不確定少年少女 | ナノ




『河野さん、今日の朝体育館で表彰があるから、呼ばれたら壇上に上がってね』


担任が言っていた言葉をゆるりと反芻しながら、私は頭の先まで水に浸かった。
束ねていない髪の毛が水面に向かって立ち、水中で体を反転させれば射し込んでくる陽の光がよくわかる。

手足から力を抜きだらりと身を預ければ自然と体は浮き、顔が酸素のある所に出た。
視界の端に入道雲が形作る真っ青な空が眼前に広がり、夏特有の蝉の鳴き声がどこからか降ってくる。

今頃体育館で教師陣は私を探してんのかな、とかどうでもいい事を考えながら、もう一度潜った。
すぐ隣の第一体育館では朝会が開かれていて、私は全校生徒の前で賞状を受け取る予定らしい。
まあ多分、本来なら今この瞬間体育館に居なきゃいけないんだろうけど。


「……意地でも行かねー」


生徒が密集したあの閉めきられた空間を想像するだけで、例えようのない気持ち悪さに襲われる。息が苦しい。

プールの底に足を着けて顔だけ水から出し、肺いっぱいに空気を吸った。
一気に潜って少しぬるついた壁を蹴れば、体は水平を保ったまま真っ直ぐに進む。
伸ばした指先が見えない層を切るように、私の体は曲がることもブレることもなくひたすら前に向けて進む。

ふと気が付いたら、中指が壁にぶつかった。
どうやら半ば無意識の内に25メートル泳ぎきっていたみたいだ。


「……ふー…………」


背中を壁に着けて息をゆっくりと吐く。水から出た肩から上は熱く、水中の体は冷たい。
その温度差がなんだか心地好くて、私はそっと目を閉じた。

私の前世は魚だったに違いない。
きっと泳ぐのが仲間のどの魚よりも速くて、水の中を縦横無尽に進んでいく。

遠い日に見たかも知れない前世の景色を想像し、その荒唐無稽さに自分で小さく笑ってから、私はまた体を沈めた。














1秒前のスタート合図














世界が遠くなっていく。

まずは音、続いて色。聞きたくない声も見たくない光景も全部全部塗り潰されて、視界が透明な青で染まる。
ひんやりとした冷たさとじんわりとくる温かさが私の頭のてっぺんから爪先までをぐるっと包み込むその瞬間が、たまらなく好きだ。

出来ることならいつまででもこの場所に居たいのだけど、それは無理な事はわかっている。
先生達がここに気付くまであとどれくらいかな、もう使い古したから結構早くばれちゃうかな。

酸素を求めて顔をあげ、首筋に貼り付いた長い髪を手でまとめる。
水気を軽くしぼって、そろそろ逃げるか、とプールサイドに体を向けたその時、黒い影が見えた。

予想より大分早く来た来客に私は驚き、恐らく無駄であろう言い訳を考える。
一応隠れる意思は見せようかと潜り、息の続く限り粘ろうという決意のもとプールの隅でじっとしていると、突然手を引っ張られた。
体は上向きの力を受け素直に水から出る。


「……………」

「……………」


掴まれた手から順に辿っていって、私の目線がその人の顔に到着した。

自分から引いたくせに、驚いたように見開かれたつり目がちの瞳。
見ちゃいけないものでも見てしまったかのようにぽっかりと開いた口。
少し降りた派手な前髪と、ツンツンに逆立った黒い髪の毛。

見たことある気がする。
けど、誰かわからない。同じ学年の人だろうか。


「あー、えっと……」


格好は制服だし、少なくとも先生ではない。
困惑したまま言葉を探し、行く当てもない視線は掴まれた腕に行き着いた。
自分の手をじっと見つめていると、掴んだ主は慌てて「悪い」と謝って放す。


「…………なんで、こんなとこにいんだ?」


お互いの沈黙を切ったのは、プールサイドにしゃがみこみ私を見下ろす目の前の人物だった。
なんでと言われたって、居たいから以外の理由なんてない。
ツンツン頭の向こう側から射す太陽光に目を細めてから、私は首を傾げ答える。


