人はどうして、海に来ると叫びたくなるんだろうか。
「海だーーーーーーっ!!!!」
訂正。
人はどうして、、海に来た途端に叫び出すのだろうか。
「ニシヤさんニシヤさん、周りの視線が痛いのですが」
「うっひょお葵!だって見てみろよこれ!青い海に白い雲に黄金の砂浜!これがテンションを上げずにいられるか?!」
否!いられねえだろ!
と私の返事なんてハナから聞くきはないとばかりに裸足でかけていく後ろ姿を呆然と目で追う。
ニシヤの部活がオフだという日曜日、私達は朝から駅で待ち合わせをして海水浴場に来ていた。なんでも、ニシヤが昔一度だけ来たことがあるところらしい。
電車に揺られている間も「海楽しみだな」「俺海とか何年ぶりだろ」「やっぱ人多いよな」「パラソル立てる場所あっかな」「海海海海海いっ!」と遠足前の小学生以上にそわそわと落ち着きがなく、周りの人に相当微笑ましい笑顔を向けられた。
隣に座ったおばあちゃんからは「あらあら、可愛らしいカップルねえ」とご丁寧にミカンまで貰ってしまい、ニシヤのボルテージは最高潮で、もう誰にも止められない。(ちなみにカップルじゃないと言っても聞いてもらえなかった)
「ほら、早く来いって!!」
大きな浮き輪を脇に抱えて、ニシヤがぶんぶんと手を振る。
いつ脱いだのか既に水着姿で、私も急ごうと鞄を持ち直した。
上に着ていたTシャツとショートパンツを脱ぎ水着の格好になったあと、貴重品やらが入った荷物は海の家に預ける。
「すみませーん、この荷物よろしくお願いしますねー」
「はいはい。ああ、最近不審者多いみたいだから気を付けてね」
「了解です!」
肌がジリジリと焼かれるような暑さと、瞼の裏がちかちかするような激しい陽の光。
眩しいくらいに反射する海をめざして、私は砂浜の上に足を一歩踏み出した。
サヨウナラに込めた5分の1の愛情
多分、気を遣ってくれたんだと思う。
もしかしたら逆かな。曖昧な形でしかトラウマと向き合って来なかった私に呆れて、荒治療の一種で誘ってくれたのかも。
「葵、勝負しようぜ!」
「………ニシヤ、あんた私が速いの知ってて勝負ふっかけてんの?」
「もちろんだ!」
オレンジ色の生地に「唯我独尊」と太々と書かれた水着(本人は意味をよくわかってない)を着たニシヤは満面の笑みで頷くと、揚々とストレッチを始めた。
今年は異常な猛暑ゆえ、例年よりかなり早く海開きされた。
そのお陰でまだそこまで人は来ておらず、ちょっとしたプライベートビーチのような感じだ。
完全に私と勝負するつもりでいるニシヤに折れて、私も準備体操を始める。
水着はおととい買ったオレンジのビキニだ。奇しくも色が被ってしまい、端から見たら確かにおそろいの水着を着た高校生カップルだろう。私だって他人だったらそう思う。
「ハンデは?」
「無しだな。真剣勝負あるのみ!」
ところでこの場合、もしつけるならどちらにハンデがある方が公平と言えるのか。
ニシヤが提案したルールは至って簡単で、遊泳許可領域を示すブイに先に触れた方が勝ちというものだった。
泳ぎ方は自由。ぶっちゃけ私に分がありすぎる。
「行くぜ!よーーーーい、どん!!」
腰の辺りまでが海の中に浸かった場所から、ニシヤの掛け声に会わせて二人同時にスタートした。
プールでは味わえない、独特の水感。濁ったような暗いような不思議な色の海水に視界が包まれる。
水をかいていた私の手が不意に紐に引っ掛かって、顔をあげた。
足は底につかない。立ち泳ぎで体を浮かせていると数秒遅れでニシヤがゴールし、ザバンと勢いよくニシヤの頭が表れる。
近くに浮いたブイを手で沈めたり戻したりしながら待っている私を見て、心底悔しそうに顔を歪めた。
「ぐあーっ、負けたぜちくしょー!」
「だから言ったじゃん、私めっちゃ速いんだってば」
「俺は奇跡の逆転劇に賭けたんだ!」
「あとあれね。手足の長さが違うのよ」
おほほ、とこれ見よがしに腕を伸ばして上品に笑えば、益々ムキになったニシヤがもう一回!と叫んだ。
「え、もうよくない?」
「いいや、まだ勝負はついてねえよ!」
