イノセントグライダー | ナノ



バレー部って確か、第二体育館でやってたよね。
情報源も曖昧な記憶を手繰り寄せて、葵は軽い調子で北棟の階段を降りた。

まだ正面から見ようとすると目が勝手に照準を外してしまうが、それは不意に視線が絡むからなんじゃ、という結論に至ったのだ。
人間というのは、咄嗟の出来事というのに弱い。唐突に起こった事に対して思わず身構えてしまうのは人として当然の事である。

ということは、しっかり心構えをしてからの出来事なら冷静に対処できるんじゃないだろうか。
そんな自論を確立させた葵は、自ら西谷の姿を探した。自分から声をかければきっと大丈夫。

いつになく上機嫌に進み、校舎と体育館とを繋ぐ渡り廊下を歩く。
床にボールが叩き付けられる音が外にまで続いていて、時折響く野太い掛け声に思わず葵の肩が跳ねた。
バレーは中学の頃に授業でやったきりであり、ルールさえもあやふやだ。
換気の為か開けられていた窓を見つけ中を覗く。歩くたびに弾むツンツン頭は、見えなかった。


「……あれ、バレー部じゃないんだっけ」


端から見れば完全に不審者だが、当の本人は全く気付いていない。
もう一度体育館の中を見るもそこには西谷の姿はなく、長身で黒髪の男子生徒が隣のオレンジに向かって怒鳴っている事しかわからなかった。

朝教室には居たのに、部活だけ参加してないとか?
窓から身を離し考えるが、葵の知っている西谷はそんなサボるような人間ではなかった筈だ。
じゃあ一体なぜ、部活に参加していないんだろう。

部外者が外でうだうだと考えてもわかるわけがないかと諦めた葵は、顔を上げて校舎の方に爪先を向ける。
と、その時、葵の目には先ほどまで探していた顔が入ってきた。

嗚呼、どうしてこの人はこうも不意打ちが好きなんだ。
緊張を解き安堵した瞬間、間髪入れずに網膜に焼き付いたのは西谷の横顔だ。
しかし、いつもと様子が違うのはすぐにわかった。

普段は笑っている口許は真一文字に引き結ばれており、悔しげに細められた目は真っ直ぐ体育館の中を見つめている。
顔を意識的に見ないようにしていたとはいえ、西谷の厳しい表情を見るのは初めてだった。
格好は制服のまま、握り締められた拳は数メートル先なのにわかる程固い。

西谷の視線に込められているのは、怒りのようだった。
だがしかし恨みなんていう感情は感じられない。悔しさ、自分への怒り、あとはなんだろうか。
失望、という言葉を葵が思い浮かべたのとほぼ同じタイミングで、視界に映っていた西谷が踵を返した。
葵には気付かずにずんずんと遠ざかっていく。
一瞬見えた西谷の辛そうな面持ちが、頭から離れなくなる。

―――どうして。

どうして貴方は、そんなにも泣きそうな顔をしていたんですか。










視線の向こう側











「…あ、の西谷くん……そんなに見なくてもいいんじゃない…かな…」


スケッチブックの向こうから熱心に送られる熱い視線から逃れるように、葵は持っていたそれで顔を半分隠した。
普段使わない鉛筆は先が丸くなり始めていて、真っ白だった紙には一応人の顔が描かれている。
目のやり場に困り戸惑いがちに目線を宙にさ迷わせる葵の事など全く気にせず、西谷は一心不乱に鉛筆を動かしていた。
紙の上を黒鉛が滑る音が、微かに聞こえる。


「………ここの輪郭はもうちょい…」

「…西谷くん?」


実に真剣な顔つきでスケッチブックと格闘する西谷は、葵の声などとっくに聞こえないらしく、淀む事なく鉛筆を持つ手を動かした。
ペアがちゃんと取り組んでいるのだ、手を抜く訳にはいかない。

とは言え自分がされているようにじろじろ見るのはどうにも気が引けて、何となく目を前に向ける。
美術室の黒板には『人物画』と書かれており、前後の席の人間をお互い描くという授業だ。
西谷が葵を、葵が西谷を。向かい合った姿勢でひたすら鉛筆を動かしている姿というのは、冷静になるとどこかシュールに思える。

