パサリ、と葵の指からキングが二人こぼれ落ちる。ハートとダイヤ、赤のカードは二枚重ねられ、乱雑に積まれたトランプの上に乗る。
それは3回連続になる葵の一抜けを示していて、影山は自身の手元に残ったカードの数を見ると思わず歯を食い縛った。1、2、3、4、5、6、7。駄目だ、右から数えても左から数えてもきっちり7枚ある。
目を忙しなく動かして、対面上にいる男女の手持ちを素早く確認した。女性徒の方は残り1枚、男子も残り3枚である。
「ほらほらー、飛雄ちゃん頑張んないと負けちゃうよ」
優雅に足を組み背もたれに体を預ける葵は、余裕の3連勝に気をよくしたのかご機嫌な様子だ。
わかってんだよ、と顔を歪めながら答える自分に、余裕ないなと言ってやりたくなった。
「まっ、松島さん!次松島さんの番っスよ!」
「あ、うん。……影山君、ちょっと手札をこっちに向けなさい」
心なしか頬を赤らめた香川が、隣の芽衣子に声をかける。目の据わった彼女の気迫に押され、影山は唸りながら体をそちらに向けた。
影山から見て右から3番目、ムカつく顔をしたピエロがジョーカーである。
芽衣子の残りカードと同じ数字のものを引かれてしまうと、彼女が上がり香川との一騎討ちになってしまう。現在最下位独走の影山は、手札の残りが圧倒的に少ない香川と直接対決するわけにはいかなかった。
芽衣子の短く切り揃えられた爪が、焦らすように伸びてくる。
眼鏡の奥の冷ややかな眼差しに息が詰まりそうになるが、生唾を飲み込んで堪えた。
品定めでもするかのようなねっとりとした視線を携え、細い指が一番右端のカードを摘まんだ。しかしカードではなく影山の顔を見つめ、何を思ったのか一つ隣に移る。
あと一つ!あと一つ隣を選べ!
ジョーカーを取れと念じ続けていると、少しばかり小首を傾げた芽衣子はなめらかな手つきでジョーカーに触った。
きた!きたきたそのまま!!
これで芽衣子がババを選べば、影山の脱・ビリも夢ではない。
思わず頬が弛みそうになるのをどうにかこらえ、影山は意図して気難しい顔を作った。芽衣子は変わらず薙いだ目を影山の顔に向けており、全てを見透かそうとしているようだ。
じっくりと影山の表情を観察した後、ジョーカーを掴んでいた指はあっさりと移動した。あ、と声が漏れそうになったのを慌てて抑え、再びジョーカーコールを始める。
(これは………やばい)
負のオーラがじわじわと、影山の首を絞めあげていくようだった。焦るな、考えろ、とカイジ的な言葉が脳内をぐるぐる回る。
ここだけの話、影山は芽衣子の残り一枚のカードを知っていた。さっき一瞬、窓の光が反射して彼女の手札が眼鏡に写ったのだ。
クイーン。
影山の手持ちの左から2番目、つまり今芽衣子の触っているカードの隣の隣にいるクイーンを選ばれてしまうと、彼女の二抜けがその時点で決定する。
来るな来るな来るな来るな、という心の中の念は残念ながら通じず、無情にも芽衣子の指がクイーンを触った。彼女の勝利への一枚は、影山を真正面から見つめバカにしているようにさえ見える。
隣に移れ!と強く願った瞬間、影山の思いが届いたのか芽衣子の手がアクションを起こした。
「これで」
勝利を引き抜くという形で。
「はい、これで私上がりね」
「なん……だと……」
「芽衣子ちゃんおめ!じゃあ後は観戦してましょ」
「おめでとうございます松島さん!よっしゃ影山、負けないからな!」
ひらり、先ほどまで影山の手札であったクイーンが、葵のキングの上に落ちた。影山の残りは6枚、対する香川の残りは3枚。自分よりも少ないカードから一枚引き、揃ったものをまとめて捨てる。
芽衣子のように影山のカードをゆっくり選ぶ香川を恨みがましく見つめていると、やがて手が止まった。手元から巣だっていくエースは、赤く美しく輝いている。
香川の口角がにいっと上がり、影山は絶望に唇を噛んだ。
舞い落ちていくエースから目を逸らし、自らの敗けを意味するカードを引かなければならないというのは、なんて酷いルールだろうか。香川のラスト一枚を苦悶の表情で掴む。
『影山ババ抜き最弱説』は、たった今立証された。
エンゼル探知機
影山にとって高校入学後初の夏休みは、これでもかというほど部活に燃えたものだった。
