short | ナノ




『かぜひいた、ねつでた、きょういけない。ごめを』


蛍くんから届いた最後の打ち間違いが可愛らしさ120%のメールを見た瞬間、私の頭の中は何を着ていこうかという事でいっぱいになった。

外はぽかぽか陽気の気持ち良い天気。春と呼ぶのにこれほど相応しい気候はないような気がする。
今日行く予定だったピクニックは残念ながら延期だけど、私の心は折れちゃいない。

ピクニックだからとチョイスした細身のパンツは潔く諦め、代わりにお気に入りの淡い水色のワンピースを取り出した。

大好きな彼氏が熱で寝込んでるってのに、見舞いにいかないなんて選択肢はないよね!


「財布、携帯、熱冷ましシート、体温計、風邪薬……」


あの面倒臭がり蛍くんの事だ。
きっと病院にも行かず「寝てれば治る」とか言って体温も計ってないに違いない。
いつもより大きめの鞄に熱の時グッズを詰めて、ちょっとだけヒールのついたパンプスを履いて、私は蛍くんの家に向かった。













朱を差した頬に口付けを、













インターホンが鳴ってしばらくしてから、向こう側に蛍くんの声が聞こえた。


「……………はい」


なんだか掠れた、いつもの数倍増しで色っぽい低音が、機械を挟んだあちらからする。
インターホンについたカメラに自分の顔を映してピースをすると、ノイズ混じりに溜め息が吐き出された。


「やっほー蛍くん、具合どう?葵さんが来たからにはもう安心、さあ私を中に入れてく――……」

「宗教の勧誘はお断りです、お引き取りください」

「っちょおい!宗教違うよ、蛍くんの愛する彼女さんだよ!」

「え?新聞?イエうちもう新聞取ってるんで結構です」

「け、蛍くーん……」


私の言葉は清々しいまでにスルーされた。
私が口で蛍くんに勝てるわけもなく、次の言葉に詰まって目を泳がせる。

駄目だ、蛍くんを言い負かせるなんて無理ゲーすぎるでしょ。
口で駄目なら目だ、とカメラの向こうにいる蛍くんを必死に見つめると、音声口から呆れたような声がした。


「……………入るだけだから」

「…うんっ」


ああ、やっぱり蛍くんは何だかんだ言って優しい。
内側からカチャリと鍵が外される音。間髪入れずにドアノブを押し下げて家の中に体を滑り込ませる。

玄関にはマスクをした蛍くんが立っていて、眼鏡の奥の瞳は困ったように私を見ていた。


「来ちゃった☆」

「ご用件をお話ください」


やや頬が紅潮した蛍くんは枯れた声でそう言って、苦しそうに咳き込む。
私は慌てて靴を脱ぎ家に上がると、寝巻きのままの蛍くんの背中をさすった。
私より20センチ以上高い背。
若干背伸びをして蛍くんの咳が落ち着くのを待つ。


「蛍くん今日お母さん達でかけてるんでしょ。薬とか色々持ってきたから、寝てて」

「……風邪うつるからいい」

「つべこべ言わない!」


何回か来たことのある月島家を蛍くんの手を引いて進み、彼の部屋のドアを開けた。
綺麗に整頓された室内からは蛍くんの匂いがして、その安心感が私はたまらなく好きだったりする。

足元が覚束ない蛍くんをベッドに導くと、彼はのそのそと布団に潜り込んだ。


「熱は計ったの?」

「………計ってない」

「はい、計って」


予想通りだったので、準備しておいた体温計を差し出す。
渋々といった様子でそれを脇に挟んだ蛍くんのおでこを触ってみると、


「あっつ!」


―――すごい熱だ。
ピピピピ、と電子音が鳴り渡された体温計を見れば、そこには『38.9』の文字が。

「蛍くん今日ご飯食べた?」

「……朝、少しだけ…」

「じゃあ薬は飲めるね」


熱っぽく潤んだ瞳が苦しそうに閉じられ、私は蛍くんから邪魔なメガネを外す。
伏せられた長いまつ毛、その上の熱い額に熱冷ましシートを貼ると、蛍くんは気持ち良さそうにマスクの中で息をはいた。

一旦部屋を出て台所から水を注いだコップを持ってきて、鞄の中から薬を出す。


「蛍くん、ちょっと体起こせる?」

「……薬は飲みたくない」

「わがまま言わないの」

「寝てれば…治るし」


やばい、予想が的中し過ぎ。
このままいけば蛍くん検定とれそうだ。

とは言え薬を飲まない訳にはいかないので、嫌がる蛍くんと飲ませたい私の押し問答。
(熱のせいなのか子供っぽくむずがる蛍くんが可愛いのはこの際置いておこう)


「……葵がキスしてくれたら飲む」

「はぅえあっ?!」


普段の蛍くんなら絶対に言わなそうな台詞に、変な声が出た。
キスを?蛍くんが?私に?ねだった?
レアだ。レアにもほどがある。
そもそもキスなんて蛍くんがしてくれる事さえ稀なのに。稀なのに稀なのに稀なのに!!

どうして録音しておかなかったんだろう、なんて的外れな事を考えていると、横たわったままの蛍くんが得意気に笑っているのが見えた。
……私ができないと踏んで言ったんだな。


「まあ…無理だろうけど……」

「キスしたら飲んでね」

「………………………え?」


即答すると、呆けた蛍くんがガバッと起き上がる。
マスクに指をかけて慌てる蛍くんの前に立ち、コップの中身を一気に煽った。
錠剤を手に出して口に含み、ゆっくりと蛍くんに近づく。


「え、待って、冗談、」


珍しく慌てた蛍くんの頬を掴み、照準を固定。
熱で力が入らないのか、うまく抵抗できていない。

ほんのり紅い頬を引き寄せてそっと唇を合わせ、水と薬をいっぺんに流し込む。
ごくり、と蛍くんの喉仏が上下したのを確認してから離れると、あら不思議、視界が反転した。

背中には温かいシーツの感触、私を見下ろす蛍くんと目が合う。
気が付けば私は蛍くんに押し倒される形になっていて……状況がよく飲み込めていない。


「………もーいっかい」


熱に浮かされた甘い声と共に、今度はもっと深く口付けをされて、私は蛍くんの熱い唇に翻弄され続けたのだった。







「…………蛍くーん……」

「39度。バカは風邪引かないって聞いてたんだけど、引くもんだね」


3日後、私は見事に風邪を引いて蛍くんに看病されていた。
まあ普通に考えてあのキスが原因で、蛍くんは今きれいさっぱり完治している。

熱冷ましシートをでこに貼った私に体温計を見せながら、蛍くんはなんとも嬉しそうな(そして意地悪な)笑みを浮かべ、あの日と同じ薬を取り出した。


「お薬の時間でーす」

「……あとで飲むから置いといてー…」

「え、飲めない?しょうがないなあ」

「いや飲めるって……」

「はい、」

「…ん………む…」


蛍くんにうつるよ、って言ったら、僕からうつったやつなんだから大丈夫って言われて。
これも風邪の特権だと思いながら、私は蛍くんにだらだらと甘やかしてもらいました。


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