「紛う事なくついたよ。一片の疑いの余地もないよ」
その時ふと、私は先程まであったものがなくなっていることに気が付いた。
ニシヤが抱えていた浮き輪がない。
入る前までは持っていたのに、と周囲を見回すと、少し離れた方に見覚えのあるカラフルな浮き輪が見えた。
右に左と波に漂っていて、私達からどんどん遠ざかっていく。
「ニシヤ、ゴー!」
「お?おう!」
その方向をびしっと指差して合図を出せば、ニシヤが首を傾げながら泳いでいった。犬か。
遠くの方で無事浮き輪と再会できたニシヤを確認してから、ゆっくり泳ぎながら彼のもとへ向かう。
顔をつけた海の中はやっぱり暗くて黒くて吸い込まれてしまうような気がしたけれど、そこにお母さんの姿は見えなかった。
荒療治だってなんだっていいから、無理矢理でも私を海に引っ張ってきてくれたニシヤに心の中で密かに感謝する。
太陽の光に呼応して眩しく輝く雫が跳ねた。その向こう側、髪の毛がぺたんと落ち着いたニシヤがいる。
ああ、この人は太陽みたいな人なんだな、なんて納得したように笑ってから、私は浮き輪の紐を掴んだ。
今年の夏は、予想以上に楽しいものになるような気がした。
「18戦中3勝14敗1分け……中々だな」
「最後の3勝は、私の体力が尽きただけだからね」
「いーや、勝ちは勝ちだ」
遊び尽くした海からの帰り道、陽射しも弱まり夕焼けがお互いの頬を赤く照らす中、私達は海沿いの道を歩いていた。
18戦もしていたのか、どうりで体がだるいわけだ。
挑発される度に勝負に乗ってしまった数時間前の自分が恨んでいるのに対し、隣を歩くニシヤは平然としている。
私より明らかに叫んでいたし遊んでいたんだからもっと疲れていてもいいと思うんだけど、普段から鍛えてる人間はやっぱり違う。
「ニシヤのスパークリングバタフライが見納めかと思うと悲しいね」
パフォーマンス(もとい体力の無駄)以外の何物でもない泳ぎ方を編み出してはことごとく私に負けていた時の事を思い出して、喉の奥で笑った。
するときょとんとした顔で、ニシヤが私を見る。さっきまで濡れていた髪は早くも乾き始めているようで、ぴょこぴょこと黒髪が立っていた。
「なんでだ?」
「……だって、別に学校でスパークリングバタフライやらないでしょ」
「ふつーにまた来ればいいだろ」
「二人で?」
「二人で」
至極当然とばかりに首を振ったニシヤの言葉に、不思議な静寂が訪れる。
また、二人で、海に?
いったい、私達はなんなんだろうか。
友達と言うには互いの事を知らなすぎるし、ましてや恋人なんてものからは最も縁遠いと言っても過言ではない。
そのくせニシヤは私を普通に誘ってくるし、なんなのこれ、カップルですかワタシタチ。
「なんだよ、俺とはもう来たくないってか」
返事をしない私を追い越して、ニシヤが拗ねたように振り返った。
夕日をバックにしたその体はまるで彼自身から光が出ているようで、その色素の薄い瞳に思わず魅入ってしまう。
「そ、ういうわけじゃ、ないけど」
「じゃあなんだ、」
「だって、そう言うのはさ」
好きな人と来るものじゃないの?
―――――言おうとした言葉は空気に触れる前に口の中で溶けて、飲み込まれる。
いきなり角から飛び出して来た黒い影に、反射的に足を引いた。
この暑い日に真っ黒いパーカーを着ていて、フードを目深に被っている。ちらりと覗いた瞳は血走っていて、海の家のおばちゃんの話を思い出した。
逃げて、とか何かを口にする前に、目の前が真っ白になった。一瞬で白煙に包まれて、視界の端できらりと光るものが見えた。
刃物だ。頭で判断するよりも早く体が動き、ニシヤの体を男から遠ざける為に思いきり押す。
意味のわからない事を叫びながら降り下ろされたナイフ、鋭い痛みが走り、その拍子にバランスを崩した。
ゴン、という鈍い音を頭の下に聞いて、名前を呼ぶニシヤの声があり得ない勢いで聞こえなくなっていって、急速に暗くなっていく視界から目をそらすように私は瞼を閉じた。
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