかなっていた節がある。

しかしそんなスタンスでいられたのも幼少と呼ばれる時期までであり、中学年高学年と年を重ねるにつれて、友達は『できる』ものではなく『作る』ものなのだと思い知った。
隣の席になったとしても話しかけなければ。話しかけられた時に何か言葉を返せなければ。
相手の目を見て、その場の空気に適応し順応し、適度なボリュームでユーモアのある言葉を返せなければ、もう自分には話しかけてはくれないのだと知った。

元々社交的な方ではないことは、葵は自分でもわかっている。引っ込み思案で優柔不断で、唯一友人と呼べるのは幼馴染みくらいだ。


『――――河野さんって、なんか暗い』


その臆病さに拍車をかけたのは、間違いなく小学6年生のときにクラスの女子から放たれた一言である。忘れ物をしたと昇降口から教室に戻ってきた際に中から不意に聞こえてきた声を、葵は一生忘れないだろう。

きゃらきゃらとした、可愛らしい声だった。明るくて、弾むようなトーンだった。
声の主は葵のクラスメイトで、いつも皆の中心にいる派手で気の強い、声に相応しく可愛らしい少女であることは容易にわかった。わかった瞬間、葵の足はすくんで動けなくなってしまったのだ。


『なんかさあ、顔は別に悪くないと思うんだけど、いっつもいっつもオドオドしてキョドキョドして、あたしああいうタイプの子って見ててイライラするんだよね』


教室のドアにもたれ掛かって、葵は息を殺す。唐突に早鐘を打ち出した心臓の音はうるさいほど響いているのに、耳に入ってくる言葉の数々はいやになるほど透き通っている。
頭が芯からすっと冷えていくようだった。緊張と恐怖と驚きがない交ぜになった脳は沸騰しそうなくらいに熱いのに、どうしてか耳も頭も冷静に冷淡に冷酷に非情な声を拾う。

葵にとって、初めて自身に直接向けられた悪意。いや、相手は葵がすぐそばで聞いているなど考えてもいなかったのだから、直接ではないかも知れない。
だが活発に誰かと喋ったことのない葵からしてみれば、それは十分直接的な言葉だったのだ。今までも、そしてこれから先もずっと、自分のいない所ないしはいる所で悪口を言われるんだと思い詰めさせる程度には。


鈴の鳴るような軽やかな音色が鮮やかな笑い声に変わったとき、葵は気が付けばその場を離れ走り去っていた。階段を駆け降り、乱暴に靴を履き、逃げるように帰路を走る。涙は出なかった。ただしその代わり、心臓は血を流しているかのようにズキズキと痛んでいた。

以来葵は、前にも増して極端に人付き合いが苦手になった。
特に大勢の目が自分に向けられるのが苦手だ。その瞳の真意は別として、自分を見られるのが怖い。
多くの人と関わりを持つことは、多くの人から悪く思われる可能性が上がるということ。
中学の3年間はその極端とも言える思想が常に葵を支配し、ろくな人間関係も築けていない。


高校生になり部活に入ったことで、葵の人見知りは中学時代のそれに比べていくらか改善する。
元来どちらかと言えば女子に対する恐怖の方が割合が大きかった為、柔和な男子相手というのは比較的心が楽だった。かつての部長(まあ幽霊部員だが)のお陰で昔よりは多少他人とコミュニケーションを取れるようになったし、若干上がり症も改善しつつあるような気がする。


クラスの皆に一斉に話しかけられた日のことを思い出して、葵はベッドの上で一人顔を覆った。まさか自分があんな風に誰かに誉めてもらえる日が来るなんて。大勢の人と話せる日が来るなんて。
それもこれも全部、と思い浮かんだのは後ろの席のツンツン頭だ。


「…………………に、…しのやくん…」


ぼそりと呟いた言葉が脳内で反芻され、復唱され、耳元にこびりつく。部屋で一人名前を呼んだという事実がひどく恥ずかしく思えてきて、葵は手のひらに覆われた頬をじわりと熱くした。

西谷夕。
彼は、恩人以外の何者でもない。


「……今度、ちゃんとお礼しよう」


ベッドのスプリングを使って勢いよく上半身を跳ね起こした葵は気合いを入れるかの如く、自らの赤い頬をぱしんと叩いた。










五つ子の流星群











「―――――で、その西谷サンとやらのお礼は何にしたらいいか……葵はそう言ってるわけね」

「イエス、ボス」

「んなの自分でお考えなさい」


名前の正面に座った少女がにっこりと微笑み、柔らかな拒絶をした。首を微かに傾げたせいで頭のお団子が揺れ、店内の照明に髪飾りがちらりと光る。
唯一無二の幼馴染みによる無慈悲な答えに、葵はすがるように再度頼み込んだ。


「だって、むっちゃんしか頼れる人いないんだもん……」


むっちゃん、と呼ばれたのは葵の昔馴染みの伊東睦月(愛称むっちゃん)である。
放課後珍しく葵から遊びに誘われたな、と行ってみれば『救世主様へのお礼は何がよいだろうか』と持ちかけられた彼女は、これ見よがしに溜め息を吐いた。


「そんなこと言われたって、ねえ……私は西谷サンのことをよく知らないわけだし」

「う……で、でも、私より男の子の喜ぶもの知ってるでしょ?これまで数々の男を手玉に取ってきたむっちゃんならば!!」

「……葵は私を何だと思ってるのさ」

「すごくモテる子」

「よろしい、大切な大切な幼馴染みの為にはこの伊東睦月、一肌脱ぐしか無さそうだな」


わーい、と手を叩く葵を満足そうに見た睦月は、手元のイチゴシェイクを一口飲んで身を乗り出す。その拍子にプレートがぶつかり袋からポテトがこぼれ、葵は何も言わずにそれを食べた。


「いいこと葵、よくお聞きなさい。男が一番喜ぶプレゼントはね……」


真剣な顔をした睦月につられて葵も表情を固くし、固唾を飲んで次の言葉を待つ。


「……………その男が一番望んでいるものよ!」


数秒の間があって、瞬きを繰り返す葵はゆっくり首を傾げた。
そして今しがたのアドバイスを脳に書き留め忘れないよう厳重に注意したところで、ようやく処理が追い付く。


「それがわかれば苦労しないんだって!」

「そんなのは葵が頑張りなさい!」

「むっちゃん真面目に考えてよ!」

「だって女はプレゼントされる側でしょ?プレゼントをするなんて考えたこともないっちゅーねん!」

「うわー、出たよモテる人の発言!」


ふん、と睦月が鼻を鳴らして背もたれに寄りかかり、葵も合わせて体の力を抜いた。
学校から近いファストフード店で騒いでしまったことは棚に置き、葵はバニラのシェイクを手に取る。
でもさあ、とふにゃふにゃになった長いポテトをくわえた睦月が、椅子の後ろ足だけで器用にバランスを取りながら続けた。


「実際問題それが一番いいって。葵は西谷サンにお礼がしたいんでしょ?だったらありがとうついでにペロッと聞きなよ、ペロッと」


ズズ、と残り少なくなったシェイクを未練がましく啜り、葵はストローに口を付けたまま小さく頷く。確かに西谷にプレゼントをしたい訳ではなく、感謝の気持ちを表したいだけなのだ。無意識にしろ故意にしろ、長い間葵を縛っていた恐怖を和らげてくれたのだから。


「あ、そうだ葵。これ、あんたが好きだって言ってた人じゃない?」


直接聞いてみよう、と決意を込めて空のカップを机に戻した葵に、睦月は自分のスマホにその画像を表示させ、二人が見えるところに置いた。



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