レンズ越しに見る世界は、いつだって光に満ちていた。
春の香りをまだ残した温かい風が、葵の髪の毛をふわりと広げた。
絵の具をたっぷり付けた筆で塗ったような濃い青を背景に、黒い髪がなびく。
小柄な体躯には屋上の柵は十分すぎる程大きく、顔がようやく越える程度だ。
首から提げたカメラは女子高生が持つには少々ごつく、小さい手からはこぼれ落ちそうではらはらしてしまう。
葵は手慣れた様子でそれを目元に持っていくと、ぼやけた視界のピントを合わせた。
視線の先に写るのは昼休みを謳歌する生徒たちの姿で、やけに大仰なシャッター音と共に写真が撮られる。
古めかしいそのカメラは博物館かどこかにでも置いてありそうな空気を醸し出してはいるものの、現役で使えるらしい。
テンポの良い音を響かせながら次々とシャッターを切る葵は、撮った枚数が十数枚になった所で我に返ったように目を離した。
またやってしまった。
撮りたいものが見つかると無心になって撮ってしまうのが、葵の癖だ。
それも1枚や2枚ではなく、ひどいときには何十枚もの写真が一回でフォルダを圧迫している。
愛着も湧いているから消そうにも消せず、似たような写真がずらりと並んだフォルダを開いて、ひとつ溜め息をついた。
――――最近ついてない。
昨日の放課後に提出された細長い紙を思い出すと、更に気が沈む。
明らかにノートの切れ端にボールペンで書かれた乱雑な文字。印鑑は押してあったものの、本人が適当に押したに違いない。
「……せめて先生からちゃんとした用紙もらいなさいよ…」
体を反転させ柵に背中を預ける。そのまま葵の頭はずるずると高度を下げていき、やがて地面に腰をおろした。
中途半端に日に当たった、温かい地面が気持ち良い。
さて、どうしたものか。
唯一いた幽霊部員が昨日付けできれいさっぱりいなくなってしまった。
これで、烏野高校写真部はめでたく葵一人の個人部活だ。
いくら多少の活動実績があるとは言え、流石に部員一人では教師たちも苦い顔をするだろう。いや、二人でもされていたけど。
仮入さえ0人だった超弱小部活に、新入部員なんて来ないよね。
葵は自嘲気味に笑ってから、斜め上に広がる眩しい青空に目を細める。
あーあ、やんなっちゃう、とスカイブルーにフォーカスを合わせた、その時。
葵の視界の中に、不意に何かが割り込んできた。
碧の箱庭
「っ?!」
突如現れた人影に、声にならない悲鳴が上がる。
咄嗟にカメラを下ろし肉眼で確認すると、どうやら教師ではないらしい。屋上は立ち入り禁止なので、バレたら色々とまずいのだ。
「そのカメラ、かっけーな!」
太陽をバックに目の前の人間が喋っている、も、葵はパニックで目を回しそれどころじゃなかった。
人見知りかつ極度の引っ込み思案で、幼馴染み以外の友達が出来た試しがない。
ゆえにいきなり他人に話しかけられるという現在の状況に、のっけから脳がキャパオーバー気味だ。
「あ、う、その」
「お前、いっつもここ来てんのか?北棟の屋上の鍵が壊れてんの知ってるの、俺だけだと思ってたんだけどなー」
「え、いやはい、すみません」
テンパったままとりあえず謝ると、「謝んなくていいって」と豪快に笑い飛ばされた。
今まで経験したことのないようなハイテンポの会話に、壊れたロボットみたく首を縦に振ることしかできない。
「………お前、同じクラスの河野だよな?」
「えっ、あ、はい」
訝しげに、男子生徒が葵の顔を覗き込んだ。
………同じクラス?
ようやく落ち着いてきた頭で言葉を反芻し、見覚えのある姿を確認した。
セットしているのかツンツンに逆立った髪の毛に、下ろされた前髪。
前が開いた学ランの中にはド派手な色のTシャツを着ていて、やたらと達筆な字で『昇龍拳』とプリントしてあった。
クラス替えのその日から教室の中央で皆に囲まれて話していたバレー部の男子と、今すぐそこで笑っている彼が、葵の頭の中でピタリと合致する。
「に、西谷くん?」
道理で見たことあるわけだ、と恐る恐る確認すれば、「おう!」と元気のいい返事が返ってきた。
「ご、ごめんなさい。気付かなくて…」
「ああいや、悪かったな、俺も急に話しかけて」
あ、はい。戸惑いがちに頷くと、ふと会話が途切れる。
またしてもパニック状態に陥りかけた葵を全く気にする様子もなく、西谷はしゃがみこんで目線を彼女に合わせた。
それからカメラを指差して、好奇心に爛々と輝いた瞳を向ける。
「なあ、これお前のか?」
「あ、……うん。お父さんのやつなんだけど、貰ったん、です」
「へー!なんか撮ったやつあるか?」
「………一応」
ぼそぼそと呟き先ほど撮った写真を選び出して、葵はカメラを西谷に手渡した。
新しいおもちゃを見つけた子供のような表情で受け取った西谷は「スッゲー…」と臆面もなく口にしながら、どんどん写真を遡っていく。
そして、何かに気がついたように手を止めた。
「あ」
自分の作品を目の前で評価されるというのは、思った以上に恥ずかしい。
いたたまれなくなって俯いていた葵は、西谷の声で顔を上げた。
「これ、」と画面に写った写真を指して、尋ねる。
「1階の職員室んとこ貼ってあるだろ、この写真」
それは、ある日の夕方を写した物だった。
オレンジ色に染まる道に親子の影が揺れる、そんな日常を切り取った写真で、確かに職員室前に飾ってもらっている。
しかし本当に隅っこの方にこっそりお邪魔している程度のもので、まさかわかる人がいるとは思わなかった。
「綺麗だよな、これ。俺オレンジが一番好きだからあの写真覚えてたんだけどよ、そっかー、河野が撮ったやつだったのかー」
「きょ…恐縮です……」
「すっげえな、お前」
こんな綺麗な写真、俺じゃ撮れねえもん。
そう言って屈託のない笑みを浮かべた西谷に、思わず目を奪われた。
「………あの、」
何を言おうとしたのか葵が口を開いた瞬間、チャイムの音が響いた。
昼休み終了5分前。脳内で素早く時間割りを確認する。確か次は古典だ。
「やべ、戻んねーと」
短く呟いた西谷に頷いた葵が立ち上がろうとすると、目の前にニュッと手が差し出される。
立ち上がった西谷を見上げれば、「立つんだろ?」と至極全うな表情を向けられ、やっと意味を理解した。
伸ばされた掌を握ると、その手は葵とそう大きさは変わらないのにゴツゴツとしていて節くれだっている。
ぐい、と引っ張りあげられた葵は西谷に頭を下げ、「じゃ!」と勢いよく叫んで背を向けた。
脱兎の如く走り去っていく葵の後ろ姿を見ながら、屋上にはただ一人、西谷だけが立ち尽くしていた。
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全力ダッシュで屋上からの階段を駆け降りた葵は、踊り場で深呼吸をした。
心臓はまだ激しく脈を打っていて、鼓動を刻む胸に手を当てる。
男子の手を握ったのなんて、いったいいつぶりだろうか。
内側に筋肉の詰まった『男』の掌を思い出して、葵は火照った頬を手で扇ぐ。
西谷に掴まれた手はジンジンと痺れ、いつまでも熱を持って葵を内側から炙っているような気がした。
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