「あれ、消しゴムがない」
隣の席の葵がそう呟いたのを、影山は欠伸を噛み殺しながら聞いた。
自称・人類最強の男である数学教師の自分語りを右から左に聞き流していた授業中の事だ。
教室内の空気を混ぜる扇風機と心地好い温度に保つ冷房のダブルコンボに加え、果てしなく興味のない雑談に、皆顔を下に向けてうつうつらと船を漕ぐ。
生徒の半分以上が自分のラリホーにかかっているというのに気付かない哀れな男は、黒板の前で得意気な面を晒し武勇伝を披露していた。
「あれは8月にオーストラリアに行った時だったなあ。信じられない程暑い日、先生は密林の中を…」
南半球にあるオーストラリアの8月は真冬であることを、こいつは知らないのだろうか。
クラス中が心の中で突っ込むも、本人は気づくよしもなかった。
「……飛雄ちゃん、消しゴム貸して」
クーラー直撃コースという事もあり意識を手放しかけていた影山の肩が、ちょんちょんと叩かれる。
呆けた頭で左隣を見れば机の上に筆箱の中身をぶちまけた葵が影山に向かって手を出していた。
影山はもう一度欠伸をしてから自分の消しゴムを差し出された手に乗せる。
「ありがと」
短いお礼が聞こえたか聞こえないかといううちに、影山はまた微睡みの中重い瞼を閉じた。
開かれたノートは呆れるほど真っ白で、握られたシャーペンはその文字を書くことなく、授業の終わりを迎えようとしている。
「そして、その時現れたのはなんとワニ!先生は渾身のコブラツイストをそのワニかけ…」
『仰天!高校教師は見た、世界の果てに巣食う怪物達』が『全長3.5メートル 巨大ワニとの死闘inオーストラリア編』に入った辺りで8割近くが睡魔に屈し、1年3組の教室には切なくなる位にわかりやすいホラ話が、虚しく響いていた。
アストロノートは夢を見る
「なあ、1組の応援団長知ってるか?」
「聞いた聞いた。あれだろ、向井だろ。あのゴツくてでかい奴」
「……女装、するらしい」
「?!」
コートの外に落ちたバスケットボールを拾うと、壁に寄り掛かった男子生徒達からそんな会話が聞こえてきた。
2クラスを6つのチームに分け試合と審判を交互に繰り返す途中、影山は丁度審判の番だ。
ゴールのリングに当たり大きく弾かれたボールをビブスを着たキャプテンにパスし、元の位置に戻る。
すぐ近くに居た二人組の会話は、どうやらクラス対抗応援合戦の他クラスの衣装についてらしかった。
「そんで、2組は福岡がタキシード着るらしい」
「それ似合わなかったら悲惨だよな」
応援合戦は大きな得点源でこそ無いものの、パフォーマンスという観点で多少加点される。
決定打にはならないが、接戦になった際にはその数点がものを言うのだから、勝負事の結果というのは誰にもわからないものだ。
影山は同級生がだらだらとプレイするコートに目をやりながら、クラスメイトの会話に耳を傾けていた。
「まあ、なんと言っても一番の見所は4組のマドンナ川北さんだろう」
「川北さん応援団長?まじで?!」
ややテンションの上がったトーン。
川北さんというのは、学年でも美少女と噂される女子生徒だ。影山ははっきりと顔を認識出来ていなかったが、可愛いよなと話を持ち掛けられた事がある。
「川北さんの衣装、知りたいか?」
「し、…知りたい!」
「…………チアガールだ」
「っな、ななな、チアガールだと?!」
大袈裟な程仰け反った男子生徒に、もう一方の生徒が追い討ちをかけるように続けた。
「しかも超ミニスカート」
「超……ミ、二…?」
「丈は短くお臍がちらり」
「チッ、チラリズム!」
「あの川北さんがそんな格好でポンポンを振る!」
「うおお、燃えてきたあ!」
そう言えば、うちのクラスの応援団長は誰なんだろうか。
話し合いは睡眠時間に充てた為、影山は未だに自分がリレーのアンカー以外何をやるのかわかっていない。
