short | ナノ




6つ上の姉は恋多きひとだった。

と言っても男を取っ替え引っ替えするという訳ではなく、とにかく好かれるひとなのだ。男からも、女からも。
色素の薄い髪は胸の下辺りまで伸びていて、透けそうな程細いのにほつれているのは見たことがない。
儚げな空気と元来の性格の良さ、それから人を惹き付ける引力のようなものを持っていた。
だからこそ告白してくる男は絶えなかったし、惚れっぽい姉はその度その男に恋をしていた。

俺がまだ小学生の頃だったと思う。
ランドセルを背負って家に帰ると、玄関には姉のローファーがあるのに当の本人は家のどこを探してもいなかった。
1階と2階を数度行き来してから庭に人影を見つけ、「姉ちゃん?」と声をかけながら窓に手をかければ、そこには地面にうずくまる姉の姿があった。

私立の高校に行っていた姉は真っ白いセーラー服で、でもアイロンのかかったスカートのプリーツはしゃがんだせいでぐしゃぐしゃだ。


「姉ちゃん」


小さな嗚咽を洩らす姉にたまらず声をかけても、返事は返ってこなかった。
耳にかけられた髪の毛が、ぱさりと外れる。手荒れとは無縁のように思える綺麗な指の隙間からは、透明な雫が伝っていた。

思えば、俺はこの頃からかなりのシスコンだったらしい。
静かに静かに泣く姉に何て言ってやればいいかも何をしてやればいいかもわからず、俺は黙って彼女を見つめていた。
どれくらいの間そうしていただろうか。
昼過ぎに帰ってきた筈なのに気が付けば空が茜色に染まっている位には、ただその場に立ち尽くしていたと思う。

おもむろに立ち上がった姉はスカートについた土を払おうともせず、まだ赤く充血した瞳を擦りながら、俺の方を向いた。


「………お姉ちゃん、フラれちゃった」


ほんの数日前まで、付き合って半年がどうだと言っていたのに。
へへ、と下手くそな笑顔を作った姉は、その長い睫毛をしっとりと濡らす。


「姉ちゃ、」

「徹、晩ごはん買いに行こうか」


両親が共働きだった為、夕飯は姉の担当だった。
薄い夕日を背に差し出された手は仄かに震えていて、誰かが掴まないとサラサラと砂になって風で飛んでいってしまう気がした。
すべすべで、柔らかくて、包み込むような温かい手。

今日の夜はオムライスにしようか、それとも徹の好きなハンバーグにしようか。帰りに明日の朝ごはん用の牛乳パンを買って帰ってもいいね。

にこやかに話しながらスーパーへ向かう姉は俺よりもはるかに背が高くて、横顔は見上げないと見えない。


いつからだったのだろうか。

当たり前のように繋いでいた手に、俺を叱る唇に、段々と女らしさを増していく後ろ姿に、焦がれるようになってしまったのは。

やがて冬が来て春が来て夏が来て秋が来て、季節が過ぎていく。
後を追うように姉の母校に入学して、気が付いた時には俺は無意識の内に姉のぬくもりを求めるようになっていた。

脳髄の細胞一つ一つにまで染み込んだ姉への想いを振り払うかのように、彼女は決まって色白でロングストレートの子だった。

だけど、足りない。
鼻腔にこびりついた目眩がするような姉の香りが、鼓膜を甘く揺らす心地のよいソプラノが、脳裏に焼き付いた色っぽい泣き顔が。
足りない。足りないのだ。

姉に対する好意が一般的なものの範疇を越えていると気付いた時には、もう遅かった。
胸の奥で芽吹いた気持ちは止まることを知らず、むしろ日を追う毎に育っていく。



その感情の名前を知ったのは、中学に上がった頃だ。


誰かを想って胸を焦がす事を、人は恋と呼ぶのだろう。














白雪姫の残り香














地元の大学に入った姉は、独り暮らしではなく実家通いを選択した。
当然ながら生活のサイクルも変わり、俺は俺でバレーという競技に魅せられ朝から夜まで部活に没頭していたので、同じ家に住んでいる筈なのに顔を合わせる機会が減っていった。

姉は中学・高校と6年間部活に入っていなかった。
運動はからっきしな人だったし、頼まれて入った生徒会の仕事が忙しかったと、本人は言っていたが。
そういや歴代彼氏の中に生徒会長が居たな、と顔もわからない男に嫉妬しては、その不毛さに笑いが込み上げる。

