イノセントグライダー | ナノ




「あー、まだちょっと寒いな」


市民体育館の駐輪場に向かう途中、くしゃみをした西谷が鼻を啜りながら言った。葵はそこまで寒くないのだが、汗をかいたジャージのまま4月の夜空の下は確かに冷えるだろう。Tシャツの上から黒い上着を羽織り、西谷は葵に「河野は寒くねえか?」と尋ねる。


「私は、平気」

「おう、なら良かった」


会話が途切れ、ひんやりとした夜風が二人の間を吹き抜けていく。火照った頬を冷ますのにはちょうどいいが、訪れた沈黙は嫌でも先ほどのハプニングを呼び起こしてしまうため、お互い気まずさに少し距離を開ける。
正直な所、葵の心臓は未だに全速力で血液を全身に送り出していた。そんなに頑張らなくてもいいよ、と言ってやりたい程に激しく、鼓動を刻み続けている。

子供が一人入れるくらいのスペースを開け、葵は西谷にバレないよう密かに深呼吸をした。動じるな、河野葵。あれはただのハプニングで、西谷くんは転びかけた私を支えてくれただけ。決して抱き着いたりしてしまった訳じゃない。
手のひらに『気のせい』と3回書いて飲み込む頃にはようやく脈が通常のペースを取り戻し、西谷の自転車を停めておいた駐輪場に着いた。ガシャン、スタンドを外す音が静かな夜に響いて消える。


「河野ん家って、どっちだ?」

「えっと、坂ノ下商店の前通って真っ直ぐ行ったところ、です」

「なら、結構近いな!」


頭の中で何となく道を考えた西谷はさりげなく葵から鞄を取ると、自転車の前かごに放り込んだ。ありがとう、と困惑気味の葵は戸惑いがちに礼を言う。

市民体育館の敷地を出て、通りを左に曲がれば街灯も少ない道に入った。暗い夜道に自転車のタイヤがゆっくり擦れる音と、二人分の足音が少しずれて鳴る。


「今日は着いて来てくれてありがとな」


葵の右隣を歩く西谷が、前を向いたままそう言って笑った。その笑顔に一瞬言葉を詰まらせたものの、葵も笑みを浮かべて答える。


「ううん、連れて来てくれてありがとう!西谷くんすごかったよ!」

「マジか!褒められると、やっぱやる気出るんだよな」

「ほんとすごすぎて、写真たくさん撮っちゃ……」


カメラを出そうとあげた葵の手が、行き場を失い空中で固まった。声を途中で切った葵を不思議そうに西谷が振り返り、首を傾げる。
やっちまったとでも言いたげな表情で口を開けた葵は、恐る恐る西谷に申告した。


「……ごめん、勝手に西谷くんの写真撮っちゃった…」


いい被写体を見つけたら見境なく撮ってしまう悪癖を、治そうと思っていたのに。
いくら趣味だとはいえ、許可を取らなければただの隠し撮りである。しかも相手が真面目に練習をしている最中だというのにパシャパシャ撮っていたら、それは勿論迷惑だろう。
昔サッカー部の部活動写真を撮っていて「シャッター音がうるさい」と文句を言われた時のことを思い出し、葵は肩を落としてうつむいた。
ああ、西谷くん呆れちゃったかな。
心配そうな面持ちでそっと西谷を窺った葵に、彼は妙に目を輝かせて詰め寄る。


「俺の写真撮ってくれたのか?!見せてくれよ!」


予想だにしていなかった答えを聞いて、葵は面食らった。瞳をぱちぱちと瞬かせて、西谷の言葉を頭の中で噛み砕いて理解する。
不思議な人だな、と思った。人を疑わない、素直で真っ直ぐな、太陽みたいな人だなと思った。
数秒遅れて頷いた葵は西谷の自転車の篭に入れておいた鞄の中から愛用のカメラを取り出した。歩くスピードを気持ち落として、型の古いカメラから写真を選び出す。そして爛々とした輝きを放つ西谷の目を見て、そろそろと差し出した。


「ど、どうぞ……」


自分の写真を他人に見てもらうというのは、いつまで経っても慣れない。落ち着きなく視線を宙に漂わせる葵は、目の前でカメラの画面を凝視する西谷を見て、また顔を赤くした。

―――なんて、静かに動く人なんだろう。

コートの中を動く西谷を見たとき、葵が最初に思ったことだ。近くにいたおばちゃん情報によると西谷はリベロというポジションらしく(テレビの試合では一人だけ色違いのユニフォームを着ている人だと教えてもらった)、ひたすらレシーブをしていた。
花形だと思っていたスパイカーではないのに、ああも目を奪われてしまったのは何故なのか。普段の西谷とは打って代わり、細められた真剣な目。ボールの落下点を見極め滑り込む様はしなやかという言葉がよく似合う。
シャッターを切る途中、被写体に見惚れて指が止まったのは初めてだった。我を忘れて写真を撮り続けてしまう存在に出会ったのは初めてだった。

