不確定少年少女 | ナノ




「…プールの無断使用が罰掃除だけでいいなんて、私達運使い果たしたよね」

「……だな」


日が落ち始めた夕方、私とニシヤは二人で寂しくデッキブラシを動かしていた。
結局浅野に大目玉をくらい、罰としてプール掃除の刑を言い渡されたのだ。
一応というか事情があったとは言え、サボり魔と謹慎くらった前科者、もうちょっとやばい事になってもおかしくなかったのにこれだけの罰で済んだのは、きっと多少なりとも原因を作った彼女達が何かしらの口添えをしてくれたんだろう。


「でもいいのかよ葵、あいつらのことは全部話さなくて」

「…詳しいことは話してないみたいだけど、私が全面的に悪い訳じゃないって事は言ってくれたっぽいから、まあ」

「でもお前、」

「実際さ、私がされたのは突き落とされた事だけだし、多分あの子達はまさか私が溺れるなんて思ってなかったんだよ」


ほら私、水泳大得意じゃん?
デッキブラシの持ち手に顎を乗せてニシヤに笑いかけると、彼は納得いかないとばかりに唇を尖らせた。
グラウンドから聞こえるサッカー部の掛け声に混ざって、シャコシャコとぬるついた底を擦る音が響く。
普通に考えたら今バレー部も練習してるんじゃないか、と今更のように気付いて、学ランの背中に声をかけた。


「ニシヤ、部活はいいの?」

「事情説明して顧問と主将の許可とってきた。……まあ、かなり睨まれたけどな」

「悪いね、関係ないのに」

「気にすんなって!朝の事もさっきの事も、俺が好きでやってんだしさ」


裏のない言葉に少しだけ心が軽くなって、私はありがと、と呟く。
それからまた沈黙があって、でも気まずさなんてものは微塵もなくて、お互いが黙ってブラシをかける音だけが耳に入ってくるのを、何故だか心地よいと思ってしまった。


「つーかお前、何で今回はサボんないんだよ」


思い付いたように発せられた言葉に、はっとする。確かに、どうして私はこんなに一生懸命掃除なんてやってるんだろ。


「………さすがに、助けてくれた人に押し付けてサボるのは悪いかなって」


あれ、私こんなこと言うタイプだっけ。こんなこと考えるキャラだっけ。
知らないうちに自分が自分じゃなくなったような気がした。
それとも、ニシヤの前だから?

永遠ループに迷い込んだ思考をどうにか奮い立たせて、私はブラシの柄を握る。
足の甲が隠れるか隠れないか程度に溜まった水を音を立てて踏みながら、力を入れて洗っていく。
邪魔だからと靴下を脱いだ私は制服のスカートに素足で、時折吹く風が涼しかった。

不意に手から力が抜けて、デッキブラシを離してしまう。
万有引力に従って倒れていくそれを掴もうと手を伸ばすも、私の掌は空気を揺らしただけで、カーン、とぶつかる音が鳴った。


「おわっ」


何やってんだ私、と自分で自分にツッコミを入れながら、濡れてしまった持ち手を掴み拾い上げる。
ぬるっとした柄を握るのに躊躇うも、掃除をさっさと終わらせたい一心でまた擦り始めた。


「ーーっ、葵!」


後ろから呼ばれて振り返ると、何故か顔を真っ赤にしたニシヤが布を私に差し出している。


「え、なに」

「スカートの下!履いてないと見えるっつーの!!」


ずんずんと近付いてきて胸の辺りに押し付けられたのは、真っ黒いジャージだった。
学校指定のものじゃない。バレー部のものだろうか?
自分の下肢を見てみると確かにスカートは短いし、もしかしたら今拾った時に中が見えたのかも知れない。


「……そもそも、野郎と二人だってのにそんな短いの履いて、しかも生足とかなんだよ……もはや嫌がらせだ…」


私から目をそらしてニシヤがぶつぶつ呟いている間に、私は優しさに甘える事にした。
きちんと洗濯されたジャージからは柔軟剤の香りに混ざってニシヤ自身の香りも仄かにする。
ブラシを一度地面に置いてから濡らさないようにそっと履けば、案外ジャストサイズだった。
……いや、ジャストではないか。


