short | ナノ




※死ネタ。微糖どころか無糖です。終始暗いので苦手な方は気を付けてください。


はじめくんの、嘘つき。


頬を伝う涙と共に吐かれた言葉は、岩泉のことを責めているのにも関わらずか細く、少し引っ張れば切れてしまう糸のようだった。
無機質な電子音と鈍く響くモーター音の中、管に繋がれた腕をもう片方の手で握り締める彼女は、静かに、呟く。

嘘つき。はじめくんは嘘つきだよ。

薄く開いた唇から漏れ出す声に、岩泉は何も言えずただただ立ち尽くしていた。お見舞いにと持ってきた彼女の好物のお菓子を持ったまま、白い病室で綺麗な涙を流す目の前の少女を、瞬きもせずに見つめていた。

嘘つき、嘘つき、大きな瞳をしとどに濡らしながら、愛しい恋人はそればかりを繰り返す。澄んでいた声は次第に嗚咽を混ぜ始め、縋るように泣きじゃくる音へと変わっていく。
喉の奥に何か詰まっているのか岩泉は声を発せず、貝のごとく閉ざした唇を噛み締めた。

何も言わない岩泉を見て彼女はふと口を閉じると、それから呆然とした表情を浮かべる。
なんで何も言ってくれないの、とでも言いたげな目で彼のことを見て、右手で肩を抱いて自らを抱き締めた。そっかと口の中で何度も反芻し、震える手を口元に持っていく。

そんなに寒くもない筈なのに、彼女の華奢な肩は小刻みに揺れていた。岩泉は一瞬自分の上着をかけようかと戸惑ったが、結局は一歩も動けずに立ち尽くす。

そっか、私、死んじゃうんだ。

海の底にずぶずぶと沈んでいきそうな重みを持った声が、ぽんと放たれた。確かな現実味を帯びた言葉に後頭部をがつんと殴られ、岩泉は握り拳に力を入れて俯く。
そっか、私死んじゃうのかあ。
確かめるようにしてもう一度囁かれた声に、岩泉は猛烈に泣きたくなる。しかしその勝ち気そうな瞳が涙を溜めることはなく、わずかに眉がつり上がっただけだった。

窓の外からザア、という雨音が聞こえ始めて、彼は他人事のように「梅雨だな」と思った。肌に絡みつく湿気と確かな雨の匂いを感じ、真っ赤な双眼を向けてくる恋人に肯定ととれる引きつった笑みを見せる。


「……はじめ、くん」


聞こえるか聞こえないかというボリュームの声を鼓膜が拾うと同時に、外の雨は一層強くなった。

その音を聞く岩泉の脳裏には、露に濡れる鮮やかな紫陽花の花が、やけに鮮明に焼き付いている。




再会とやさしい記憶




初めて出会ったのは、小学4年生の時だった。自転車で転んで右の脚を折った岩泉は、近所の病院に入院することになったのだ。


『初めまして、はじめくんって呼んでいい?』


隣のベッドにいたのは、自分と同い年の女の子だった。葵と名乗った彼女は足に包帯をぐるぐる巻いた岩泉に手を伸ばし、屈託のない笑顔を見せた。

葵は生まれつき心臓が強くないらしい。
まだ小学生の岩泉にそれがどれほどの事なのかはよくわかっていなかったが、ぼんやりと大変なんだなとだけ思っていた。
葵は普段はとても普通の小学生だったし、明るくて元気でよく二人で看護師さんに悪戯を仕掛けたりした。彼女と一緒にすることはなんでも新鮮で、彼女が楽しそうだと自分も楽しくて、岩泉は入院生活のほとんどを葵と過ごした。自由に歩けないのは不便ではあったが、葵と遊ぶのは楽しかった。

しかし、岩泉が怪我であるのに対して彼女は病気である。
当初の予定である入院期間が終わる頃には、岩泉の足は自分で歩ける程度には回復していた。
窮屈な包帯が取られていく彼の足を、すぐ近くにいた葵は羨ましそうに見つめる。寂しそうに、哀しそうに、見つめる。


『私ね、この病院の外での思い出が全然無いの。ちっちゃい頃から何回も出たり入ったりしてるから、友達も中々できないし』


岩泉が退院する前の日、彼女はベッドに寝転がってぼやいた。岩泉はよく動くようになった自らの右脚を見て、そして天井を見る。


『友達なら俺がいる』

『うん。はじめくんがいたから、この2週間すごく楽しかったよ』


でも、もう居なくなっちゃうんでしょ?
大人びた声と共に返ってきた返事に胸が締め付けられ、岩泉はたまらなくなってベッドから起き上がる。
葵が驚いたように顔を自分に向けたの見て、彼は力強い口調で言った。