この人なら、もしかしたら。

父の言葉を思い出してもう一度西谷を見た瞬間、同じタイミングで西谷がカメラから顔を上げた。


「………っげえな!やっぱ、河野すげえよ!」

「え、…あ、ありがとう」


真正面から褒められ、葵の目線はじわじわと下がっていく。ああ、どうして西谷くんは、こんなにも澄んだ瞳で私を見るんだろうか。もごもごとお礼を言った葵に、西谷は興奮した様子で言葉を続けた。


「なんて言ったらいいかわかんねえんだけどさ、なんつーか、河野の写真って光ってるような気がするんだよな」

写したものだけじゃなくて、その周りの空気まで撮ってる感じ。こう、躍動感みたいなのが伝わってくる。

「でも風景の時は全く違うから、あれだな、静と動が表現されて……」

「……も、もう勘弁してください…」


止まらない誉め言葉に音をあげたのは葵で、耳まで真っ赤にしたまま西谷を止める。
制された西谷は首を傾げてから葵を見て笑い、「ありがとな」と言ってカメラを返した。気が付けばすぐそこに坂ノ下が見える位置にまで来ており、肉まんでも買って帰るかと西谷が言おうとした、その時。



部活終わりと思しき男子高校生達の声が、二人の耳に入ってきた。










モノグラム3g











「日向、影山ァー、大地さんが肉まん奢ってくれるってよ!」

「まじすか?!」

「ありがとうございます」


ガヤガヤと賑やかな集団は皆一様に黒いジャージを来ており、背中には白い文字がプリントされている。ポケットに手を突っ込んだ坊主頭には見覚えがあった。確かバレー部の、と思い西谷を見た瞬間、葵の口ははたと閉ざされる。

唇を噛みしめじっとその集団を見る西谷は、あの日体育館の前で見たのと同じ表情をしていた。
悲痛を孕んだ、怒りとも違う強い感情。見ているこちらの胸まで痛くなるようで、葵は服の上から心臓の辺りをぎゅ、と押さえる。西谷くん、訳もなく乾いた喉が西谷の名前を呼ぼうとしたとき、不意に葵の腕が掴まれた。
踵を返した西谷に引かれ、葵は後を追うように元来た道を戻っていく。楽しげな話し声は段々と背後に遠ざかり、それに比例するようにどんどん闇が濃くなってくるようだ。沈黙が重い。大股で歩く西谷に小走りで着いていく葵は、かける言葉を見つけられないままに無言を貫く。


「………っに、西谷くん、西谷くん!」


どれほど歩いただろうか、ハイペースな歩速に葵の息が切れ始めた頃、西谷の足が止まった。車輪が回る音も止み、バレー部の声も聞こえなくなっている。


「………………河野時間とか大丈夫か?」

「わ、私は大丈夫だけど、」


西谷くんこそ、どうしたの?
様子がおかしい。聞いてはいけない事なんだろうとわかっていても、聞かずにはいられなかった。
そんな自分の感情に、葵は自ら困惑していた。どうして私は、こんなにこの人に関わろうとしているのか。葵の質問に押し黙りどこか遠くを見つめていた西谷はふと振り返って、それから屈託のない笑顔を見せた。


「西谷く、」

「悪い、こっちから帰ってもいいか?」


濁りない瞳と、晴れかな笑み。いっそ痛々しくさえあるその表情に、葵の心臓がまた痛くなる。
首を縦に振った葵を見て、西谷は慌てて掴んでいた手を離した。ゆっくりと歩き始めた二人の間には気まずさとも違う静けさが流れ、葵は斜め前を進む西谷の背中を見たまま口をつぐむ他ない。

バレー部と、何かあったのだろうか。
こうして自主練に行くほどなのだから、西谷がバレーを好きであるのは間違いない。ママさんチームに混ざってプレーする西谷は葵の目にはどうしようもなく輝いて見えたし、皆の様子からするとかなりの頻度で通っているようだ。
そんな西谷がどうして、バレー部の部員と鉢会わせるのを嫌がったのか、葵には見当がつかなかった。きっと何か、当人同士でしか解決できないようなことがあったのだ。

ぐるりと遠回りをして葵の家に二人が着いた時には体育館を出てから1時間近く経っており、申し訳なさそうに謝る西谷に大丈夫だと笑って、二人は別れた。
家の鍵を開け中に入り、電気をつける。玄関に靴はなく、葵はまだ帰ってきてないかと小さく息を吐いた。荷物を担いだま部屋に入って、窓から外を見る。自転車を押して歩く西谷が、斜め下に見える。
彼が空を見上げたのにつられて、葵も目の前の空に目線を移した。真正面に構える月は欠けており、それが情緒を生んでいる。

西谷くん、あなたは何に怯えているの。



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