short | ナノ




笑顔と言うには、あまりにもその表情は歪んでいた。ひきつった頬は不格好にえくぼを作り、血の気を失った唇は痛々しくさえあった。

少女の第一声は、影山の耳には届かなかった。そもそも聞かせる気があったのかも疑わしい。喉の奥から洩れてくる嗚咽にも似た吐息に混ざり、元々か細い声は更に小さく、空気に溶けてしまった。

まばたきを一度すればその涙が零れる事がわかっているんだろう。
雫を湛えた瞳は見開かれたまま、困惑する影山の顔を見上げていた。爪の跡がつくほどきつく握られていた拳は影山の制服を掴み、離そうとしない。

目をそらせななかった。

涙にほだされた、とか、可哀想だった、とか、そんな薄っぺらい言葉じゃ表せない程の何か。
嫌が応でも感じられる強い覚悟、懇願では生ぬるい哀願、この小さな手のどこから出ているんだと言う力。少女の唇がまた微かに動いて、夕焼けを背景にした通学路に今度は確かな声として響いた。

その言葉は影山の脳内をゆっくりと回り、イエスノーの2択から弾き出されたはずの答えには、ノーという選択肢なんてなかった。
ぎこちなく顎を引けば少女の顔に笑みが浮かぶ。笑顔には程遠い、歪な表情だった。ありがとう、と囁いた声は震えていて、影山は伸びた影に目を落とす。コンクリートにできた染みはどんどん数を増やしていき、ぬぐってもぬぐっても彼女の涙は止まらない。

細い手首を掴んで帰路を行く。
影山と葵が彼の自宅に着くまでの道、ぽつぽつと不規則な黒い染みができていた。丁度、降り始めの雨のような、丸くて小さい染み。
けして等間隔ではないけれど、家まで途切れる事もなく、少女が歩いた証は残されていた。夕映えが辺りを明るく染める道に、ぽつり、ぽつり。パン屑を千切って置いていった、ヘンゼルとグレーテルのように。




『お願い影山君。もし私の事を好きだと言ってくれるなら、』

『私を抱いて』




甘酸っぱい青春の1ページだった筈の帰り道が、静かに、だけど確実に積み上げていたと思っていた関係が、葵の願いによって崩れていく。
しかしそれを止める術を、影山は持っていなかった。だから、壊れていく様をただ見守る事しかできなかった。

好きな人に触れられる、思春期真っ盛りの男子高校生にとって、これ以上嬉しい事は無いのかも知れない。
恋愛事に関して言えば鈍く疎い方の影山でさえ、想い人である葵に触りたいと思ったことがある。きっとそれを、世間一般で言うところの欲情と呼ぶのだろう。

彼女は『抱いて』と言ったのだ。
健全な魂の宿った健全な肉体を持った男であれば、小躍りしかねないフレーズだ。
影山は自信が健康で健全な事をわかっていたけれど、まるで浮かれた気分にはなれず、家までの道がどうしようもなく長く重く感じられた。
片想いをしていた相手を連れて家に向かっているのに、その先に行われるであろう情事もリアルに想像できるのに、影山の心はちっとも晴れない。


会話もなく一心不乱に自宅を目指す彼の胸を刺すチクチクは、





失恋の痛みによく似ていた。















愛に恋して、恋を愛して















「……………今日の夜、親2人とも帰ってこないから」


家の前につきそう言うと、葵の肩が跳ねたのが掴んだ腕からわかった。振り返って顔を見ようと思ったけど、きっとまた泣きそうな笑顔を浮かべるんだろうと思えば、それもできなかった。

鍵を開けて中に入り、一直線に自室へ向かう。担いでいたエナメルを下ろすときになって、ようやく掴みっぱなしだった手を離した。


「……荷物は、そこら辺に置いといて」


影山がぶっきらぼうに言うと葵はこくんと頷き、スクールバッグを部屋の隅に寄せ、またあの歪んだ笑顔で彼を仰いだ。影山はいつにない真剣な面持ちで葵の手を引いて、沈み込むようにベッドへと押し倒す。


「……止まんないからな」


馬乗りの姿勢で影山が放ったのは、葵に対する最後通牒だった。ベッドの上に広がる髪の毛からはほのかにシャンプーの匂いがして、それだけで理性が熱くなる。
だけど、もしここで葵が「やっぱり嫌」と言えば、影山はやめるつもりでいた。そして、心の中ではそれを願っていた。

そんな願いをよそに、葵は影山の期待をことごとく裏切った。


「好きにしていいよ」


その瞬間、影山はもう自分達が今まで通りには戻れない事を悟った。悟ってしまった。悟るしかなかった。だって、しょうがないじゃないか。これ以外に他の道があったって言うなら教えてくれ。俺は、彼女は、いったいどこで間違えた?