『退院しても、別にまた会えるだろ』

『どうやって?』

『俺が見舞いに来る。そしたらお前も寂しく無いし』


だから心配すんな、と続けようとした言葉は身を乗り出した葵に遮られる。目を輝かせた彼女は今にも岩泉に飛びかかりそうな勢いで、彼も思わず体を引く。


『ほんと?!はじめくんお見舞いに来てくれる?!』

『お、おう』

『約束だよ?嘘ついたら針千本だからね!』


指切りげんまん、小指を差し出された岩泉は少し困惑したように彼女に目線をやり、そして深く頷いた。それから自分のものよりちょっとだけ小さくて細い小指に自らの指を絡め、慣れ親しんだ歌を歌ったのであった。





約束通り、退院してからも岩泉はよく葵の見舞いに行った。菓子やもらった果物、花なんかを持っていくこともあったが、大体は手ぶらだった。看護師達ともすっかり顔馴染みとなり受付に行ったら「あらいらっしゃい、葵ちゃんなら今検査してるから、もう少し待ってね」などと言われる。

そうして春が来て夏が来て秋が来て冬が来て季節は巡り巡って、気が付けば葵と岩泉は高校生になっていた。
中2の終わり頃から付き合い始めた2人だったが特別何かが変わるというわけでもなくて、今まで通り岩泉がせっせと病院に通うだけの交際。それでも幸せだった。遊園地に行けなくても、花火を見れなくても、デートが出来なくても、岩泉は葵と一緒に過ごす時間が好きだった。ずっと2人で居ることができたらそれだけで幸せだと、本気で思っていた。


しかし、葵の体はそれを許さない。
元から弱かった心臓は成長するにつれて良くなるどころか悪化の一途を辿るばかりで、入退院を繰り返していた彼女はやがて入院したきりになった。1日のほとんどをベッドの上で過ごす事も珍しくなく、激しい発作を起こす度に命の危機に直面していた。
それでも岩泉が会いに来た時だけは、いつもぱっと顔を上げ、「はじめくん!」と顔をほころばせる。文字通り花が咲いたような笑顔で恋人を迎えるその健気さが、岩泉は愛おしかった。


高校に入れば部活も忙しくなり、以前のような頻度で顔を出すことは難しくなる。それでも彼は律儀に通い、2人が付き合って2度目の春を迎えようとした頃、岩泉は唐突に葵の両親に呼び出された。
幾度となく挨拶をした事はあったが、面と向かってきちんと話すというのは、考えてみれば初めての事かも知れない。微かな緊張と共に呼ばれた場所にいけば、既に先方はいた。表情は固い。

そこで言われた言葉を、岩泉は初め受け入れることができなかった。嘘だと思った。たちの悪い冗談だと思いたかった。だけど実の両親がそんな冗談をいうわけもなく、紛れもなく事実だという現実に叩きのめされる。

『葵はあと1年もつかすらもわからないの』

その後に続けられた言葉が、岩泉にとってどれだけ酷であったか。それはきっと、本人にしかわからない。


「あっお帰りはじめくん、お父さん達と何の話してたの?」


葵の病室に戻ると、彼女は読んでいた本から目線を外し岩泉に向けた。彼は問いに答えようとして、すぐに口をつぐむ。脳内で再生される彼女の父親の声に下唇を噛む。


「……あー、まあ、お前をよろしく頼む、みたいなそんな感じだ」


苦しい言い訳だと思ったが、幸い葵は若干頬を赤らめ「気が早いよお父さん……」とつぶやいたので、どうにか誤魔化せたらしい。
胸の中で渦巻く罪悪感に蓋をして、岩泉は無理やり笑顔を作った。


長くは続かない。秘密なんてものはいずれ露呈すると相場は決まっている。

自分でも気が付かない内に、不自然さが出てしまっていたのだろうか、花の水を交換していた岩泉に、葵は唐突に尋ねた。


「はじめくん、私、大人になれるかなあ」


彼女のいう『大人になる』が、精神的なことではなく、純粋にその年まで生きていられるかという事を意味しているのを、岩泉は直感する。
あと1年、葵に残された時間は僅かだ。大人には、なれないのだろう。

しかしそれを口に出来る訳もなく、岩泉は一瞬止めた手を再び動かし始め、何でもない風に言う。


「なんだよ、急に」

「んー、なんとなく」

「……生きるんだろ。20歳にも30歳にもなるんだろ。なって、生きていくんだよ」


ほら、今日の土産。
頂き物の菓子をベッドの横のテーブルにどさりと置き、岩泉は椅子に座った。
上半身を起こした葵は彼の言葉を聞き、うん、と強く頷く。生気に満ちた笑顔はとても余命1年の病人には見えず、岩泉は忘れそうになった。
来年、また春を迎える頃には、彼女は隣にいないのだろうか。嘘だ。だって葵はこんなにも、今を必死に生きているじゃないか。


