イノセントグライダー | ナノ




揺れる、揺れる。
ぐらぐらと左右に車体を振る自転車はむしろ倒れないのが奇跡くらいで、葵は落ちないように重心を安定させることに必死だった。
ハンドルを握る西谷は「うおっ、あぶねえ!」と快活な笑い声をあげ、背後に向かって「掴まってろよ、」と忠告する。自転車から落ちたくない葵はこくこくと頷くのが精一杯であり、ちょこんと西谷の服を掴んだ指に力を込めた。

知らなかった、二人乗りって後ろにも技術がいるんだ。
滑らかなコンクリートを、二人分の体重を支える車輪が滑っていく。荷台に座る葵は初めての二人乗りに体をちぢこませるのに必死になっていて、周りを見る余裕などなかった。


「おっ、下り坂だから落ちんなよ!」

「えっ!?待って、待って私降り、」

「いよっしゃあ!」


前なんて見ていなかった葵にとっていきなり現れた坂道に対する恐怖は、先の見えないジェットコースターに乗っているのと同等である。
だが西谷はこれから更に上がるであろうスピードを瞬時に想像し震え上がった彼女の制止などものともせず、実に楽しそうにペダルを踏み込んだ。ぐん、と体が前に引っ張られ、勢いにのった自転車は二人を乗せてトップスピードを更新する。
髪の毛を激しくなびかせる風を感じながら、葵は自らの死を静かに覚悟した。











指を知るよりはやく











事の発端は約30分前に遡る。
5限目が終わり後はHRを残すだけ、という所で、葵は机の上に置いたチラシを見てそっとため息を吐いた。昼休みの間に写真部の顧問から貰ったものだ。

そのチラシには数枚の写真が載っており、横にはシンプルなフォントで「加賀山哲二写真展」と書かれている。昨日睦月が見せてくれたホームページの画像と同じものだ。
その展示日と時間をもう一度見て、葵はまたため息をつく。3日間の展示で今日が最終日、しかも閉まる時間は今日の5時である。この短過ぎる期間は確かに葵の敬愛する写真家、加賀山哲二らしかったが、今回ばかりはあと一日延ばしてほしいと切に願った。
彼は、葵がずっと憧れている写真家だ。主に風景写真を撮っているが、自然の切り取り方や構図が独特で、また非常に魅力的でもある。彼の出した写真集は全て買って今でも大切に見ている。

そんな尊敬する方の写真が生で見られる機会があるというのに、一体私は何故のうのうとしてたの!
心の中で自分を叱りつけても時既に遅し。自転車を持たない葵が全力で家に帰り即向かったとしても間に合わないだろう。加えて今日のHRは係を決めるらしいから、色々な意味でアウトだ。

葵が何度目かわからない息を吐いた時、置いていたチラシが何者かによってすっと抜き取られた。


「カガヤマ…テツジ、写真展?」


犯人は西谷だ。いつの間に近くにいたのか、と思うも後ろの席であることを思い出す。
驚いた葵が咄嗟に取り返そうとしたのをひょいっとかわして、西谷はチラシを見た。


「へー、こんなんあるんだな……河野行きたいのか?」

「えっ、……うん。でももう無理だから」


なんで?と首を傾げた西谷に、日付の欄を指して説明する。理解したらしい西谷は「なるほどな」と頷き、それから時計を見た。
何やら計算しているようだ。どう考えても間に合わないって、と葵が諦め混じりに苦笑をする。しかし西谷はけろっとした表情で彼女の方を見ると、あっけらかんと言い放った。


