イノセントグライダー | ナノ




西谷と一緒に帰った次の日、葵は目覚ましが鳴る前に目を開いた。
枕元の時計を片手で掴み、裏返してアラームを切る。妙に冴えた目で文字盤を見ると、短針は6の少し前を指していた。
布団の中で身じろぎし、のそのそと起き上がる。
窓の外はようやく明るくなってきたという程度で、部屋に少しでも光を入れようと葵はベッドの上に膝立ちしたままカーテンを全開にした。

薄暗い空はお世辞にも美しいとは言えず、黙って鉛色を見つめる。
今日は一日曇りになりそうだな、なんなら雨も降るかも、と体育がなくなることを期待しながらゆっくりとベッドから降りた。寝起きだからか足はどこか固まっており、床に当たる感覚は自分の足じゃないみたいだ。

喉は渇いているのに、何故だか水を飲む気にはなれない。考えた結果葵は机の上に置いたカメラを手に取り、そのまま椅子に座った。
葵しか起きていない家はしんと静まり返っていて、ギシ、と椅子の軋む音が響く。
お母さんが帰ってきたのは、多分何時間か前だよね。寝ぼけた頭が物音に反応した記憶を辿り、恐らく着替えもしないでベッドに突っ伏している隣の部屋の母に思いを馳せた。
ご飯作って行ってあげないと、お腹空いて起きてくるだろうから。頭の中で簡単に献立を組み立てる。


「……チャーハンは昨日作っちゃったから…スープでも置いていこうかな……」


葵の独り言は、吸い込まれるように消えてなくなる。今日みたく早い時間に目が覚めてしまった時、深夜にふと後ろを振り返った時、葵はどうしようもない孤独感に襲われるのだ。

手のひらに慣れた重さを伝えてくるカメラを、葵の指先がそっとなぞる。かなり古い物だが手入れが行き届いているらしく、黒い表面には光沢も見えた。そのカメラを、愛しい我が子でも抱くように、葵は丁寧に撫でている。


昨日撮った写真を表示すれば、当たり前ながら一番始めに出てきたのは西谷のものだった。
中腰で構える姿、両腕がボールをとらえた瞬間、滑り込んだ勢いのある姿勢、嬉しそうな笑顔。1枚ごとに違う表情を見せる西谷は今にも動き出しそうなほどイキイキとしていて、葵は思わず頬を弛める。

しかし、写った西谷の笑みが晴れやかであればあるほど、昨夜見た悲痛な瞳を思い出してしまうのだ。
水晶のように濁りのない、澄みきった瞳だ。澱みも歪みもないからこそ、世界は残酷なまでに写る。
あ、まただ。心臓がぐっと締め付けられるような痛みを訴え始め、葵はカメラを持っていない方の手で胸の辺りをゆるく押さえた。


カメラの電源を落とし目線を足元に向けると、古ぼけた写真が目に入る。カメラを出すときに一緒に出てしまったのだろうか、手元の物を机の上に一旦置き、上半身を屈めて見慣れたそれを拾った。

だだっ広い畑と一軒家の立ち並ぶのどかな景色は、今とそう変わっていないと思う。
夕映えが明るく照らす風景の写真は、色も若干落ちて端も折れているものの、依然として鮮やかなオレンジ色を残していた。


「…………お父さん」


黄ばんだ写真の裏にはボールペンの走り書きで葵の父の名と、日付が記されている。葵が生まれるより前を示すその文字はインクが滲んでいるが、彼女にとっては大切なものだ。


ふと顔を上げて時計を見れば、葵が起きてから30分近く経っていた。急がなくてはならないという時間ではないものの、何となく早く学校に行きたい気分である。

手に持った2つを置いた葵は立ち上がり、制服に着替えようとクローゼットに向かった。










花と喩え











河野葵の今日のハイライト、視線というものは案外感じられるということを発見。

見られている。3限の移動教室から帰ってきた4限目の間中、それから昼食までの休み時間ずっと。背中に絶え間なく送られ続ける視線に痺れを切らした葵は、恐る恐る後ろを振り返った。


