烏野高校の体育祭は、夏休み直前にある。
1学期の期末テストでの鬱憤を晴らすようにお互いにぶつかり合うそれは例年多いに盛り上がり、ギャラリーからは毎度『祭の域を越えている』と言われ、一部では戦場とさえ呼ばれるほどのものだった。
各教室一人応援団長が選出され、クラス毎にコスチュームの嗜好を凝らした応援合戦は近所でもかなり有名だ。
「では、男女混合リレーのメンバーは……」
日差しもすっかりと夏らしくなり、そこかしこで下敷きが団扇代わりに振られる6限目、総合の時間を使って1年3組では体育祭に向けて出場競技の話し合いが行われていた。
短距離走に始まり障害物走、借り物競争、二人三脚やコスプレ競争など目一杯黒板に並べられた文字の下には殆ど及川葵の名前があり、当の本人は困ったような笑みを浮かべている。
一人何種目でも出ていいので(ただし全員最低3種目は出なくてはならない)、運動神経の良い人間は片っ端からエントリーさせられるのだ。
ちなみに葵の名前の下には影山の名も記されていたが、ぼんやりと窓の外を見ている影山はそれに気付く様子もない。
白のサマーニットを着た葵が異様な熱気の中恐る恐る手を挙げ、口を開いた。
「あの……私、出過ぎじゃない?」
黒板の前に立ち話し合いの進行をしている実行委員の女子生徒が、その言葉に教卓を強く叩く。
瞳は情熱の炎に燃えていて、つくられた握り拳が上下に激しく振られた。
「何言ってんの及川さん!貴方は3組の希望なんだから、体力の保つ限り…いや、体力の限界を越えるまで頑張ってもらわないと!」
「でもほら、陸上部とか運動系の子の方が……」
葵がどうにかして自分の出番を減らそうと提案すると、廊下側の席に座ったボーイッシュな出で立ちの少女が頬を掻きながら立ち上がる。
「あー…私今足くじいちゃっててさ、短距離とかなら何とかなるかも知れないけど、あんまりたくさん出るのは無理なんだ、ごめん」
「と、まあ最速の選手が負傷しているならしょうがないよね。及川さんよろしく!」
「えー…私女の子にちやほやされるのは好きだけど、汗を流して運動して目立つのはなあ…」
「1年3組で初の大きな行事だしさ、ここは思いっきり盛り上がりたいじゃん?」
だから、及川さんお願い!
と顔の前で手を合わせた実行委員を不満気に見てから、葵はジト目を向けた。
「…………本音は?」
「木曜限定特選A級豚肉使用の最高級ヒレカツカレーが食べたいんです」
淀む事なく、そして悪びれる事もなく、質問された主は真顔で言いきった。
――――これが、烏野高校体育祭が戦場と化す由縁だ。
各学年の優勝クラスには学食の売り切れ続出超人気メニューの食券が全員分配られる。
特に最近入った木曜のカツカレーは絶品と評判で、朝イチで食券を取っておかなければ拝むことさえできない。
クラスでも食べたことのある生徒は3人居るか居ないか程度、皆が血眼になって優勝優勝と口にするのか、葵はようやくわかった気がした。
「あと、影山君にも期待してるからね!」
窓際から2番目の一番後ろで頬杖をついた影山に声をかけた女子実行委員は、そう言って固まる。
その隣で「相変わらずだなあ、飛雄ちゃん」と笑う葵は、男女混合リレーのメンバーを見て、その笑みを濃くした。
窓の外には清々しい青空が広がっていて、いよいよ夏も本番に近付いてくる。
教室中が一丸となって学年優勝を目指している中、恐らくクラス最速の影山は、白目をむいて寝息を立てていた。
永久機関コラージュ
まともに話を聞かず気が付けば意識が飛んでいた6限目を思い出しながら、影山は北棟の廊下を走っていた。
日誌を職員室に届けた帰り、部活はもう始まっているだろう。
ハッと目を覚ますと総合は終わっていて、HRが始まるところだった。
葵に「流石だね」などと意味のわからないことを言われたが、如何せん記憶がない。
体育祭がどうとかと言っていた気がするが、と微睡みの中で聞いた断片的な会話の記憶を辿りつつ、渡り廊下を走り抜ける。
野太い掛け声が聞こえないところを見ると、ちょうど休憩時間なのだろうか。
半開きになっていた第二体育館の扉に手をかけ挨拶をしながら中に入る。
「遅れてすみません。日直で、」
「ほらほら、日向そろそろ集中力切れてきたんじゃない?」
「なんのっ!まだいける!」
そこには何故か、教室で見慣れた葵の姿があった。
格好は制服のまま、足元には彼女の物と思しき鞄が置いてある。
そしてその横には日向が立っていて、2人を取り囲むように2、3年が居た。スポーツドリンクを片手に試合か何かを観戦しているような雰囲気だ。