「えっとー…、体育館とか嫌いだから」

「今朝会あってんのにいいのか?」

「まあ良くはないんだけどさ。てかそれはあんたも此処にいちゃ駄目でしょ」

「俺は腹痛くなったから出てきた。そしたらプールに誰か居たから来てみたら、」


なんか沈んでる奴がいるなと思って。
だから腕を引っ張ってみた。

前のボタンが開いた学ランから文字の入ったTシャツを覗かせ、ヤンキー座りの姿勢をしたそいつは淡々と言った。

片や制服、片や水着。
私達を抜かした全校生徒が集まっている体育館の隣のプールでこんなシュールな光景が見られるとは、誰も考えやしないだろう。


「そもそもさ、あんた誰?」

「西谷。お前は?」

「…葵。ニシヤね、よし覚えた」

「いや、西谷」

「はいはいニシヤ。ねえその辺に先生いる?バレる前に上がっちゃいたい」


ニシヤは不満気に「西谷だっつーの」と言ったあと、きょろきょろと周りを確認した。
金網の向こうには誰も見えないから多分大丈夫だとは思うのだけど、あんまり長居をしてたら1限が体育のクラスと鉢合わせになる。それだけは何としても避けたかった。


「誰もいねえよ」

「そりゃ良かった。ありがとさん」


縁に手をかけ体をぐっと持ち上げて、コンクリートに足を置く。
散々浮力に頼っていた私の体には重力がきつくて、這いつくばって歩きたい衝動を必死で抑え込んだ。


「ニシヤ、あれ取って」

「……お前人遣い荒いな」


プールサイドの端に寄せておいたバスタオルを指差すと、ニシヤは苦笑しながらも取りに行ってくれる。意外といいやつだ。

着替えとかもまとめて挟んだバスタオルをニシヤが手に取り、持ち上げた。
するとその瞬間、バラバラと制服やら何やらが落ちてしまう。


「わ、悪い」


散乱した荷物を拾うニシヤの目にある物が映り、彼の動きが止まった。
どうしたんだろうかとその視線を追えば、そこにはオレンジ色の眩しい生地と小さなリボン――――というか私のブラジャーが落ちている。

ニシヤは固まったまま微動だにせず、しかし次第に顔が赤くなっていくのがわかった。
ブラジャーの隣に落ちたお揃いの柄のパンツも、彼の紅潮を助長させているのだろう。
私が拾いに行くのが一番手っ取り早いんだけど、今時珍しいくらいわかりやすい反応が面白くて、にやにやしながら様子を見守る。
ニシヤはやがて意を決したように深呼吸をしてから、ブラジャーを見ないでタオルに素早く包んだ。
耳まで赤いままバスタオルを差し出してくる姿はいっそ微笑ましくて、笑い出しそうになるのを堪えながら受けとる。

急いで着替えないと、と水着の肩紐をずらすとニシヤはまた真っ赤になって、「着替えるなら言えよ!!」と慌てふためき私に背を向けたので、軽く謝ってからバスタオルを体に巻いた。

水着から制服への着替えは慣れたもので、あっという間に終わる。
丁度その時朝会の終了を告げるチャイムが鳴り、途端に隣の体育館からガヤガヤとした声が聞こえてきた。
先生に見つからないようその列に混ざれば、まあなんとかなる筈だ。


「葵は教室戻んのか?」

「んー…、体育だけ出るから、まあ屋上にでも行ってようかな」

「サボりか」

「サボりっすね」


即答してから気付く。なんかこいつ真面目っぽいし、先生にチクったりしないかな。
今さらチクられた所で私がサボってばっかりなのは学年中に知られてるだろうから、痛くも痒くもないんだけど。

そんな心配を他所に、ニシヤは口を大きく開けて豪快に笑った。
咎める事は無いにせよ変な空気にでもなるんじゃないかと思ってたのに、意外な展開で拍子抜けする。
心底愉快そうに爆笑するニシヤを唖然と見つめていたら、彼はひーひー言いながら私に言った。


「朝会にも出ないで授業も堂々とサボるって、お前おもしれーな!」

「え、そう?」

「大体勝手にプールに入ってる時点で他と違いすぎるだろ!そういう思いきった事って見てて気持ちいいんだよなー」


白い歯を見せニカッと笑ったニシヤは「誰にも言わねーよ」と言ってから、体育館の方に目をやる。
生徒たちがどんどん出てきていて、紛れ込むには今しかない。
それで隙を見て列から抜ければあら不思議、1限の現国とはサヨナラだ。


「……じゃあ私行くわ」

「おう!俺も戻んねーとだな」


微妙な沈黙が流れてからお互いに「……じゃ、」と言って、私はニシヤより一足先にプールから出た。
…………思い出した。
あのツンツン頭、どっかで見たことあるような気がしたけど、私の記憶に間違いはなかったみたいだ。













(ニシヤって、あいつだ。3年と問題起こして謹慎くらってた奴だ。……もっといかつい奴かと思ってたけど、なんか、)

(葵って確か、サボり魔って噂の河野葵だよな……チャラい奴かと思ってたけど、なんか、)


(( なんか、変な奴 ))


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