「…………に、西谷くん」

「おっ、なんだ?!」


真ん丸に開かれたアーモンド型の瞳と目を合わせれば、弾んだ口調で西谷が問う。予想以上の近さに目線を斜め下へとずらした葵は、半身で向き合いながら言葉を続けた。


「私めに、その、なにかご用でしょうか」

「ハラ減ったな!」


想定した返事の斜め上どころか超特大級のホームランを打ってきた答えに、脳が思考能力を手放す。
え、なぜこのタイミングで自身の空腹の話をしたの?というか、お弁当食べればいいんじゃない?
頭上にクエスチョンマークを浮かべた葵が瞬きを繰り返して西谷の顔をまじまじと見た時、ぐう、と空気を押し潰したような音が鳴った。


「ハラ、減ったな!!!」


お腹を押さえた西谷が更に目を輝かせて葵を見る。
その爛々とした光にピンときた葵は、少し迷った後に自らの鞄から先ほどの調理実習で作ったカップケーキを取り出した。ビニールの口をマスキングテープで止めただけというシンプルな包装のそれをそろそろと西谷の机に差し出す。


「あの……さっき作ったのでよかったら…」


反応を窺いながらほのかに甘い匂いのするカップケーキと西谷を交互に見ていると、葵の手からすっとケーキが取られた。満面の笑みを浮かべた西谷は「よっしゃ、河野のカップケーキゲット!」とガッツポーズをする。


「あっ、西谷ずりぃぞ!河野さんのカップケーキ貰ってやがる」

「へへん、お前らには一口もやんねえからな!」


いきなりクラスの男子生徒の口から自分の名前が出て、葵の肩がびくりと跳ねた。困惑気味に声の主を見れば会釈され、葵は「え、あ、え、」とぎくしゃくしたまま頭を下げる。

目をぐるぐると回し混乱する葵を見て、頬を掻いた男子生徒は周囲のクラスメイトに同意を求めるように事情を説明した。


「あー、いや、さっきの調理実習の河野さんの手際が物凄くよかったからさ、絶対めっちゃ上手いカップケーキなんだろうなって話してたんだよ」

「なんか流れるような手付きって言うの?料理できる人って感じで!」

「河野さん、普段からお菓子とか作るの?」


周りの生徒から男女問わず質問を投げ掛けられ、葵はパニックになりかけた頭でちらりと西谷を見る。
目の前でどういう訳か自慢げな表情をした西谷はふふん、と機嫌良さそうに笑った。
自分を取り囲むようにして好奇の目を向けてくるクラスメイトたちを恐々見上げ、それから葵は息を吸った。


「……お、お菓子はたまに作るだけだけど、料理は一応、まっ、毎日しております……」


一瞬辺りが静かになり、何かまずいことを言ってしまったのかと不安になる。緊張でさっと熱くなった顔がさっと冷たくなっていくのを感じ、瞑った目を開けられずにいると、


「「「「すっ、すげえ!!」」」」


群がっていた生徒たちの声が教室を揺らした。


「えっ、待って、じゃあもしかしてこのお弁当手作り!?」

「あ、……はい」

「うそうそ超きれい!何これ美味しそう!」


昼食の準備で机上に出していた葵の弁当が一人の女子によって開けられ、一気にどよめきが広がる。
わあわあと盛り上がる教室内の空気にポカンとしている葵は、思い出したようにすぐ近くの西谷に目を向けた。朗らかな笑みで葵を見る西谷は「怖がらなくても大丈夫」と言ってくれているようで、胸の中に温かいものが広がるのを感じる。


――――私が大勢の目を怖がっていることを、西谷くんは気付いていたのかも知れない。


ありがとうの意味を込めて微笑み返せば、西谷がカップケーキに勢いよくかじりついた。




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