喉を押さえる指の間から、生暖かい血液が流れ落ちていく。
痛いというよりも熱い。頭がぐらぐらする。耳鳴りがする。吐き気がする。気持ち悪い。
ニシヤが私の名前を呼んでいた。
葵、葵、って何度も何度も。
そう言えばどうしてニシヤは私の事を下の名前で呼ぶんだろう、と降って湧いた疑問はすぐにかきけされた。
私が初めて会ったときに下の名前しか教えなかったのだ。
よく考えてみると、私はニシヤのクラスも何も知らない。
好きな食べ物とか苦手な料理とか得意教科とかカラオケの十八番とか、何も、何も。
なのに気が付けば隣にいる。
意識することもない内に私の意識の中にいる。
この感情に名前をつけるならなんだろうか。いや、名前なんてものはないのかも知れない。
不完全で不可解で不可視で不安定で不明瞭で、それでいて不確定な、曖昧模糊とした感情で関係。
それが、私と彼をつないでる。
何もかもを、つないでる。
それはたった0%の
目が覚めるとそこは病院だった。
やや硬いベッドと真っ白いシーツ、布が擦れあってサラサラと音が鳴る。
枕元の台にはスケッチブックが置いてあった。ご丁寧にマーカーも添えてある。
指を伝って溢れ出ていく血の感触がリアルに思い出されて、私は重い頭を無理矢理起こした。
ナースコールに手を伸ばした時、病室のドアが開いて必死の形相のニシヤが入ってきた。
「っ、葵!よかった、目、覚めたのか!」
感極まって抱き着いて来んばかりの勢いで私に詰め寄り、矢継ぎ早に言葉を向けられる。
気分はどうだ、吐き気はないか、気持ち悪くないか、頭は大丈夫か。
その一つ一つに頷いていると、ニシヤの表情が気付いたように唐突に曇った。
「……お前、まさか声…………」
私はマジックの蓋をとり、スケッチブックの真っ白なページを捲る。
書き終わった字をニシヤに見せると、彼は信じられないとでも言うように首を横に振った。
『好きな人の為に声を失うなんて、人魚姫みたいでしょ?』
いつの日か貴方が言ってくれた言葉を、貴方は覚えているでしょうか。
人魚みたい、その言葉を思い出しながら、私はニシヤに笑顔を見せた。
「………じゃあ、」
やがてニシヤが何かを覚悟したように私を見つめる。
瞳には何やら強い意志が宿っていて、私も彼の目をじっと見つめた。
「俺がお前の声になってやる。ずっと側にいて、お前の言いたい事を代わりに話す。一生だ!」
『……それってなに?プロポーズ?』
「ああ!!」
元気よく返事をしたニシヤが、シーツの上に投げ出された私の手をとる。
柔らかいのにゴツゴツと節くれだった手はまるでニシヤ自身を表しているようだった。
なんて書こうか迷ってマーカーを持つ手を止めていたら、うずうずした顔のニシヤの後ろのドアから看護師さんが入ってくる。
看護師さんは私を見るなりぱっと嬉しそうな表情を浮かべた。
「葵ちゃん、もう起き上がって大丈夫なの?」
『まだちょっと頭が痛いんですけど、かなりマシになりました』
「喉は?」
『もう結構楽です』
「そう、よかった。今日脳の検査と手を確認して異常がなかったら多分退院できるからね」
剥げかけていた右手の包帯をぐるぐると巻き直した看護師さんが、ベッドの傍らにいるニシヤに軽く会釈する。
茶目っ気たっぷりな笑顔で私に「彼氏?」と口パクをされたので、ニシヤを見ながら頷いた。
「あ、あの!」
そんな私達のアイコンタクトを不思議そうな面持ちで見ていたニシヤが、ばっと立ち上がる。
「その、葵の声、」
「ああ大丈夫よ。多分明日になればもう出ると思うから」
「……………え?」
カルテにさらさらとペンを滑らせていた看護師さんが、いともあっさりタネを明かしてしまった。
ニシヤが口をあんぐりと開け、唖然とした様子で瞬きを繰り返す。
『折角隠してたのになー』
「あらそうなの?ごめんね、ばらしちゃった」
『まあいいですけど』
「………は?え、葵だって、もう声出ないみたいな…」
困惑気味にニシヤの言葉に、看護師さんは吹き出し、それからけらけらと笑った。
更にわからないというように看護師さんと私を交互に見るニシヤは、端から見るとなんだか可愛い。
「葵ちゃんは、催涙スプレーを至近距離で吸っちゃったから、今は喉がやられてるだけよ」
もちろんそれでもかなり危なかった事に変わりはないのだけど、と付け足された言葉はニシヤの耳には入っていないようだ。
「え、いや、だって、すごい喉押さえてたし」
「催涙スプレーのせいね」
「押さえた所から血が出てたのは」
「手のひらを切られたのよ。それで喉から出てるみたいになったのかな」
「じゃ、じゃあ何で入院、」
「犯人の男に突き飛ばされて、後頭部を強く打っちゃって。犯人は近所の人の通報で捕まったから安心してね」
「……………まじかよ」
次々と明らかにされていく事実に、ニシヤは驚いたような安心したような微妙な表情をする。
それから私を見て「ほんとか?」と尋ね、私はそれに力強く頷いて笑った。
看護師さんが時計を見て、なにかあったら呼んでね言い残し病室を出ていく。
私はそれを見送ってから、ニシヤに向かって新しいページを開いた。
『ドッキリ大成功!』
「ドッキリって……あのなあ!」
『あれ、プロポーズはなくなっちゃうの?』
面食らったようにスケッチブックを見たニシヤが、言葉を詰まらせる。
にやにやしながら返事を待つと、心なしか頬を赤くしたニシヤがやけくそ気味に叫んだ。
「………なくならねーよ!!」
仕返し、とばかりに鼻の付け根をかぷりと噛まれて、くすぐったいようなむず痒いような何とも言えない感情が沸き上がった。
―――嗚呼、この気持ちを一体何と言うのだろうか。
なんだっていい。
なんだっていいんだ、名前なんて。
ばちんと視線がぶつかり合って、一瞬変な間があって、二人して入り口のドアを確認して。
少し照れたようにはにかんだニシヤの唇と、私の唇とが重なった。
不完全で不可解で不可視で不安定で不明瞭で、それでいて不確定な、曖昧模糊とした感情で関係。
それでいい。それがいいんだ。
――プールで出会った一人の男の子は、私にとってかけがえのない人になりました。
不確定少年少女
「なあ、いい加減ニシヤって呼ぶのやめて下の名前で呼んでくれよ」
『だって私だけの呼び方って、なんか特別な気がするじゃん』
「じゃあ俺も葵の事変なあだ名で呼ぶぞ」
『断固拒否するわ』
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