―――――――とぷん。
眼前にとらえていたしなやかな肢体が、滑るように水の中へ落ちていく。
あの日と同じ格好をした葵さんが潜ったのを見届けてから、プールサイドのベンチに腰を降ろした。
頭上には満天の星、夏の大三角形も見える。時計はとうに9時を回っているだろう。
潜水していた葵さんの頭が、水中からひょっこりと現れた。水分を含んだ髪の毛は月明かりに照らされ、より一層艶めいて見える。
「京治くん!京治くんも入りなよ!」
葵さんは振り返り、笑顔を作った。
夜、学校のプールにいるのが余程楽しいのか、その声色は弾んでいる。
「いえ、俺水着ないんで」
行き当たりばったりの思い付き、準備なんてできているわけもない。
部活ジャージに上はただのTシャツなのだ。
「えー、別に洋服着たまんまでも大丈夫だってばー」
「葵さんと一緒にしないでくださいよ。そりゃ貴方は大丈夫でしょうけど」
ひどーい、とクスクス笑いながら、葵さんは俺の素足に水をかけてくる。
幸せそうな笑い声が宵闇の夜空にゆらりと溶け、鼓膜を静かに揺らした。
ザパン、という水音を聞いて、ふと顔をそちらに向ける。
プールサイドに上がった葵さんは濡れた髪をかきあげて、俺の目の前に立った。
その凛々しくさえある姿に、思わず目を奪われる。
すらりとした体躯は、多分高校3年生女子の中では身長の高い方だ。
体にぴったりと貼り付いたシャツからは薄くブラジャーが透けていて、これが他の男のいる場所じゃなくてよかったと心底思う。
「京治くん、あんまり私を凝視しないでほしいかな」
「そんな格好してる方が悪いと思います」
「しょうがないじゃん、濡れたら透けるのは当たり前なんだから。……や、だから、そんな穴が開くほど見つめられても柄はわかんないと思うんだけど」
「………暗いですね。ちょっと葵さん光ってもらえませんか」
「え、何、私京治くんが私のブラの柄を知るためだけにそんな特殊能力使わなきゃいけないの」
「冗談です。というかピンクのボーダーでレース付きな事はわかってます」
なんだったの今の茶番!と目を見開いてから、首もとから服の中を見て正解、と笑う葵さんを見ていると、俺の頬も自然に緩んでいた。
無意識のうちにポケットに手をやっていて、そこに入った長方形の箱を確認する。
切り出すタイミングを図りかねて固いそれを触っていると、葵さんはまた水の中に消えていった。
揺れる水面に哀悼の花
葵さんは桜が好きだ。
梟谷のプールは春になると桜の花びらがたくさん落ちるという話を聞いて、先生に春でもプールに水を入れろと直談判したという逸話もある。
「京治くーん、来て来て!」
初めて唇を重ねたのは去年の夏。
『河野さん』が『葵さん』になり、『赤葦くん』が『京治くん』になった。
いつの間にこんなにも自分の心を占めていたんだろうか。
かけがえのない存在になるなんて、誰が想像しただろうか。
再びプールに入った葵さんに手招きされて、水際に立った。
肩から上だけを出した彼女が手を伸ばす。引っ張りあげろということか。
「葵さ……」
「そいや!」
「うわっ」
引こうと思った腕に逆に引かれ、体がそのままバランスを崩した。
直前にうまく避けた葵さんの横に落ち、派手な水飛沫が飛ぶ。
突然の出来事に驚くも、水中で体勢を立て直して勢いよく顔をあげた。
「何してくれてんすか!」
「葵さんのアメリカンジョークだよ。アメリカンでしょ?」
「いえ全く。あーあ……替えの服持ってないのに……」
「京治くん、あんまり声を出したらバレちゃうよ。まあ?別に私は構わないけど?」
「……貴方のせいですからね」
全身を完全に浸けてしまったので、どう頑張ったって数十分じゃ乾かない。
帰りも行きと同じ抜け道から帰るとしても、近所の住民なんかに見られたら、濡れた理由が説明ができないだろう。
原因を作った当の本人は悪びれもせずにこにこと笑っていて、後処理に悩むこちらの気なんて知らない風だ。
何となくむっとしたので葵さんの手首を掴み引き寄せて、その唇に自分のそれを重ねる。
一瞬で真っ赤になるのが、見なくてもわかった。
「……けっ、けけけけいじくん!」
「なんですか」
「ふっ、ふー、不意打ちはよくないと思うよ私!!」
「俺を不意打ちで落とした人が何を」
面白いくらいに赤い頬に手を添えてもう一度キスをすれば、拙いながらも応えてくれる。
年上なのに。そのぎこちなさが愛しくて、次第に口付けは深くなる。
唇を離して見つめると、その瞳は微かに潤んでいて、夢中で葵さんの薄い背中をかき抱いた。
「……ずっと、会いたかったです」
彼女の耳許で囁く言葉は、思ったよりも細く響く。
―――ずっと、ずっと、会いたかった。
「もう、京治くんは甘えん坊だなあ」
小さい子をあやすみたいに頭をよしよしと撫でられた。
目頭が熱くなるのをぐ、と堪えて、回した手に力を込める。
「葵さん、好きです、愛してます」
「……知ってるよ、そんなの」
うなじからふわりと薫る彼女の香り。
去年、葵さんにプレゼントした、桜の香水だ。
「わぁ……!京治くん、見てすごい!」
体を少し離して感嘆の声をもらした葵さんにならい、水面に目をやる。
プール一面に浮く桜色の花びら。
彼女が見たいと言っていた、幻の、景色。
「すごいね京治くん!ほんとに、ほんとに、すごいね……!」
ぱしゃぱしゃと音を立て、葵さんが水中を歩く。
桜が揺れる。水面が揺れる。月明かりのスポットライトに当たって、彼女がいるそこだけは世界が違うみたいだ。
「葵、さん」
ポケットの中の存在を思い出し、慌てて箱を引き抜く。
「なに?」
「後ろ向いてください」
素直に背中を向ける葵さんの背後で箱をそっと開けて、シルバーのチェーンに指をかけた。
華奢な首に回して金具を止める。
「今年の誕生日、お祝いできませんでしたから」
ダイヤモンドは流石に無理なんですけど、これくらいはと思って。
ゆっくりと振り向いた葵さんは震える手でネックレスを触り、大粒の涙を浮かべた。
モチーフの部分を握り締め、今までに見たこともないような表情で、彼女は笑う。
ありがとう京治くん、だいすき。
小さな唇が動いて、でも声にはならなくて、胸がはち切れそうな程の感情だけが押し寄せてくる。
もう一度抱き締めようと手を伸ばした、その、瞬間。
彼女の体はふと消え、それと同時に見えていた桜の花も何もかも、なくなった。
「…………葵…さん」
去年の冬、俺の誕生日の日。
待ち合わせ場所に彼女は来なかった。
1時間待っても2時間待っても来なくて、連絡ひとつ寄越さなくて、ようやく繋がった電話の先は病院で。
交通事故でお亡くなりになりました。
無機質にも思える通告は、耳にこびりついてはがれない。
―――――会える気がした。
今日なら、会える気がした。
彼女が見たいと言っていた光景が、見れる気がした。
あの日渡せなかったプレゼントが、渡せる気がした。
「………今日はお盆ですよ、葵さん」
4月生まれの彼女の為に買った、クリスタルのネックレス。
持ち主を失ったそれはぱちゃんと小さく水飛沫を上げて水面とぶつかり、静かに静かに、プールの底へ沈んでいった。
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