不毛だ。もし第三者の立場で見ていたなら、今の自分に今すぐまともな恋愛をするよう薦めただろう。


「徹ー?電子辞書持ってたら貸してくれない?」


高校に上がると部活の終了時間も更に遅くなり、比例するように話さなくなっていく。
そんなある日、確か次の日が提出の課題を終わらせていた真夜中だ。控えめなノックの後、何日ぶりかに姉の声を聞いた。
「いいよ、」と軽く答えるつもりが何故だか妙に乾いた音しか出ない。
キィ…と静かな部屋に響いた音に、心臓がどきりと跳ね上がる。姉も俺もパジャマ姿だった。


「電子辞書なら、そっちの棚」

「あ、うん。ありがとう」


まだ乾ききっていない髪の毛は部屋の明かりに反射していて、より一層艶っぽい。
目当ての物を見つけたらしい姉は少し迷う素振りを見せて、俺の背後から課題を覗き込んだ。


「今どんなのやってるの?」


お風呂上がり特有の甘くて清潔な香りが至近距離で薫る。
脳の神経がやられて瞼の裏に星が飛ぶような、有り得ない程の衝撃だった。
微かに触れ合った部分が熱い。
そこからじわじわと熱が伝わっていき、やがて全身に広がる熱さは、もはや罰ゲームとしか思えなかった。


「……ごめん姉さん、明日俺早いから」

「あっ、うん。ごめんね徹。……じゃあ、おやすみ」


ひらひらと手を振る姉が部屋から出て行くのを気配で感じながら、俺は食い入るように目の前を見る。
膝の上でつくった握りこぶしは爪が食い込む程に固く握っており、俺はこのどうしようもない熱をどうやって逃がそうか必死だった。


俺が高校生になってから輪をかけてよそよそしくなった事に姉が心を痛めているのを、知っていた。

だから、だろうか。

3年に進級した春の日、姉が唐突に放った(いや、俺が知らなかっただけで家族の中では公認だったのかも知れない)言葉に、初めて「おめでとう」と言う事ができた。


「徹、あのね」


今まで姉から彼氏ができた、別れた、と聞くたびに行き場のないもやもやを抱えていたというのに。
これが、大人になるということか。

なんにせよ、幸せそうに笑う姉を見たら、どうでもよくなったのだ。

ああ、これでいいや。
この人が幸せなら、俺はそれで満足だ。


「あのね、私結婚するんだ」


姉が家を出て2年。
久し振りに会った彼女は以前にも増してきれいになっていて、そして、両手いっぱいの幸せを抱えて帰ってきた。

多分これが、俺の失恋した日。










「姉さん、結婚おめでとう」


ウェディングドレスを着た姉にそう声をかけると、彼女はばっと振り返って、瞳に大粒の涙を浮かべた。
ぎょっとして慌てたもののそれはどうやら嬉し涙らしく、姉は微笑んだまま口紅の引かれた唇を開く。


「…っ、私、徹に嫌われちゃったのかと、思って…っ」

「なんで俺が姉さんの事嫌うの。そんなことないから大丈夫」


嫌いだなんてとんでもない。むしろ逆だ。
胸に溜まったわだかまりが霧が晴れるように消えていく。


「ほら、あんまり泣くと折角の化粧が崩れちゃうよ」

「うう…徹ぅ…」


溜まった涙を指でそっと拭ってやってから、姉の名前を呼ぶ彼女の友人の方へ背中を押した。


「姉さんは今日の主役なんだから」









姉のドレス姿は来場者が息を呑むほどに美しかった。
だけど俺の心が揺れなかったのは、旦那を心底愛しそうに見つめる彼女を見たからかも知れない。
俺じゃあんな表情はさせられない。
それは諦めのようでもあったし、ある意味初めからわかっていた事でもあった。


「いくよー、せーのっ」


姉の華奢な腕からブーケが投げられる。
清々しい青い空に、華麗な花束が舞う。

どうか、どうかこの先の貴女の人生にあらんかぎりの幸せが訪れますように。
そして願わくば、今度は姉弟ではなく他人として生まれますように―――。

2つめの願いは心の中で呟くのをやめた。
来世のことは来世に考えよう。



とにかく今は、この肺の隅々まで染み渡るような幸せを噛み締めようじゃないか。
宙を舞うブーケを見上げながら、俺は一人口角をあげた。



貴女に幸あれ、俺の初恋の人。







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