東京合宿、強豪校との練習試合を重ね、掴み取った春校代表決定戦への切符。かつてないほど濃かった夏を終え、約一ヶ月ぶりに顔を合わせたクラスメイトの中には見るからに焦げた者も多く、誰こいつ現象が多発した。
一夏のアバンチュールにより金髪になって帰ってきた元大人しめ系女子にも慣れた頃、休み前に配られたプリントと同じような用紙が回ってきたのだ。
烏野高校高校の宿泊行事は3年間で二回ある。修学旅行と自然教室だ。
プリントに書かれた行き先は影山の聞いたことのない地名だったが、住所を見る限りそう遠くは無さそうだった。説明によるとバスで2、3時間らしい。
「私は芽衣子ちゃんを誘うから、飛雄ちゃんは香川君と協力して素早く先生に報告して」
「……おう」
6限目を丸々HRにした午後3時過ぎ、やけに劇画タッチな顔で指示を出した葵に、影山はあきれ混じりに返事をする。
回る場所や宿泊施設の説明など、やる気なさげに教壇に立つ担任は相変わらず適当で、「〜な感じ」と「〜だと思う」を連発していた。
英語の刷毛田といい古典の蛯原といい、この学校の教師は全員どこかズレている気がする。
最初の宿泊行事ということもあり、クラス全体が浮かれた様子であるのを、影山は肌で感じていた。
既に組むメンバーの決まっているグループは固まって喋り、また男女が一緒になっていない所は想い人を誘おうかどうしようか迷っているようだ。
クラス中がそんな風に色めき立っているのをよそに、影山の頭の中は相も変わらずバレー一色である。
『自然教室?あー、もうそんな時期か』
日程の都合上、3日は確実に部活を休むことになるという旨を、主将の澤村に伝えた時の事だ。
時刻は7時から8時になるかならないかという頃で、体育館にはネットを片付ける音と部員たちの話し声が弾んでいる。
スタメンの内3人が1年であるため、そこがごっそり抜ければいつも通りの練習とはいかないだろう。影山、日向、月島、山口は揃って澤村の前に立つ。
『懐かしいなあ、確か大地と同じ班だったよね』
『ああ、そうだったか。旭が隣のクラスで』
『自然教室ねえ、俺も行きたい』
わらわらと集まってきた3年が、口々に思い出を語る。この頼り甲斐のある先輩たちにも自分と同い年の時代があったのかと思うと、当たり前である筈なのに不思議な気分がした。
『何の話ッスか?』
『自然教室。西谷も去年行ったろ?』
『行きました!飯がめちゃくちゃ旨かった!』
ぴょこんと話に入ってきた西谷が、元気よく手を上げる。曰く、行き先は毎年同じらしいので、きっと美味しい料理が食べられることだろう。
『自然教室……忘れもしねえよあの行事……』
どこからか現れた田中が、腕を組んで眉間に皺を寄せる。盛り上がっていた空気とは明らかに違う声のトーンに、皆の視線が集中した。
『いいかよく聞け1年ども』
滅多に見せないほど真面目な顔をした田中は、静かに目を閉じる。曖昧な返事を返した影山達はいったい何を言われるのかと身構えた。
重々しく口が開かれ、田中の言葉が紡がれる。
『……自然教室で彼女が出来ると思ったら、大間違いだ』
『いや、出来ると思ってないです』
さー、片付け終わらすぞー。
菅原の声にウィースとやる気のない返事が飛び交い、逃げるに逃げられない後輩以外が一人二人と片付けに戻っていく。
この人が真面目な事を言うと思ったのが間違いだった、と影山の表情が死んだのと同じく、隣の月島が冷静に返答した。しかし当の田中は聞く耳を持たず、握りこぶしをつくり微かに震えている。気のせいか、その瞳には光るものが見えた。
『忘れもしねえよ、去年……そう、丁度このくらいの時期だった』
『当たり前ですよね』
『男女班で宿泊といえば、お互いの部屋をこっそり行き来したり、見回りの教師にバレそうになって一つの布団でドキッ☆とかあるもんだと思うだろ?な?』
『………なあ、田中さんどうしたんだ?』
『そっとしておいた方がいいぞ、及川さんと同じ種の面倒臭さを感じる』
『俺だってなあ、いつもと違う空気に乗っかって告白されるとか期待してたさ。ああしてたとも』
友達づてに呼び出された時は「俺の時代キタ!」と思ったね。いざ蓋を開けてみて、俺に彼女がいるか?……オイ月島笑うんじゃねえ!