「間に合うぞ?」

「え?」


いやいや、無理でしょう。言葉を返そうと葵に気にせず、西谷は手早く荷物を鞄に詰め始める。「え?」「え」と戸惑う葵も西谷に急かされ、よくわからぬまま鞄を持った。


「なあ、俺たち早退すっから伝えといてくれよ!」

「お?了解ー」

「えっ待っ、西谷くん?!」


明るい声で近くの男子にそう告げた西谷は葵の手首を掴み、勢いよく教室を飛び出す。


「おい西谷と河野、もうHR始めるぞ……っておい、何でお前ら鞄持って…」

「センセー、俺ら早退するんで、よろしくお願いするっス!」

「は?!待て待て二人とも」

「すみません!ほんとすみません!」


河野、ダッシュ!
すれ違った担任の横を走り抜けた西谷と葵は大急ぎで廊下を行き、階段を降り、校舎を出て、駐輪場にあった西谷の自転車に二人乗りをする。

お母さんごめんなさい、葵は不良になりました。

後ろから聞こえてくる担任の声に目をぎゅっと瞑り、葵は前に座った西谷にしがみついた。









「……も…ダメ……怖かった…」

「着いたぞ、ここでいいんだよな?」


ガシャンと自転車のスタンドを立て、西谷が降りた。葵も力の入らない足でへろへろと立ち、それから座り込む。怖かった。本当に怖かった。去年の夏に見たほんこわなんて比じゃないくらいに、命の危機を感じるほど怖かった。
それにプラスして初の二人乗りに普段使わない筋肉も悲鳴を上げている。明日の朝太ももの裏は筋肉痛に泣くに違いない。

葵はピキピキする足を引きずるように西谷の後を追い、それから目の前の建物を見た。
一階のオフィスのようなスペースに写真が飾られているのが、ガラス越しに見える。入り口の横には『加賀山哲二写真展』というチラシと同じフォントの看板が立っていた。係員らしき人物もいるから、まだやっているのだろう。


「わあ…すごい!すごい間に合ったの?!」

「おう!河野、すげぇ行きたそうな顔してたからな」

「うん!来たかった!」


入場料は無料となっております、とお姉さんの優しい微笑みに促され、葵は一歩一歩を噛み締めるように中に入った。その様子を嬉しそうに見つめる西谷も後を追う。
キラキラした瞳で展示された写真を見て回る葵は結局、時間終了まで夢にまで見た時間を楽しんだのだった。









「西谷くん、ほんっとにありがとう」


写真展の会場から出た二人は、西谷の提案により近くの公園で少し休むことになった。時間は夕方の午後5時過ぎ、西日が傾き空はきれいなオレンジ色に染まっている。
砂場や遊具で遊んでいた小学生と思しき子供たちも帰っていき、公園には葵と西谷しかいなかった。備え付けのベンチに座り、カラスが横切る空を仰ぐ。


「河野すっげえ目キラキラさせてたな。俺のこと完全に置いてけぼりで」

「うそ、ごめんなさい!私写真のことになるとほんとに自分の世界入っちゃって…」

「気にすんなって!キレーな写真たくさんあって、俺も楽しかったからな!」


にこにこと笑いながらそう言った西谷に、葵は口の中で小さくありがとうと答えた。
会話が途切れる。だけどそれはけして気まずい沈黙ではなく、むしろ心地の好いものだった。カア、カア、と大きなカラスが緋をバックに飛んでいく。
オレンジ色の空といい、夕日といい、まるで西谷に包まれているようだと思った。勿論そんなこと、恥ずかしくてとても本人には言えないのだけど。


「河野って、ほんとに写真が好きだよな」


ぼそりと呟かれた言葉はやけにぶっきらぼうで、それでいて無意識の内に放たれたようだった。澄んだ瞳は夕日を映し、表面の水に光が反射する。


「西谷くんだって、バレーが好きじゃん」


思わず出た言葉に、葵は慌てて口をつぐんだ。
体育館の前で、帰り道で、いつも明るい西谷が見せた暗い顔。その引き金になっていたのはいつもバレーだったと気付いていたのに、どうして口を滑らせてしまったのか。


「…………俺は、」


西谷の眉根が寄り、唇が噛み締められる。唇から零れる悲痛な声は何かを言いたいのに言葉にできていないようで、葵の膝の上で握られた手に力が入った。

バレーが、好きだ。

喉の奥から絞り出されるような言葉が、ひと気のない公園に響く。
好き、というのはそんなに辛いトーンで吐き出される言葉じゃない。なのにどうして、どうして。


「……河野、ちょっとだけ話聞いてもらってもいいか?」


くしゃりと顔を歪めて笑った西谷に、葵は頷く他なかった。




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