イノセントグライダー | ナノ




好きという感情は、多分一番種類の多い心の形だと思う。

友人として、家族として、異性として、同性として、その行動が、その顔が、声が、本能的に、理性的に、恋愛的に、好き。
葵は写真を撮ることが好きだ。見ることも、見てもらうことも、撮っている自分も全部ひっくるめて、大好き。
だけど、それが自分に向いているかどうかというのは、また別の話なのだ。
好きだから得意とか、好きだから人より秀でることができるとか、そういうのはマンガやアニメの中だけの話であって、現実ではそう上手くはいかない。

どれだけ好きでも、どれだけ得意だと思っていても、客観的な評価が伴わなければただの自己満足で終わる。悲しいくらい残酷で、泣きたくなるほど冷酷な世界。

『俺は、バレーが好きだ』

葵は西谷の声を今一度反芻してから、ふう、と息を吐いた。
見せてもらったママさん達との練習も、バレーの事を語る彼自身も、きらきらと輝いて見えたのに、俯き下唇に歯跡がつくほど強く噛む西谷はじっと何かに耐えているようだった。


『…………なんか、悪いな。こんな話急にしちまって』


ベンチに座り話を聞いてくれと言った彼は、葵が遠慮がちに頷いた途端、今まで言いたかったけど言えなかったことを吐き出すようにして、言葉を紡いだ。
西谷自身言いたいことがちゃんとまとまっていないようで何度もつっかえたけれど、それでも最後まで、言い切った。
そしてその後苦笑いを浮かべ葵に謝ったのだ。ごめん、と無理に笑顔を作って。


『……わ、私は………』


何か言わなきゃ、何でもいいから、彼の心に響く言葉を。
しかし何か何かと焦れば焦るほど、葵の思考はどんどん狭まり靄がかかって、結局何も言えずに唇を閉ざす。

西谷の力になれない自分が不甲斐なくて、じわりと目頭が熱くなる。泣きたいのは私ではなく彼だろうに、どうして私が泣きそうになっているのだろうか。

黙り込んでしまった葵を気遣うようにして、西谷は勢いよく立って明るい声を出した。
太陽は夜に追いかけられるようにして高度を下げ、既に辺りは薄暗くなり始めている。


『帰るか、送るから』


ニッと歯を見せて笑った西谷に、葵も微かに引きつった笑みを見せ首を縦に振る。
カァ、と伸びた鳴き声を上げたカラスは空を二、三回旋回した後、どこか遠くの方へと消えていった。









君のやさしさの孵化










「烏野高校排球部」と大きくプリントされた黒いジャージを広げ、西谷はベッドの上に寝転がった。
律儀にも一ヶ月の間部活には顔すら出していないため、実にひと月振りに触ったことになる。

耳の奥でガンガンと鳴り響く、伊達工コール。正直今でも思い出しては悔しくなるし、腹の底の方から闘志が溶けて漏れ出してくる。


「……河野には悪いことしちまったな」


西谷は夕日の下で黙って話を聞いてくれた葵の顔を思い浮かべながら、天井を仰ぎぼそりと呟いた。
誰かに聞いてほしかったのは本当だが、全く無関係である彼女に愚痴同然の話をしてしまった罪悪感はある。
何なら、一ヶ月前のことを未だにぐずぐずと引きずっている女々しい男だと思われたかもしれない。

……いや、そんなことを思うような奴じゃないか。
新しい学年、クラスになってまだ数週間と日は浅いが、浅い付き合いなりに西谷は葵の人となりを理解したような気がした。

引っ込み思案で、臆病で、人付き合いが極端に苦手で、すぐ顔は赤くなるし慌てて上手く喋れなくなるけれど、好きな事に対してはとことん真っ直ぐで真摯。
カメラのファインダーを覗き込んでいる葵は普段の彼女からは想像できないほど真剣な目をしており、声をかけるのに一瞬戸惑ってしまうことも少なくない。


「いい奴だよな……」


後ろから不意に声をかけると、葵はびくりと肩を揺らし大袈裟に驚いてから恐る恐る振り返る。
それから相手が西谷であることを確認すると、ほっとしたように顔をほころばせ、微かに頬を朱く染めて笑うのだ。
その表情が、西谷は好きだった。


