short | ナノ




岩泉一という人物を一言で表すなら、「無欲」の人だと私は思う。
無欲と言っても、夢や希望が無い訳ではない。それこそ彼が自らの青春を全て注ぎ込んで熱中するバレーボールにしたって、全国大会出場という大きな目標を持っている。
岩泉の違う所は、それを「願っている」のではなく「信じている」ことだ。「勝ちたい」ではなく「勝つ」と思っていることだ。
だから彼は夢を欲にして神頼みすることもなければ、調子が悪かったなどと言い訳をすることもない。勝ちは勝ち、負けは負け。どうしようもなくシビアなスポーツの世界で、岩泉は結果に納得し、だからこそ悔しがり、だからこそ強い。

青葉城西高校男子バレー部というのはどうやらかなり強いらしく、県の4強にいつも入っていると聞いたことがある。
主将の及川の存在は、入学した頃から知っていた。明るくて友達も多く見た目もよかったから、学年でも有名だった。更に中学の時にベストナンチャラ賞を取ったほどだと言うから、スポーツも出来る。絵に描いたような完璧人間だなと思った。

だけどその当時岩泉の事を知っていたかと言われれば、私は首を縦には振れない。勿論廊下ですれ違ったりだとかそういうのはあったと思うけれど、岩泉一の存在を認識してはいなかったと思う。
私が彼をきちんと知ったのは、2年の夏だ。及川の事が好きな友達に連れられ、市の体育館で行われるバレーボールの大会を見に行った時だった。
及川くん及川くん、とはしゃぐ友人の隣で、私の目が追ったのは岩泉だ。何故かはわからない。理由なんて検討もつかないのだけれど、とにかく私はまだ名前さえ曖昧だった岩泉を、ただじっと見ていたのだ。

ボールが宙を舞う。重力に逆らって空中に投げ出されたそれを、岩泉の腕が勢いよくコートに叩きつける。
ピッ、と笛の音が鳴って、水色のユニフォームを着た岩泉達のチームから歓喜の声が上がった。こちらにまで伝わってくるような熱気。雄叫びにも近い勝利の余韻に充てられたのか、知らず知らずの内に私の頬は赤くなっていた。


それから少しずつ岩泉の事が気になり出して、転機は大会から一ヶ月近く経った頃だ。そのとき同じクラスだった及川繋がりで、彼の連絡先を知った。メールのやり取りを交わし、意気投合し、実に自然な流れで私達の関係は交際に発展したのだ。
お互い性格がさっぱりしている事もあり、特に喧嘩をすることもなく、私達のお付き合いは極めて順調だった。強豪バレー部のエースである岩泉と帰宅部の私とではスケジュールが合うことも少なくて、デートなんて数える程しかしたことがないけど、それでも私は良かった。たまの休みに彼の家でゆっくりするのが好きだし、部活が終わるまで図書室で勉強して、二人で帰るのも好きだからだ。


「……河野ってなんつーか、欲がねえよな」


いつだったか、帰り道で岩泉にそう言われたのを覚えている。欲って、どういう感情の事を言うのだろうか。
お金持ちになりたいとか、あれが欲しいとかこれが欲しいとか、確かに言われてみれば私は欲が少ない方なのかも知れない。


「それは、岩泉もでしょ」

「俺はいいんだよ。でもお前はなんかこう、もっと……」


唇を尖らせた岩泉が、むう、と考え込む。結局言いたい事がまとまらなかったらしい岩泉は「やっぱなんでもねえ」と首を振り、話題は別のものに逸れた。

欲。
あれが欲しいとかこれが欲しいとか、私は本当に思っていないのだろうか。










ためらい星










「うおっ」


突然元気よく音楽を奏で始めたスマホに反射的に肩が跳ね、枕元に置いてある音の発信源に手を伸ばした。右手に持っていたシャーペンを一度机に戻し、表示された名前を確認する。

『岩泉』

普段電話なんてほとんどしない彼が、一体どんな用事なのか。それも、こんな時間だ。何かよほど大事な用件でもあるに違いない。
時刻は12時前を示しており、私は画面をタップして電話に出た。もしもし、岩泉?と恐る恐る声をかけるとワンテンポ遅れて「おう」という返事が返ってくる。


「なに、どうしたの?」

「ああ、いや、」


いつもハキハキと喋る岩泉にしては珍しく、歯切れが悪かった。そんなに言いにくいの、まさか別れ話?と思考が一気に飛躍し次の言葉を待つ。

窓の外、見てみろ。

放るような声に首を傾げながら言われた通りにカーテンを引くと、真下の道路に人影が見えた。真っ暗な道路にぽつんと、自転車に股がった岩泉が携帯を耳に当てこちらを見ている。
え、なんでいるの?
咄嗟に口をついて出た言葉は中々に失礼だったが、彼は特に気にした様子もなく「まあ、」と曖昧に答えた。
岩泉の家はうちからそう遠くはない。コンビニかどこかに寄った帰り?いや、それにしては遅すぎる。