「……なろうね、大人に。一緒におじいちゃんとおばあちゃんになって、ずっと、ずっと、私の傍にいてね」


それが叶わないと、誰よりも知っているのに。


「……………おう、当たり前だ」


嘘を重ねる事しか出来ない。
昔のようにした指切りげんまん、彼女の指は記憶の中のものよりも、折れそうに細く頼りなかった。



雨が降る。
どんよりと雨雲に包まれた空から、これでもかと言うほど冷たい雫が落ちてくる。
ぱらぱらと、ばらばらと、水滴が傘を打つ音だけが響いていた。岩泉は足元の水溜まりを踏まないよう気をつけつつ、右手に持ったビニール袋に目をやる。葵の好物だから、きっと喜ぶに違いない。

鮮やかな紫陽花が植えられた道の角を曲がると、幼い時から何度も何度も通ってきた白い建物が見えてきた。
葵は雨の日が苦手だ。気分が滅入り体調も悪くなるようで、極端に口数も少なくなってしまう。ベッドに横たわる彼女を思い浮かべ、岩泉は急がなければと歩調を早めた。




嘘つき。
病室に入った岩泉を待っていたのは、いつもの明るい声ではなく、悲痛な響きを孕んだ非難の言葉だった。


「……私、死んじゃうんでしょ」


思考が一瞬で凍りつく。なんでそれ、と反射的に尋ねそうになり、すんでの所で押しとどめた。
重たい沈黙が室内を満たして、足の裏の感覚がなくなっていく。浮いていくような、沈んでいくような、地面がぐにゃりと歪んで酸素が薄くなる。
確かな現実味を帯びた「死」という音に、岩泉は葵が余命宣告をされたことを理解した。そして、「嘘つき」という言葉が自分に向けられたものであることも。


「なんで言ってくれなかったの?はじめくんは知ってたのに、私に生きろって言ったの?」

「俺、は」

「嘘つきだよ、はじめくんは。一緒におじいちゃんとおばあちゃんになろうねって、はじめくん当たり前って言ってくれたのに、私が死ぬことわかってたのに」


嘘つき。どうせ来年には死ぬって、心の中で思ってたんでしょ。

違う、そうはっきりと否定できたらどれほど良かったか。
言える訳がなかった。自分が最も愛した恋人が、余命1年であることなんて、とても本人に伝えられなかった。口にしてしまったら現実になりそうで、彼女が死んでしまうような気がして、閉じた口は開かれようとしない。

ぽろり、葵の瞳から大粒の涙が溢れる。後から後から出てくる尽きない雫はゆるやかな曲線を描いて彼女の頬を滑り、顎から滴って落ちていく。
口元に手をやった葵は、小さく嗚咽を漏らしながら泣いた。ごめんね、ごめんね、はじめくんは悪くないの。呟かれる言葉にいてもたってもいられなくなり、岩泉は彼女のベッドに近寄りその細い体を抱き締めた。


「生きてくれ」


薄い肩を力一杯抱いて、彼は心からの願いを吐露する。


「頼むから、これから先も俺と一緒に生きてくれ」


来年の今頃、二人はどうしているのだろう。願わくば、今と変わらない幸せな生活を送っていればと思う。葵が自分の隣で笑っていればと思う。


「……別れてなんかやらねえからな」


『これ以上君の負担になってしまう前に、葵と別れてやってくれないか』
彼女の父親の声が脳内で蘇り、岩泉は確固たる覚悟を持って呟いた。雨はいつの間にか止んでおり、雲からはわずかに日の光が差し込んでいた。





雨が降る。
どんよりと雨雲に包まれた空から、これでもかと言うほど冷たい雫が落ちてくる。

宣告されていた1年が過ぎ、それからまた1ヶ月が経とうとしていたある日、葵は死んだ。
眠るように息を引き取り、安らかな表情を浮かべていた。両親はよく頑張ったと涙を流し、岩泉は彼女のいなくなった病室で一人肩を震わせた。


「……ゆびきりげんまん、嘘ついたら針千本のーます。ゆびきった」


針千本飲んで彼女の寿命が嘘になるならよかった。
岩泉は傘を少し傾け、鉛色の空を見上げ見上げる。容赦なく打ち付ける雨は、まるで葵の涙のようだと思った。

葵。
光の差し込まない路地でふと名前を呼べば、喉の奥まで何かがせり上がってくるような感じがした。
岩泉の手から傘が落ちる。ばしゃんと水溜まりが跳ね、水音はより一層強くなっていく。



雨に打たれる紫陽花を見つめながら、岩泉は声を殺して泣いた。いつかの彼女がしていたように、誰にも気付かれないように。


someday様に提出。


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