心構えがあるのとないのとでは、緊張の具合が全く違った。
現に今葵は西谷の事を見る事が出来ていたし、真っ直ぐに見られていても以前のようにあわあわとはなっていない。
まだ頬がほんのり紅いのはご愛敬。いずれにせよ進歩だった。


「………いよっしゃあ!!完成!!」


いきなりガッツポーズをした西谷に驚いて、葵は弾かれるように顔を上げる。


「河野はできたか?」

「えっと……もう少し、?」

「そうか!」


西谷くんが終わったなら、私も早く描き上げちゃわないと。
気持ちスピードアップした葵を機嫌よさげに見ながら、西谷は姿勢を正した。

その時クラスの男子が、西谷の後ろからひょいとスケッチブックを抜き取った。


「西谷、お前もう描いたのかよ」

「おう、自信作だ」

「どれどれ……」


暇潰しに来たらしい男子生徒はニヤニヤと西谷の描いた絵に目を向け、それから顎が外れるんじゃないだろうかというくらいに大きく口を開ける。
そして一拍置いてから大爆笑し始めた。


「ぶひゃひゃひゃひゃ!!なっ、なんだよこれ!」

「なんだよって、河野に決まってんだろ!」

「いやいやいやいや、お前マジで河野さんに謝れ!!」


こんなん嫌だよな、河野さん。

急に話を振られて反射的にうつむくより先に、西谷の絵が目に飛び込んでくる。

―――それはまるで地獄絵図。


「ぷふっ」


画材は鉛筆、色は白黒しかないにも関わらず、絵は強烈な存在感を放っていた。
どうやったのか不思議でしょうがない油絵のような独特なタッチ、異次元の輪郭、正直誰を描いたのかわからない。
長い黒髪は何故だか逆立って描かれており、葵は思わず吹き出してしまった。


「河野?!」

「だってそれ似てなっ…あはは!」

「西谷、画力無いのな」

「嘘だろ?!メチャクチャうめえじゃねえか!!」

「……ひぃ……お腹いた…ぶふっ」

「笑い過ぎだっつーの!」


お腹が痛くなるまで笑ったのはいつぶりか。
印象派の絵なんだよ、と笑いながらフォローを入れようとした時、葵の膝の上から描きかけの絵がなくなった。


「あっ」

「俺の絵をバカにした罰だ………って、」


葵の絵を見た瞬間、西谷の口は先ほどのクラスメイトに負けず劣らず口をあんぐりと開けられた。
うそ、そんなに酷い絵だったっけ?と慌てて絵を取り返そうとするも、西谷が離そうとしない。
いつもは写真ばっかだから、模写とかしないんだってば!
心の中で言い訳をした時、西谷の口からは溜めに溜めた言葉が出た。


「うっめえええええええええ!!」


美術室を揺るがす程の大声に、『ロマンティックなアバンチュールを始めましょう』で授業に入ることでお馴染みの美術教師が「そこ静かにィ!」と注意をしたが、当の本人は華麗にスルーする。


「なんだこれ、プロみたいだな!」

「え、そんなことないよ」

「お前写真もあんな綺麗なの撮れて、絵まで上手いのか!才能に溢れてんな!」


上手いすごいやばい似てるを延々とループする西谷の言葉に、葵の表情がふと曇った。と言っても一瞬の事で、誰も気付くことはなかったが。

才能。

それがあれば、どれだけ良かっただろうか。


「そこ西谷ァ!!うるさいって言ってんでしょォ!」


授業中に堂々と爪を整えていた美術教師の相澤(男)が教壇を叩いて立ち上がった。
ぷるぷると震える手はマニキュアの刷毛を握っており、どうやら失敗してはみ出してしまったようだ。


「アンタ達のせいで、グラデーションが変な感じになったじゃない!」


それは教師としてどうなんだ、と西谷と葵以外の全員が心の中で呟く。
席も後ろの方である二人は相澤の言葉の意味がよくわからず、絵のグラデーション?と首を傾げた。

よほど悔しかったのか、相澤は紫色のマニキュアを片手に大きく息を吸う。
そして、自らが注意した西谷の大声に勝るとも劣らない声量で、怒鳴った。



「西谷夕、それからペアの河野葵っ!アンタ達二人は美術係決定!雑用係やんなさい!!」



クラスメイトは、教師というものの横暴さにそっとため息をついた。


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