一応葵とバトンパスの練習はしたが、それ以外は何もしていなかった。
「……それに比べて、俺らのクラスの応援団長はさ…」
あまりにもジャストタイミングな言葉に、思わず聞き耳をたてる。
その声色は文句や不満といった類のものではなく、諦めのような感情を孕んでいた。
「…まあ確かに、一番似合うっちゃあ似合うんだけどな」
「ああ…。見た目もオーラもなんか常人とは違うし」
「男なら羨ましいって言えるんだが、何とも言えないんだよな、これが。ぶっちゃけ男よりモテている」
「でもあいつ、性格もすげえ男前だぞ。ノリいいし、あいつと一緒に居ると女子が寄ってくるしな」
……まさか。いや、あり得ない話ではない。
会話の流れから連想した顔はいつものように爽やかで奥の見えない笑みを浮かべていて、影山に手を振っている。
「……やっぱよくわかんないよな、」
「「及川葵」」
葵のチアガール姿を反射的に想像して、影山は体育館の隅で一人密かに吹き出した。
「……飛雄ちゃん、人の顔見ていきなり笑うのはマナー違反だと思うよ」
「お前、チアガールにだけはなるな」
「は?」
体育を終え更衣室から教室に向かう途中、曲がり角で葵と出くわした影山は思わず吹いてしまったのだ。
ジャージを持った葵は何言ってんだという目で影山を見たのち、意味を理解したようにああ、と頷く。
「応援団長のコスチュームの話ね」
「そういやお前は何を着るんだ」
廊下を並んで歩きながら尋ねると、葵は悪戯っぽい笑顔で「当日のお楽しみ」と言った。
こうして立ってみると葵の顔は思ったよりも高く、身長は170を越えているんじゃないだろうか。及川さんも結構タッパあったよな、と考えていると、「あれ、気にならないの?」と葵に覗き込まれた。
「だって明日わかるんだろ?」
「…飛雄ちゃんってほんと空気読めないよね」
「なんだと?!」
「今のは、頼む教えてくれって言う所でしょ」
「お前めんどくさいな」
「ワオ、バッサリ!」
その時、正面から歩いてきたおさげの女子生徒と目が合った。
見覚えがない。誰だろうかと疑問に思う間もなく、女子生徒は可愛らしい顔の眉間に皺を寄せ、鋭い眼光を影山に向ける。
色白で小柄なその生徒は数秒間影山を睨み付けた後視線を逸らし、ぱたぱたと走り去って行った。
「あ、美織ちゃんだ」
葵が呼んだ名前に聞き覚えがなかったので、知り合いか、と問えば、飛雄ちゃん知らないの?と驚かれる。
「誰だよ、同じ中学か?」
「いやいやいや、4組の川北美織ちゃんだって。可愛いって有名じゃん」
川北、川北、と妙に引っ掛かる名前で記憶を辿り、噂のチアガールかと頭の中で繋がった。
美少女と言われれば美少女なのか、と早くも朧気な今の女子の顔を思い出しながら、首を傾げる。
「おい、俺今その川北に睨まれたぞ」
「え、飛雄ちゃんも?」
「も?」
言葉尻を捕らえると葵は気まずそうに頬を掻いた。
「あー…、なんか最近美織ちゃんに睨まれるんだよね」
葵は無条件に女子に好かれていると思い込んでいた影山が驚く番だった。
「そうだ飛雄ちゃん、私のジャージ知らない?」
「ジャージ?」
「そ、長いやつ。なんかなくなっちゃった」
「食ったんじゃねえの」
「真面目に答えてよ飛雄ちゃん…」
まあ知らないならいいや、と言った葵の横顔は困ったように眉尻が下がっていて、影山は何かもやっとしたわだかまりを感じる。
消しゴムといいジャージといい、そう言えばシャーペンもなくなったと言っていたなと思い返した。
川北が影山と葵を睨むことと関係があるのだろうか。
………考えすぎか。
次の授業は英語だったな、とほぼ毎日顔を合わせている気がしてきた刷毛田を連想した後、何故かチアガール姿の刷毛田を想像してしまい、込み上げてきた吐き気を必死で抑え込んだ。
体育祭まで、あと1日だ。
10/26[ prev|next ]
[ back ]