「おおー、2人とも100突破じゃん」
「スッ、スガさん!俺とこいつどっちの方が上手いですか!」
「菅原先輩、私に決まってますよね!」
「んんー……どっこいどっこいだな」
タムタムタムタムタムタムタムタムタムと妙に気の抜ける効果音を発しながら、葵と日向はオーバーハンドパスの壁打ちを延々と繰り返していた。
月島が少し離れた所で休憩を取りながら、「アホらし」と呟く。
それを目敏く聞き付けた日向が顔だけ月島に向け、「アホじゃねえ!」と噛みついた。
その拍子にタイミングがずれ、ボールと手がすれ違う。
「あ、」と声を出す間もないままに壁に跳ね返ったボールは虚しく日向の頭上を通過し、てん、と床に落ちた。
「あああああああああ!!!」
「はい残念私の勝ち〜」
「くっそー、月島の野郎が話しかけなきゃ勝ててたのに!」
「ボールを落とした方が負けなんですよ、おほほ」
たんっとコミカルな音を立てて少し高めの位置で弾んだボールを受け止めて、葵が満足気に微笑む。
アクシデントがあったとは言え他部の人間が部員に勝ったので、試合のギャラリーからゆるい拍手が起こった。
「く!や!し!い!もう一回勝負だ!」
「やだよ、日向絶対自分が勝つまで続けるもん」
「……あの…ちわっす」
完全に気付かれていなかった影山が再度声をかければ、皆の視線がそちらに集まる。
上履きを履き替えて体育館に入ろうとすると、待ちくたびれたとばかりに葵が影山に近付いた。
「おっそいよ飛雄ちゃん!気付いたら教室に居なかったから部活来てんのかなって思ったら居ないし、どこ行ってたの!」
「日誌提出してきたんだよ」
あんまり遅いから日向と勝負しちゃったよ、という言葉に前後の繋がりの不自然さを感じたが、追及すると長くなりそうなのでやめる。
「影山、あと5分で再開するから準備しとけよ」
「うス。…で、お前はなんでいるんだよ」
「体育祭まで朝練あるみたいな話になったの、飛雄ちゃん聞いてないでしょ」
「なんだそれ、強制かよ」
「一応任意かな。部活ある人はしょうがないと思うけど」
短距離系はいいとしたって、二人三脚とかはやっぱ練習必要じゃん?
正直、影山は自分が何の競技に出るのかよくわかっていなかった。
まあ別に参加しなくても困らないか、と曖昧な相槌を打つも、次の言葉で影山が動きを止める。
「でも飛雄ちゃん、男女混合のアンカーだからさ」
全くもって見に覚えのない大役に、影山の思考が停止した。
男女混合リレーと言えば、最も配点の高い競技だ。どの学年もこれが一番盛り上がり、男女混合を制したクラスが優勝すると言っても過言ではない。
そのアンカーに、自分が?
寝なきゃよかったと今さらのように後悔しながら、影山は葵の顔を見た。
無言の圧力を放つその瞳は『勿論全力でやるよね』と暗に伝えてきていて、押し負ける。
「大丈夫、私も出るし、てか私が飛雄ちゃんの前の走者ね」
「なー、お前らもリレー出んのか!俺も出るぞ!」
「日向の事だから、どうせ第二走者くらいでしょ」
「っ?!なんでわかった?!」
「日向にアンカーとか任せたら緊張で吐きそう」
うぐ、と言葉を詰まらせた日向を見て図星?と笑った葵は、鞄を拾い上げ連絡事項は全て伝えたとばかりに体を扉の方に向けた。
じゃ、そういうことだから。
お邪魔しました、と律儀に頭を下げて出ていった葵の後ろ姿を見送った後、ため息のように吐き出されたのは、感嘆の声だった。
「「「…………美少年………」」」
「俺、初めて近くで見た」
「王子様は伊達じゃないな……キラキラオーラに押し潰されるかと思った」
「旭なら潰されるかもね」
3年口々に褒めるのを聞きながら、影山は準備を始める。
面倒だが、役目をもらった以上最低限の練習には参加するべきだろう。
そういやうちのクラスの男子陸上部の奴は長距離の選手だったな、と思い出していると、澤村がふと影山に尋ねた。
「影山、お前今の王子と同じクラスだよな?」
「はい、そうっすけど」
「あの子の名前、言ってもらってもいいか」
「? 及川葵、です」
影山の声に、雑談がぴたりと止む。
なんとなく気付いていたのか澤村と菅原だけが納得したような表情で、その他の部員は顎が外れるんじゃないかという勢いで口をあんぐりと開けていた。
「「「「「「「及川?」」」」」」」
烏野高校排球部の中で、及川葵は瞬く間に忘れられない存在になった。
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