short | ナノ




立ち入り禁止の屋上に上がって、昼休みはそこで昼寝をするのが日課だった。
校庭から聞こえてくる喧騒も別世界のようで、校内の蒸し蒸しした感じからも逃れられて、誰にも教えたくないお気に入りの場所。

「今日の昼クロ探したのに見つからなかった」と部活の時間に研磨に言われてしまったけど、しょうがない。
休み時間くらいは、のんびりと過ごしたっていいじゃないか。

気温は高いが涼しい、風通しの良い日陰でいつものようにまどろみの中目を閉じる。
ビバ昼寝、ビバ一人。

今日のメニューどうすっかな、リエーフはとりあえずレシーブさせといて……。
壁にもたれかかって腕を組み、ぼんやり意識を手放そうとしている時。



気が付けば、俺の唇は誰かに塞がれていた。















神が呼吸をやめる温度















初めは、優しく触れるように。
一瞬にも満たない刹那の間に、薄く開いた唇が俺のそれと重なる。

朦朧としていた為最初はそのキスに全く気付かず、俺は霞がかった頭のまま受け止めていた。
俺が起きないのを確認したからなのか、今度は先程より長く柔らかい唇を押し当てられる。

知らず知らずのうちに息を止めていたらしく、酸素不足になり目を開けた。
眼前には伏せられた長い睫毛。ようやく自分がされている事に気付き、喉の奥からくぐもった声を出す。


「……ん」


俺の声で気付いたのか、閉じられていた瞳が開いた。
黒目がちの丸くくりくりとした目と、目線が至近距離でぶつかりあう。
重ねられた唇がふと離れ、見覚えのないその女はふわりと笑った。
人の寝込みを襲っていきなりキスをしたした事には触れないまま、心底嬉しそうに笑ったまま、女は鈴の鳴るような声で言う。


「―――やっと、見つけた」


やっと、見つけた?

頭の中で反芻し、記憶を引っ張り出して知り合いかどうかを考えたが、全く知らない。


「初めまして、私の事は葵って呼んで」


いや、やっぱり初対面だ。
ならこの葵って女は、初めて会った俺にいきなりキスしたって事になる。

寝起きだからか、それとも突然の事態に頭が回っていないからなのか。
朗らかに自己紹介をした葵の顔を唖然と見つめ、はぁ、と相槌を打った。


「キミの名前は、なんていうのかな」


半袖のシャツが眩しい、標準通りの夏服。
覆い被さるように膝をついた体勢で、短いスカートからは健康的な太ももが見え隠れする。
開けられた第2ボタンからは微かに汗の浮いた鎖骨が覗き、胸の前に揺れるリボンタイを引けば胸元まで見えてしまいそうだ。

こんな女、知らない。
少なくとも3年の階で見たことがないし、これだけ整った顔をしていたなら多少なりとも噂になるだろう。
だけど、この清純そのもののような笑顔を浮かべる女を、俺は知らなかった。

俺の名前を聞いたは良いが返事を待つ気も聞く気もないのか「まあなんでもいいや」と言い放ち、またずいっと顔を近付ける。

鼻先をくっつけた葵はあと数ミリでキスという位置で、実に無邪気な声で囁いた。


「とりあえず、」



もういっかい。


その言葉が聞こえたか聞こえないかという内に葵の唇はまた重なっていて、抗うこともせず、俺はされるがままにキスを受け入れる。
しっとりと包みこむように食まれる感覚を静かに追いながら、どこか遠くの方からする昼休み終了のチャイムの音に耳を傾けていた。
――――やべぇ、授業始まんな。
いつ終わるとも知れない長い長いキス。


もういいや、どうとでもなれ。
白けた脳が投げやりな判断を下し、背中を固い壁につけ、鼻孔をくすぐる石鹸の香りに酔い、一人の時間を満喫していた昼休憩の時間は、


葵という女によって、唐突な終わりを迎えたのだった。









「てーつ、てつ」


慣れというのは恐ろしいもので、いつの間にか葵と昼休みに屋上で会うのは習慣となっている。


「てつさーん、聞こえてる?」


あの日から色んな人間に聞いてみてわかったこと。
フルネームは河野葵、学年は2年(にも関わらずタメ口だが)であまり良い噂は流れていない。
2個上の先輩とキスしているのを見たとか、離任した教師とキスしているのを見たとか、キスしているのを見たとか見たとか見たとか。
いかにも清純な顔立ちと愛くるしい立ち振舞いで、初めの頃こそ人気があったものの、誰と付き合う訳でもなく色んな奴とキスをする。
『尻が軽い』『男遊びが激しい』『可愛い顔して裏がすごい』侮蔑と軽蔑の噂が回りに回ってクラスで孤立。それでも相手が途切れない所を見ると、男からの人気はあるのだろう。


「むぐっ」


頬を小さな掌で包まれ、また唇が重なる。

相手をコロコロ変える代わりに、一度キスした人間とは二度としないらしい。
そんな噂を聞いていたのに、ただ唇を合わせるだけのこの生ぬるい関係を始めてかなり経っていた。
俺だけが特別なのか、それとも他に同じような関係の奴がいるのか。


「んー…てつ……」


ぷはぁ、とキスを解いた葵は俺に頬を擦り寄せると、腹に抱きついてくる。
別に付き合っているわけじゃないし、好き合っているわけじゃない。
何となくずるずると続けた、不純で純粋な行いだ。





いつだったか言っていた。


「私、息をしないと死んじゃうんだ」


当たり前だ、と軽く言ったら「これが結構大変なんだよ」と真面目に返される。


「昔喘息こじらせて呼吸困難になったことがあってさ、それ以来なんか気道が狭くなっちゃったみたいで」

「へー、それとキスが関係あんの」

「ありあり、大あり。誰かの呼吸とか心音とか近くに感じてないと、息の仕方がわかんなくなっちゃうの」

「だから?」

「キスしてると、その人の呼吸を間近に感じられるでしょ。キスしなかったら私、多分息ができなくなって死ぬような気がするんだよね」


てつ呼吸のリズムが一番落ち着くの。
そう言って俺の胸の辺りに頭を乗せ、気持ち良さそうに笑顔を浮かべた。


「じゃあ、俺はお前の人工呼吸器か何かなのかよ」

「あはは、そうだね」


付き合っている訳でも好き合っている訳でもない。
不毛と言ってしまえばそれまでの、端から見ればさぞ滑稽な繋がり。

それでいい。


息の仕方がわからない彼女の息を神様が止めるその日まで、

俺が彼女と呼吸をしよう。
何度だってその唇を塞いで、止まりそうになる息を吹き返そう。

何度でも、何度でも。


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