「っし、」


西谷は小さく気合を入れると、ベッドからがばりと身を起こした。
そして明日持っていく鞄に部活の道具を一通り詰めると、部屋の電気を消して早々に眠りについた。









階段を降りる。
段々と体育館が近づいて来る。

帰りのHRを終え足早に教室を出た西谷は、ジャージに着替え謹慎明け初の部活に向け部室へと向かっていた。
その足取りは軽く、弾んでいる。

一年はどれくらい入ったのだろうか。
青葉城西との練習試合には勝ったと聞いたから、きっと強い奴も増えたに違いない。

ーーーー旭さん。

何より、また旭とプレーできることが嬉しかった。あの日教頭室の前で騒いだのは2人だったが、処分を受けたのは西谷だけだったのだ。
だから東峰はひと月前から部活に参加している筈だ。

校舎から出て渡り廊下に繋がるドアに手をかける。入学して何度となく通った道。目の前にはボールの音が跳ねる体育館がある。

西谷はふと足を止め、じっと前を見据えた。

ーーーーもし、もし万が一、自分がいなくても勝てるようになってしまっていたら、どうしようか。
足元がやけに重く感じ、ぶうん、と低いモーター音が聞こえる。
その不安は、強豪・青城を敗ったと聞いた時から西谷の胸を占めていたもので、今の今まで気づかないフリをしていた存在だった。
チームが強くなるのは嬉しい。
しかしその反面、烏野に必要なくなってしまっているんじゃないかと思ってしまう自分もいて、思考はぐずぐずと沈んでいく。

いつもテンションの高いかれがこんな風にマイナスに物事を考えるのは、非常に珍しいことだった。クラスメイトはおろか、チームメイトでさえも西谷のこんな姿を見たことはほとんどないだろう。

と、その時。

完成しているかもしれない新チームを見るのが恐ろしくなってあと一歩を踏み出せなくなっていた西谷に向かって、急に上から声が降ってきた。


「っに、西谷くん、!」


聞き覚えのある、上ずった声。
反射的に顔を上げると二階の窓から葵が顔を出して西谷を見下ろしていた。


「河野?なんでそんな所に……」

「これっ、どうぞ!」

「おわっ」


ひらり、葵の手から何かが投げられる。
それを慌ててキャッチした西谷は、何だろうと手元の紙を見た。封筒だ。淡いピンク色の封筒。
開けてもいいかと聞けば、こくんと頷くのが見えた。裏返して開いて中身を出すと、写真が入っている。
ママさんバレーに混ざっての練習の時、葵が熱心にシャッターを切っていたものだろうか。
改めて見てみると、確かによく撮れている。

でも何故今?
別に教室で渡してもよかったのに、と言おうと西谷が彼女を見やると、葵はしどろもどろになりながら口を開く。


「西谷くん、なんか今日元気なかったみたいだったから、その、私、上手く言葉にできないから……」


手に持った封筒をよく見ると、写真だけでなく便箋も出てきた。手紙のようだ。


「……公園で話してくれたとき、何も言えなくてごめんね。私ほんと、嫌になるくらい口下手だから…………」


重いかも知れないけど、手紙にしたから、もし時間があったらよ、呼んでくれると嬉しいです。あっ、いらなかったら破って捨ててね、全然いいからね!

あわあわとまくしたてる葵をぽかんと見ていた西谷は、やがて事情を理解すると吹き出した。今時手紙って、どこまでも変わった奴だ。


「さんきゅ、河野。ありがたく読ませてもらうな!」


西谷が片手を上げ笑顔で返事をすると、ぼんっと謎の音を立てて葵は顔を真っ赤にした。それから「う、うん」と笑い校舎の中に戻っていく。

彼は便箋を抜くと、一番上のものから読み始めた。葵らしく、几帳面で丁寧で可愛いらしい文字で、手紙は綴られている。
そこには西谷が考えていたことに対する暖かい言葉と、「がんばれ」というフレーズが何度もあった。

立ったまま最後まで読み終えた西谷は、思わずゆるむ頬を手で押さえて空を仰ぐ。
ストレートな言葉はぐさりと彼の心に刺さったようだ。


「そこまで言われたら、頑張るしかねーよな」


西谷はその手紙を封筒にきちんと戻し、折れないように鞄の中にしまう。
そして力強く足を踏み出すと、いてもたってもいられないとばかりに体育館の入り口に駆け込んだ。

ものすごいスピードのサーブ、打ったのは見たことのない顔だから、一年だ。
羽織っていたジャージを脱ぎ捨てて駆け出し、真っ直ぐ飛んできたバレーボールに向かって腕を出す。

『私は、バレーボールやってる西谷くんが、何よりもキラキラして誰よりもかっこいいと思います』

美しい弧を描いてセッターの位置に返球されたボールを見ながら、西谷は手紙の最後の一文を思い浮かべてにっと歯を見せ笑った。


10/10

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