short | ナノ




切るタイミングを逃した髪の毛は毛先が傷んでいて、私は見つけた枝毛を指でぷちんと千切った。
肩に当たって無造作に跳ねるのが鬱陶しいので、後ろでくくるように掴む。真後ろにあるクーラーからの冷風がうなじを冷やし、いくらか涼しい。

高校に入学する時に周りに合わせて何と無く染めた髪は、色がほとんど抜けてしまってももう一度入れる気は起きず、地毛が中途半端に混ざっている。
近い内に美容院に行かなきゃな、と他人事のように考えながら手を離し、手首に付けておいたゴムを一旦唇で挟んでから髪の毛を結んだ。櫛も鏡も使っていないからボサボサだろうけど、細かい事は別にいいだろう。


「ーーーーでは、教科書43ページをーー」


黒板の前に立つ教師の声を聞き皆が一斉に教科書のページをめくる。私もそれに倣って言われた所まで開き、しかし中身は見ずに窓の外に目をやった。
端から端まで塗り潰したような青空。暦は8月を迎え気温は日増しに上がっていき、雲という存在に阻まれない太陽の光はやりたい放題グラウンドに陽の光を振りまいている。

短いスカートから出した太ももと木製の椅子とが触れている部分が、汗をかいて仕方がない。
濡れるし蒸れるし何より気持ちが悪く、私は足を浮かしてみたり扇いでみたりしてどうにか発汗を止めようと試みてはみるのだけど、上手くはいかなかった。
私は結局諦めて足を下ろし、気にしない事にする。授業が終わるまであと15分の辛抱だ。


月曜4限の現代文は眠いと言うよりもだるく、ノートを取る為にシャーペンを握ることすら億劫だった。
派手な黄色のペンケースは開く気にもなれなくて、真っ白なページを眼下に収めたまま、何をする訳でもなく担当教師の声を聞く。
果たして何の意味があるのか、教科書の文章の滔々と朗読する、今年で教師歴30年だという先生を見ながら、私は机の中に手を突っ込んだ。
少し動かすとすぐに目当ての物が見つかり、音を立てないようにそっと引き抜く。

私の手が掴んだのはこの春機種変したばかりのスマホだった。
現代文の担任は生徒の方を見ていないことで有名で、スマホを使おうがゲームをしようがばれた奴はいないらしい。だから私たちはこぞってこの時間を、内職と称して終わらない課題の仕上げや小テストの勉強に充てる。
そしてそれは私も同じで、画面の明るさを一番下にしていたバーを半分くらいまでにあげた。

メッセージが届いた。
画面上部に表れた通知をタップし、送り主である友人とのトーク画面を開く。
そこには一文、

『赤葦くんの話、どうなるかな?』

とだけあった。
赤葦くん、という名前を見て、私は目線を右斜め前のクラスメイトに向ける。
手触りの良さそうなふわふわの癖っ毛と、少し丸まった背中。律儀な彼は黒板の文字を写しているらしく、その右手は動いている。

私は少し迷ってから『知らない』と一言だけ打ち込んで送信した。すぐに既読が付き、『ふうん』という返事。
なんとなく間が悪くて、私は逃げるようにスマホの電源ボタンを押す。

机の中に戻すと本格的にする事がなくなり、ぼんやりと噂の彼に目をやった。
当たり前だけど当の本人はすぐ後ろで自分の名前が出されているなんて知る由も無く、じっと授業を受けている。私からは後ろ姿しか見えないのでその表情はわからないが、きっといつものように無表情でノートを取っているに違いない。

赤葦京治。
私立梟谷高校男子バレー部副主将で、私のクラスメイト。
身長はそこそこ高く、表情は乏しい方だけど優しくて、何より顔が良いのでよくモテる。噂だと一つ上の派手な先輩と付き合っているだとか、可愛いと評判の同級生マネージャーとデートしていただとか、後輩の女の子に告白されただとか、色々囁かれてはいるけれど、その実赤葦が誰かと付き合っていると公言したことは一度もない。そして、それは本当なのだと思う。

うちのバレー部は相当強いと聞くから、きっと練習量も大変な事になっているのだろう。
二年で副主将の彼に彼女なんて作っている時間があるとも思えないし、何よりそういう雰囲気は感じ取れない。確証があるわけではないが、確信ならある。赤葦はそんな中途半端な事をする奴ではないという、確かな自信が。