「ニシヤさーん」

「なんだよ!」

「これ、裾ちょっと足りない」

「……………うっ、うっせえ!!!!」


私よりもいくらか背の低いニシヤのジャージは丈が微妙に合わなくて、なんだかつんつるてんな感じになった。
指摘されたニシヤは顔を赤くさせたまま怒って、その様子は見ててからかいたくなる。
水に浸かる心配のない裾は折り曲げずにそのまま、私達は掃除を再開した。














4つ数えるその前に














彼は、私に聞かない。

どうして溺れかかっていたのか、聞かない。


詳しい話はなにも聞かずにこうして掃除を一緒にしてくれているし、ジャージまで貸してくれる。
そのぬるい優しさを与えられている一方で私の中の私が「そんなに甘えてもいいのか」と警告をしてきていて、焦燥感にも似た感情が胸までせり上がってくる。
そのせり上がってきた名前もわからない感情に合わせて、私の口から言葉が零れた。


「………私さ、多分天才なんだよね」

「は?」


先程までと変わらないトーンで話した筈なのに、なにか違うものを感じ取ったのか、ニシヤは手を止めこちらを見る。


「水泳の天才。これでも中学の頃は神童なんて呼ばれてて、日本代表の最有力候補とかもてはやされてたの」

「……過去形なんだな」

「だって中3でやめたから。この間の大会は、水泳部の顧問にどうしてもって頼まれたの。競技水泳なんて2年くらいやってなかったのにいきなり記録とか出しちゃうし、やっぱ才能あったのかな」


あはは、と笑った声は変に裏返って、場の空気を重くした。
ニシヤの表情は暗い。もしかすると、私を落とした子が話していた事を彼は聞いたんじゃないかな、なんて思った。


「………お母さんが、私を連れて海に車で飛び込んだの。理由は不倫相手にフラれたからだって。私は一時期お風呂に入れないくらい水場が怖くなるし、お父さんはノイローゼになるしもう散々。河野家完全崩壊だよね」


ニシヤの口は貝みたいに固く閉ざされていて、何も言おうとしない。
言葉が見つからないのか、探しているのか、とりあえず黙っているのか、ひょっとしたら心の中では私の事を馬鹿にしているのかも。
それでもいいと思った。今まで誰にも話さなかった身の上話を、誰かに聞いてもらいたいだけなんだ、多分。


「………それなのになんでプールに入っているか」


何か言い当てられたような顔で、ニシヤが私を見た。きっと彼の中で薄々感じていた疑問だったに違いない。


「……まだ、さ。お母さんが水の中に居るような気がするんだよね」

「………」

「海に沈んでいく途中で、お母さんが車の窓を割ってくれたの。…自分で道連れにしようとしてくれたのに、変だよね。でもそのお陰で私は車外に出れて、一心不乱に上を目指した」


何度も何度も繰り返して染み付いた筈のフォームなんてものは全く出てこなくて、ただがむしゃらに四肢を動かした。
酸素不足で飛びそうになる意識を必死で持ちこたえさせながら水面に向かい、指の先がようやく空気に触れた時。

遥か下の方でゆっくりと闇に包まれていくお母さんの顔が、見えた。

”お母さん”
そう呼んだ声は大きな泡となって消え、何かにすがるように伸ばされた指が黒に侵食される。
光の届かないところに消えていったお母さんの最後に見た表情は―――笑っているようだった。


「ずっと水に入るのが怖かったんだけど、ある日急に泳ぎたくなってプールに入ってみたんだ。そしたら、底の方にはいつだってお母さんの顔があった。指があった。最早ホラーだよね。ホラーだけど、助けてあげなくちゃ、って気分になるの。自分だけ酸素を吸って生きてることが、申し訳なくなってくるの。この感覚は、多分一生離れないと思う」


あ、もちろん自殺とかはしないけどね。
と冗談めかして付け足すと、ニシヤは苦い顔を崩さないまま当たり前だろと呟いた。


「………なんでこんな話、ニシヤにしてるんだろ。早く終わらせて部活行かなきゃいけないのに、ごめん。ちゃちゃっと終わらせ、」

「お前、今週の日曜空いてるか」

「え?」


デッキブラシを持ち直して掃除再開、と意気込んだ時、ニシヤが何の脈絡もなくそう言った。
え、このタイミングで日曜の話?





「海、行こうぜ」





有無を言わさないオーラを纏って言い放たれたニシヤの提案に、私は反射的に頷いた。


(…………え?いや待って、やっぱりおかしいよね?!ね?!この流れで海って!!)


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