「もし無理だったら悪ィんだけどさ、今、出て来られるか?」


窓ガラスの向こう側で、電話を耳につけたまま岩泉はそう言った。鼓膜をダイレクトに揺らす音声と視線の先の唇が少しずれている。

数秒の逡巡の後私が電話口で「いいよ」と返事をすれば、岩泉のぶっきらぼうな相槌と共に通話が切れた。









1階でテレビを見ていた両親に「家の前に友達が来てるから、ちょっと会ってくる」と言うと、長話しないでね、という注意と了承が返された。二人とも岩泉のことを知っているから今さら誤魔化したって無駄だけど、それでも面と向かって「彼氏と会ってくる」と言うのは照れ臭い。

それから慌てて鏡を見た。普段から化粧なんてほぼしてないに等しいが、さすがにお風呂も済み完全な家モードの顔で恋人の前に出るのは如何なものか。
せめて半分は隠そうと思いマスクをして、自らの格好に息を吐いた。ただのパジャマである。どうしようかと迷った末に下だけジャージに履き替え、薄手のパーカーを羽織った。これでいくらかマシになったと信じたい。

スニーカーを履いて玄関を出ると、ほんの少し冷たさを孕んだ夜風が吹いた。夏に近づいているとは言え、6月の上旬、夜はそれなりに冷える。


「…………こんばんは」

「……おう」


ドアを開けたそこには当たり前の事ながら岩泉がいて、私はおっかなびっくり声をかけた。部活のジャージに上だけ青色のトレーナーを着ている。
何とも言えない空気に苦笑いし視線を宙に漂わせていると、岩泉は頬を掻きながら口を開いた。


「あーその、いきなり呼び出して悪かった」

「あ、うん。……えっと、ご、ご用件は」


―――まさか本当に別れ話なのだろうか。
心に思っていたことがそのまま顔に出ていたらしく、「そんな深刻な話じゃねえよ」と苦笑される。ほっと安心した私の目の前で岩泉はちらりと携帯を確認し、それから言いにくそうに声を発した。


「……前さ、河野は欲がないって話したの覚えてるか?」

「うん、覚えてるよ」

「そん時俺も欲がないってお前が言っただろ」

「…うん、言った」

「それで、さ」


そこで言葉を切った岩泉は何かを決意するように鼻から息を吸い込み、はっきりした口調で言った。


「明日、俺の誕生日だから」


唐突な告白に、一瞬脳が思考を停止する。え、明日?なんで言ってくれなかったの?というか、なんで今言うの?


「えっ、待って、え、私プレゼント何も用意してない!」

「バカ、最後まで聞け」


軽いパニックに陥った私に向かって、岩泉は携帯の画面を向けた。0時0分、ちょうど日付が変わっている。


「……欲しいものとか思い付かねえから、誕生日の瞬間にお前に会いたいなって思ったんだよ文句あっか!!」


もごもごと話していた岩泉は最後の最後で逆ギレして、少しだけ声を荒げた。
彼の言葉に頭が真っ白になり、じわりじわりとインクが滲むように理解する。そのおよそ彼らしくない台詞に頬が徐々に熱くなってきて、赤い顔を隠すようにへなへなと座り込んだ。別れ話なんて、とんだ杞憂じゃないか。


「………岩泉、耳真っ赤」

「うるせ」


見ているこちらが恥ずかしくなるほど熟れた頬を指摘すると、岩泉は髪の毛をガシガシとかきむしった。


「あーくっそ、やっぱこういうの性に合わねえ!帰る」

「あ、待って!」


背を向け自転車のハンドルに手をかけた彼の服を急いで掴み、小さく息を吸って呟く。


「……わ、私も一個、欲を言ってもいいでしょうか…」


ふわりと私達の間を吹いた風は、穏やかで優しかった。私の「欲」に目をぱちぱちと瞬かせた岩泉は、やがていつもの凛々しい表情で深く頷く。


岩泉は私を欲がないと言うけれど、そんなことはないと思う。
もっと会いたい。もっと話したい。下の名前で呼び合いたい。二人でどこかに出掛けたい。たくさん写真を撮りたい。もっと電話がしたい。もっと抱き締めたい。もっとキスしたい。もっと、もっと、貴方のことを愛したい。
尽きることのない望みを全て言ったら彼を困らせてしまうから、私は「今のままでいい」と笑うのだ。だけど、もう少しわがままになってもいいのなら。

来年も、再来年も、その先もずっと、私と一緒に歩いてほしい。

自分に鈍感な貴方の分まで、私が欲張りでいてあげる。



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