俺は呼ばれた場所に、教師に見つからないようにこっそり行ったよ。結果を知りたいか?結果はな、
『うわ、田中まだそれ根に持ってんのかよ』
『来やがったな縁下ァ!』
モップを持った縁下が通りすがり際に顔をしかめる。
『俺はなあ、俺はなあ!』と涙ぐむ田中を放って『適当に聞き流しといて』と苦笑する縁下に、影山たち一年は素直に頷いた。
『いい加減忘れろよー、一年前の事だろ?』
『忘れるわけねえだろ?!お前は、俺の純粋な期待を裏切ったんだ!!』
『だから、俺は何もしてないっつーの』
モップに顎を乗せ溜め息をつく縁下を見て、月島は『じゃあ片付けいきまーす』と離れ、山口も後に続く。残った日向と影山がどうしようかと田中を見れば、目があってしまった。
『いいか、よく聞け日向影山!俺が呼ばれて言われた言葉はな、縁下君って彼女いるのかなあ?だぞ!』
『あーはいはいはいはい、もういいからその話!』
『田中ー、掃除サボってんなら明日全部お前にやらせんぞー』
『スガさん、俺はちゃんとやってますよ』
『あっ、テメェ汚えぞ縁下!』
『二人ともさっさと片付け戻れ、田中は放っといていいから』
『うぃす』
ようやく立ち去る事ができそうだ、と影山は田中にバレないようにこっそり息を吐いた。『縁下さんモテるんだな!』日向にこそっと耳打ちされ、よぎったのは葵だった。自然教室で呼び出されるとしたら、まず間違いなくあの王子様だろう。
『まあ、皆かなり浮かれるしな。おあつらえ向きに、有名な告白スポットあるんだよね〜』
お前らには縁が無さそうだけど、と悪戯っぽく笑う菅原に影山は「はあ、」と曖昧に相槌を打ち、きょとんとした日向と目を合わせる。
『おらー、さっさと片付けろー』という主将の声を聞き、足を止めていた5人は体育館に散った。時計は気が付けば10分過ぎを指しており、影山も慌てて掃除にかかる。
彼女。香川に頼まれた通りのメンバーで行くのなら、少なからず色恋沙汰が絡んでくるだろう。
昨日の部活の事を影山が一人回想している内に、担任の説明はいつの間にか終わっていた。
「芽衣子ちゃん、一緒に組まない?」
教室の中央で堂々と誘う声が聞こえて、影山も急いで指示を思い出す。咄嗟に目を合わせた香川と共に教師の元へ行き、班のメンバーが決定したという旨を伝えた。
事態を理解していないのは松島芽衣子本人と、あわよくば葵と、と密かに思っていたクラス内の親衛隊のみだ。
教室内が確かにざわつき、黒板に書かれた四人の名前に注目が集まる。
「え、及川さんもう決定?」「嘘、それじゃあ私の同じ布団を分かつ計画が台無しになるじゃん」「及川さんから委員長誘ってるとか、どういうこと?ねえどういうこと?」「しかも影山君と香川とか、なにそれ」「あのグループ顔面偏差値高くない?」
ひそひそを通り越してあちこちから聞こえてくる声に耳を傾けないようにしながら、影山は我関せずといった顔をつくる。
また一波乱ありそうだな、と始まってもいない自然教室に思いを馳せて、影山は一人目を細めた。
それは、一日目のバスの中で自身がこてんぱんに負けるとは思いもしなかった、夏休み明けのことだった。
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