「……だから、嫌なんだよ」


心の中に止めていたつもりの思いは、気付かない内に漏れてしまっていたようだ。声に出してから慌てて口をつぐみ、誰か聞いていないかと周りを見る。
近くの皆は寝ているかボーッとしているかスマホをいじっているかで、誰にも聞こえていなかったようだ。危なかった、と私は胸をなで下ろす。

自分はここにいると必要以上にアピールしてくる蝉の鳴き声をどこか遠くに聞きながら、午前中最後の授業の終わりは告げた。








くちびるに憂い







「結局さ、どうなるんだろうね」


お弁当の卵焼きをもぐもぐと咀嚼してから、目の前の友人は不意に切り出した。
昼食の時間、食堂に行ったり他クラスに行ったりする生徒もいて、教室にはいつもの3分の2程の人数しか居ない。

彼女の言葉に私は一瞬口を動かすのを止めて、しかしすぐに手に持ったメロンパンに齧り付く。


「どうなるって、何が?」


そんなこと聞かなくても分かっているのにとぼけた振りをしてしまうのが私の悪い癖だ。友人も答えまで分かった上で聞いているのだろうから、お互い様なのだけど。


「何ってそりゃ赤葦くんのことだってば。やっぱ断るのかな」

「さあ、そうなんじゃない?私はよく知らないけど」


私が素っ気ない返事をすると彼女はまたつまらなそうに「ふうん」と呟いた。それから「相変わらずモテモテだねえ」と冷やかすように言ってから卵焼きを一口食べる。

赤葦の話というのは、つい先週の金曜日彼が告白された事だ。
相手は上履きの色から見て一つ下の1年生、顔ははっきりと見えはしなかったけど、可愛い子だとクラスの男子が話していたのを聞いた。
今時誰にでも見られる中庭で告白なんてするものだから、うちのクラスは勿論他クラスも皆窓に張り付いて様子を窺い、一部始終は全クラスに瞬く間に広がった。
可哀想に赤葦は戻ってきた瞬間皆から一斉に質問攻めにあっていて、その時だけは心底彼に同情したものだ。

告白の返事は来週の月曜、すなわち今日聞くと、1年の彼女は赤葦に言ったらしい。2日の期間を置いたところで彼の気持ちが変わるとも思えないが、最後の希望にかけてみようとするのが乙女心なのだろう。私には全く理解できない心情だ。


「赤葦が来たぞ!」


金曜と同じように窓から中庭を見ていた男子の1人がそう言い、周りの人間もわらわらと窓際に集まっていく。
どうやら返事をする為に赤葦が中庭に現れたらしい。
私はとても見る気にはなれなくて、喧騒に包まれた教室で黙々とメロンパンを食べていく。見ているらしい目の前の友人が「あ、泣いてる」と言ったのを聞いて、振ったことを知った。確信があった筈なのにどこかほっとしている自分がいて、そのちぐはぐさが気持ち悪かった。


少しして教室に帰ってきた赤葦は、告白された日のようにクラスメイトに囲まれ質問の嵐に遭っていた。
私はその輪に入ることなく、もみくちゃにされる赤葦を何とも言えない気持ちで見るしかなかった。







「………あ」


日直の仕事を終えて帰ろうと昇降口に行くと、まさに赤葦が今帰る所だった。踵の踏まれた上履きを靴箱に突っ込み、やたらとでかいローファーに足を掛けている。

私が漏らした声で気付いたのか、赤葦はふと顔を上げると私の顔を見た。段差のお陰かいつもより彼の顔は自分の目の高さとそう変わらない場所にある。

どうしてここにいるんだろうか。
部活は、と聞こうと思って、そう言えば夏に向けて改修工事をしていたはずだと思い出した。
赤葦と目が合う。いつもどことなく眠たそうな瞳が、ゆるりと私の目を捕らえる。
何か言おうと口を開いて、私は少し乾いた声で言葉を紡いだ。


