イノセントグライダー | ナノ



「よしじゃあ席移動した奴からとっとと帰れー」


黒板に座席表を書き気だるげに言い放った担任に、「うーす」とやる気のない返事が飛ぶ。
仕事は終えたとばかりに教卓にふんぞり返った教師を見て、葵はそのまま視線を黒板に移した。
引いたくじに書かれた番号は9。教室のあちこちからは歓喜の悲鳴やら落胆の声やらが上がって、ちょっとうるさい。

黒板を前にして描かれた図の中に、9の数字を見つけた。
実際の座席に照らし合わせて見ると、一番廊下側の後ろから2番目だ。良い席なのか悪い席なのかは判断がつかないけれど、とりあえず移動しよう。

机の横にかけてある鞄を掴み、肩に担ぐ。
椅子を上げてずるずると移動させ始めてから、教科書を入れっぱなしにしてあった事を思い出した。
先に片付けておけばもう少し楽に運べたのに、と葵は今更ながら後悔する。


「サッカー部って、1年どんくらい入ってきたの?」

「今んとこ10人ちょい?でも仮入の感じだとまだ来る気がすんだよなー」


クラスメイトの会話がふと耳に入り、葵の口からは自然と溜め息が洩れた。
唯一の幽霊部員さえいなくなってしまった私達はいったいどうすればいいんだろうか。
そろそろ仮入の期間も終わってしまうし、そうなれば益々部員を獲得するのは難しくなる。
校内掲示板に『幽霊部員大歓迎』って書いておけば人集まるかな、などと現実逃避めいた事を考えているうちに、葵は机を移動し終えていた。

一応顧問の先生に入部届けが出ていないか確認しよう、そうしよう。
来ないと思ったら来ない、来ると思ったら来る、と遂には精神論で自分を納得させ、鞄を持ち直す。
部室に行こうと椅子を下ろしてドアに体を向けた時、後ろの席の人と目が合った。

学ランから覗くTシャツと逆立った髪の毛に、葵は間髪入れずに顔を逸らしてしまう。
……………西谷くん。
屋上で話して以来どうも直視することが出来ず、頭が一瞬で真っ白になった。


「前の席お前か!よろしくな」


ニカッと歯を見せ爽やかに笑った西谷に、ぎこちなく頷く。
よろしく、空気を含みすぎてカスカスになった声で返事をすると、西谷は小さく首を傾げた。
その仕草に畳み掛けるように思考回路がショートしてしまい、何故だかわからないが視界がぐらぐらと揺れてしまう。
挨拶くらい出来ないで、私はこの先やっていけるんだろうか。
切実に自らの将来を心配できる程度には葵の頭は働いているにも関わらず、西谷を見ると一気に何も考えられなくなってしまうのだ。


「あの、……じゃあ」


これ以上話そうとしたら脳の神経が焼き切れてしまうような気がして、あの日の屋上と同じように頭を下げてすぐ近くの扉から教室の外に出た。
勢い余って人とぶつかりそうになったのをどうにか回避し、生徒でごった返す廊下を歩く。
次第に頭の中がさっぱりとしていき、顔の火照りも冷めてきた。
葵は足を進めながら静かに深呼吸をし、それから軽く頬を叩く。
自分の狼狽えぶりを思い出すと恥ずかしくてしょうがなかった。西谷の不思議そうな表情が、葵の目にありありと浮かぶ。
うまく話せないのは人見知りで口下手なせいだと思っていたけど、もしかしたら違うのかも知れない。

眩しい笑顔にあてられたのかほんのり熱を持った頬は、多分まだ紅潮してるのだろう。


「………西谷くんアレルギーとかかなあ」


――いかんせん、男子というものに免疫が無さすぎる。
的外れとしか言い様のない葵の考えを否定し訂正する人間は、残念ながら未だ現れてはくれないようだった。











水曜日の夕日











南棟3階、美術室の隣の空き教室が、写真部の部室ということになっている。
手書きのプレートの文字は20年以上前の部員が書いたらしく、黄ばんだ紙は所々がよれて破れていた。