シャツのボタンを外すのにこんなに手間取ったのは初めてだった。控え目な喘ぎ声が洩れる度に体が焼き切れそうな程熱くなって、でもいやに頭の中は冷たくて、必死で腰を振る自分をもう一人の自分が哀れんでいるような気がした。


情事のあとに残ったのは、虚無感と喪失感と罪悪感とがない交ぜになったぐちゃぐちゃの感情だ。腰に気だるさを残したまま横たわる葵を見れば、天井をじっと見つめている瞳からは一筋の涙が流れていた。最中に何度も泣いていたのに、その涙は何だか違って、そのあとは何も言わずに着替えて帰って行った。

葵がいなくなり一人になった影山は、ぼんやりと宙を見る。
こんな筈じゃなかった、こんな関係になりたい訳じゃなかった、溢れてくるのはみっともない言い訳だ。同じクラスの葵に恋をし、一緒に帰るようになってからまだ日は浅かった。なのに、こんなあっさりと体だけの繋がりを作ってしまって、今更はい恋人とはならないだろう。そこまでわかっていて結局は興奮していた自分が世界一穢れた人間のように思えて、自己嫌悪の堂々巡り。

明日どんな顔で会おうか。

頭の中を回るのはそんな心配ばかりだった。



次の日、彼女は来なかった。
期待通りのような拍子抜けしたような複雑な気分だった。

次の日も、次の日も、1週間経っても葵が学校に来ることはなかった。
影山の耳に入ってきた話だと、あの日の翌日から入院しているらしい。担任に病院の場所を聞き、学校を抜けて向かった。


「影山君……」


ノックもせずに開いた室内には大きなベッドがあって、真っ白いシーツをかけた葵の姿があった。窓の外に見える空を呆然と見つめていて、影山を見ても大して驚いていない。


「……どういう事だよ……っ」

「ごめんね、隠してて」


私、病気で余命半年なんだよね。

苦笑いをしながら彼女が呟いた言葉に、驚いて目を見開いた。そして、ああ、と全ての辻褄が合った気がした。だから、だからあんな事を言ってきたのか。
知らされた事実に奥歯を噛み締めると、明日も来るとだけ言い残して、影山は病室を出た。


それからの半年間、影山は葵の元に通いつめた。担当の看護婦さんから「いい彼氏を持ったわね」なんて茶化されながら、毎日、毎日、花を持って見舞いに来ては無愛想に1日の出来事を報告して、帰っていく。


「……………………影山君」


いつものように話をしていた影山を遮って、葵が声を発した。


「色々ありがとうね」


薬の副作用か病気のせいななのかわからないが、数ヶ月経ったその頃の彼女は痩せ細っていて、以前のような朗らかさはまるでなかった。
ありがとう。繰り返し繰り返される感謝の言葉がさようならにしか聞こえなくて、何て返事をしていいのかわからないままま、影山は俯いた。


「ねえ」


少し高いトーンで出された声に、顔を上げる。
目の前にいる少女は、とても美しい笑顔だった。幸せそうな、嬉しそうな、本当に綺麗な笑顔で影山を見ていた。


「影山君、私ちゃんと」


ぐしゃり、と。
均等なバランスを保っていた表情筋が、崩れる。またいつもの、泣き笑いが目に映る。



影山君に恋できてたかな。





――――数日後、影山が病院に着いた時には、彼女は息を引き取っていた。
影山があげた花は花瓶に刺さったまま萎れていて、泣きながら「娘は幸せでした」とお礼を言う彼女の母親の顔を見たくなくて、逃げるように病室から出た。


あとから聞いた話だと、葵は影山に抱かれた前の日に、クラスの男子に告白してフラれていたらしい。余命幾ばくかの命、最後の希望だったのだろう。

体を重ねようと毎日病室に通おうと、彼女の心は自分に傾いてなどいなかった。

愛に恋して、恋を愛して、妄想と理想と幻想がごちゃ混ぜになったあの時間は、もう二度と戻ってこない。


一人きりの自室で、影山はシーツを握りしめてじっと涙を流していた。

俺も、彼女に恋できてたのだろうか。



[ back ]

×