「久し……ぶり」


同じクラスなのに、久しぶりというのも変な話だ。だけど事実、体感的には久々なのだからしょうがない。まともに話したのは何年か振りなのだから。

赤葦はちょっと驚いたような顔をして、でもまたすぐにいつもの表情に戻った。


「うん、久しぶり」


重たい沈黙に首を絞められる。気まずいというか気持ち悪い。水の中でもがいているような息苦しさを感じてどうしようかと考えていると、今度はあちらから話しかけてくれた。


「おじさんとおばさん、元気にしてる?」

「…うん、元気だよ。赤葦の所も?」

「うちはいつだってピンピンしてるよ」


そっか、と返事をすれば幼い頃温かく迎えてくれた彼の両親の顔が思い出される。もうどれくらい会っていないのだろう。最後に挨拶したのは小学生の頃だから、少なくとも4年以上は顔を見ていない。


「……会いたいな、もう全然会ってないや」

「また前みたいに遊びに来ればいいのに。今もたまに葵ちゃん連れて来なさいよって言われるし」


至って普通のトーンで放たれた言葉に、私は曖昧な笑みを返した。
こういう所が、赤葦らしい。それは勿論いい意味だけでは無く。


「家になんか行ったら、また噂立てられちゃうよ。赤葦モテるんだからさ」


苦笑いと共に言ったのは皮肉だった。赤葦は少し眉をひそめてため息をつく。「別にされたくて噂されてるわけじゃない」とでも言いたげに。


「ほら、さっきも告白の返事に言ってたんでしょ?大変だね、モテる男っていうのはさ。断るのも一苦労じゃん」

「あの子は…………断ったから」

「なんで、結構可愛かったんじゃないの」


ああ、本当に可愛くない。
どうしてこういうことを言っちゃうんだろう。心にもない事ばかり身勝手な口は勝手に言葉を吐いて、自己嫌悪の嵐に襲われる。
可愛くない、本当に可愛くない。

私が顔には出さずに心の中でだけ後悔していると、赤葦はやけにはっきりと、「今は彼女作ってる余裕なんてないから」と言った。
その声には清々しいほどに迷いがなくて、私は泣きたいような叫びたいような笑いたいような気持ちでいっぱいになる。


「彼女がいても部活ばっかでそんなに会えないし、両立なんて出来ないかなって」


嘘だ。赤葦は彼自身が思っているよりもずっと器用で気遣い屋だから、例え恋人が出来たとしてもちゃんと大切にすることができるのだろう。
ただそれをしないのは、部活に100%臨みたいからだ。上手くパーセンテージを振れるのに他を捨てて全てを捧げたいくらい、赤葦はバレーに打ち込んでいるのだ。


「だから、今は誰とも付き合う事はない」


真っ直ぐに前だけを見据えた瞳には、色目を使ってくる先輩も、顔を赤くして想いを伝える後輩も、疎遠になった幼馴染みも、何も映っていない。
見ているのはただ一つ、自らの青春を全部詰め込んだバレーボールという競技だけ。

みっともなくすがっている自分がどうしようもなく惨めに思えて、私は聞こえるか聞こえないかというボリュームで「そっか」と返事をした。赤葦が頷き、そして「じゃあ、俺練習する約束あるから」と言って踵を返す。

彼は5時過ぎという時間が嘘のように明るい、昇降口の外に向かって歩き出した。
まるで鮮やかに光り輝く未来に進んで行くかの如く、しっかりとした淀みない足取りで、授業中に見慣れた背は遠ざかっていく。

いつからこんなに、私達の間には距離が生まれてしまったんだろう。
幼稚園生の頃はほぼ毎日遊んでいたけれど、小学校、中学校と歳を重ねるにつれて会う機会も減っていき、同じ学校にいるにも関わらず話すことはほとんどなくなった。
私が隣にいない間に彼はどんどんと成長し、気が付けば私はとっくに身長を抜かされていて、こじらせた初恋は消える事も燃え上がる事もなく今も静かに燻っている。


「…………嫌、だなあ」


素直で正直な後輩のあの子が。人の告白を冷やかすクラスメイトが。彼を諦めきれない私が。優しくてずるくて眩しすぎる赤葦が。

白い光に包まれた赤葦の姿が見えなくなる。彼は立ち止まることなく進み続けているのに、私は昔からここでずっとうずくまって膝を抱えているだけだ。


あなたが嫌い。
仕方がないくらい愛しいのに、光の当たる場所で生き生きと輝くあなたが、心底嫌い。

私はなんて、醜い女なんだろう。



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