「こんにちはー……」


誰もいないのはわかっていたけど、挨拶をするのは最早日課だ。
しばらく掃除をしていないから埃っぽくなっていて、独特の臭いと共に葵は軽くむせる。
乱雑に並べられた机の定位置に鞄を置き、近くにあった椅子に腰を下ろした。

写真なんて部屋に籠っていたって撮れるものではないので、ここで活動しているという実感はあまりないが、それでも1年近く放課後に来続ければそれなりに愛着が湧く。
遂に私一人になっちゃったなあ、と感慨深くなった所で、その思考に待ったが入った。

確かに葵が入部したときには3年生が一人だけいた。
人のいい眼鏡の男子生徒で、ガチガチに緊張しながらも世間話をしたのを覚えている。
しかしよくよく考えてみれば、彼は葵が入って1週間で部活に来なくなった。
受験生だから忙しいんだろうとその時は納得していたが、今思えばあの人も幽霊部員のようなものだったに違いない。
葵という新入生を獲得した時点で彼の使命は果たされていて、だからこそさっぱり顔を見せなくなったのだ。

そもそも先日やめた同学年の男に至っては、部員と言えるのかどうかさえ怪しい。

5月の中旬にはすでに葵しか活動していなかった写真部の実質的な部長は彼女であった。
一体何人いるのかわからない幽霊達に呆れているのか諦めているのか、顧問はコンクール等の情報を全て葵に回していた。
写真部の目的は部員同士でお互いの作品を批評し合ったり感想を言うことにある。
つまり写真を見てくれる相手がいない限りそのシステムは崩壊していて、ぶっちゃけ部室になんていても意味がない。
ので、夏休みが明けた頃から先輩が来るという希望はすっぱり捨てて、顔を出したらすぐに帰るようになった。

ごくたまに学校新聞や地域のお知らせのプリントに載せる写真を依頼されることもあったが、それ以外は基本的に暇だ。
いつしか葵の習慣は一枚の写真を頼りに学校帰り近所の公園を回ることになっていた。


「………誰か来ないかな」


昨年の9月にいきなり入部して最近やめたあいつも、所詮は腰掛けのような感覚で届けを出したんだろう。
幼馴染みの情報によれば野球部で喧嘩をし退部した人間で、この春何だかんだ和解して戻ったそうだ。
部活に入っていなかったら受験に関わるウンタラカンタラというのは非常に腹立たしい。

ふと、備え付けの棚の上に飾られた楯が目に入った。
達筆な字で『河野葵』と書かれたそれは、去年の秋に行われた小さなコンクールで貰った物だ。
最優秀賞には一歩届かず優秀賞だが、職員室前にひっそり掲示してもらっている。


「…まさか、わかる人がいるとはなあ」


スマホがあればカメラなんてなくても写真を撮るのに困らない時代に、同い年で自分の作品を見てくれている人がいるとは思いもしなかった。
葵の脳内ではっきりと再生された『綺麗』というフレーズは、彼女の耳にこびりついて離れない。

結局お礼を言えていないままだったのを思い出した。
褒めてくれてありがとう。たった一言でいいのに、また訳もわからずパニックになってしまったらどうしようと臆病な意見が勢力を増す。


「だめだ、むりむり!」


この人付き合いの苦手さは、多分一生治らない。
緊張のあまり変な事を口走ってしまったら、困惑するのは自分ではなく西谷だ。
そう結論付けた葵は楯を置き代わりに古ぼけた写真を取り出した。
どこにでもあるような町並みを写した、夕暮れ時の写真だ。どこか小高い場所から撮ったのか、町全体が写っている。

今日は反対側の公園に行ってみよう。
葵は写真を手にしたまま鞄を持ち、教室の鍵をかけてから部室を後にした。


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