short | ナノ




「……っわ、別れてほしいの…」


喉の奥から絞り出した声はか細く、けれど確かな音になって夕映えが照らす通学路の空気を揺らした。
いきなり立ち止まった私に振り返った夕くんの顔が見れなくて、自分の爪先をじっと見つめる。
沈黙が怖くなって瞼をぎゅっと閉じれば、前の方からザリ、とコンクリートを踏む音がした。
何をされるのかと身を縮めても一向に夕くんからの返事はなく、恐る恐る顔をあげる。

ぽかんと口を開けた彼と真正面から目が合ってしまい、反らすに反らせなくなった。


「……あの、夕くん?」

「あ、いや、悪い……え?」


うまく伝わらなかったのかと思って声をかけてみると、夕くんは今電源が入ったロボットのようにぎくしゃくと返事をして、それから困惑気味に頬を掻いた。
顔が赤く見えるのは夕日に照らされているせいだろう。


「え、あー、いや、……今なんて?」


目線をやや下に下げて、夕くんが私に聞き返す。
もう一度同じ言葉を言わなくちゃいけないのは心苦しかったけど、私は唾を飲み込んで、今度ははっきりと言った。



「夕くん、今まで私とお付き合いしてくれてありがとう。……だけど、別れてください」



震えそうになる手は制服を握ることで隠し、真っ直ぐに夕くんを見る。
肩からエナメルを掛けた彼はぱちぱちと瞬きを繰り返した後、ひきつった笑顔を浮かべて言った。


「……理由とか、聞いていいか」


伝えることにいっぱいいっぱいになっていた私は理由なんて用意してなくて、視線を宙に漂わせる。
動揺を悟られないように瞳を強く瞑ってから、一番無難なものを選択した。


「ほ、他に好きな人が、できたの」

「………………………………そっか」


長い沈黙のあと夕くんがぽつりと呟いて、「ごめんな、なんか色々」と乾いた笑いを混ぜた。
その優しさに思わず涙が込み上げて、閉じた瞼に雫が溜まる。
謝罪の言葉に首を振れば涙が溢れてしまい、私の頬に伝った。


「……葵が泣いたら、俺が泣けねえじゃん」


堰を切ったように後から後からあふれ出る涙は止まらなくて、コンクリートに染みを作り始める。
夕くんの手が伸びてきて、私から眼鏡をすっと取った。
あまり変わらない背丈、なのに私より遥かに男らしい指が涙を掬う。
包み込むように頬に手を添えられて、夕くんがゆっくりと近付いてきた。
ちゅ、と控えめなリップ音を立てて私の額に彼の唇が落とされる。


「じゃあ、これで最後な」


にしし、と笑った夕くんの顔をまともに見れなくて、かけ直して貰った眼鏡のツルを握った。


「……ごめんね夕くん、ごめんね…」

「謝んなって。葵は別に悪くねえよ」

ああ駄目だ。
夕くんが優しすぎて、決心が揺らぎそうになる。
覚悟を奮い立たせて頷き、私は彼に背を向けた。


「………私、こっちから帰るね」

「…………おう」


一緒に帰るときはいつも別れ際に繰り返していた『また明日』という言葉はどちらからも出ない。
踵を返したまま、私は歩調を速めた。














ぬるめの愛の賞味期限














人見知りだし、喋り下手だし、性格暗いし、眼鏡だし、鈍くさいし、頭もそんなに良くないし、友達少ないし、眼鏡だし、眼鏡だし。

自虐的だと言われてもしょうがないけど、正直自分でも自分の良い所がないと思う。
むしろ悪いところしか見つからないし、夕くんがいったい私のどこを見初めてくれたのかが未だにわからない。

去年同じクラスだった西谷夕くんは絵に描いたような人気者で、彼の周りにはいつだってたくさんの人がいた。

ノリがいい。性格がいい。ちょっとうるさい時もあるけどいつだって明るくて、面白くて、周囲の人間を否応なしに巻き込んで、だけど最後は皆笑顔になっている。
そんな、雲の上に近い存在だった。

抱いたのは到底叶うはずもない恋心、叶わなくてもいいとさえ思った淡い想い。

クラスが変わって彼とは顔も合わせなくなって、消えるかと思った片想いは強まる一方で。
きっとこれから先彼と話す事もなく私は卒業するんだろうな、なんて漠然とした現実を突き付けられていた頃だ。
たまたま帰り道、夕くんと会った。

忘れられているどころか覚えてももらえてないと思っていたのに、親しげに話しかけられた。
家の方向が一緒だからと並んで歩いて、別れる直前に告白されたあの瞬間を、私は死ぬまで忘れない。もしかしたら、死んでからも忘れないかも知れない。
それくらい衝撃的で、心臓が止まるかと思った。多分何秒か心臓は止まっていた。


そして今度は、私が同じ場所で別れを切り出したのだ。



「葵、やっぱあんたバカだわ」

「………傷心中の友人に相変わらず冷たいね、むっちゃん」


お昼休み、屋上へ続く階段にて。
目の前でいちごミルクを飲む数少ない友達に容赦ない言葉を浴びせられて、私は立てた膝を胸の前で抱えた。

ストローから口を離したむっちゃんが「彼氏に甘やかされてんだから、私は辛いくらいがちょうど良いの」とあっけらかんと言い張り、彼氏というワードにまた涙が滲みそうになる。


「そんな泣くくらいなら、別れなきゃいいのに」

「………だって、私と付き合ってると馬鹿にされるんだもん。迷惑なんてかけたくない」

「なに?馬鹿にされてるのを見たの?」

「……聞いちゃった」


聞いちゃったのだ。

早目に学校に着いたとき、夕くんのクラスには朝練があった部活組の子達がいた。
聞くつもりがなかったと言えば嘘になるけど、通りすぎた教室から私の名前が聞こえてきて、立ち止まってしまったのだ。


『え、西谷って河野と付き合ってんの?』


驚きとかよりも、嘲笑が混じった悪意のある声だった。


『河野って誰?』

『ほらあれ、眼鏡のザ・地味みたいな』

『うっそ、何であの子なのー』

『つーか、バレー部のマネージャーめっちゃ可愛くね?3年のさ、』

『あー!わかる、ちょっとエロい感じのな』

『おんなじ眼鏡でも全然違うし』

『あ、もしかしてあの美人マネの代わり?』

『無理無理、代わりにもなんねーよ』



『西谷、趣味悪いなー』



右から左にながれるように進んでいく言葉を聞きたくなくて、私は小走りで教室から離れた。
トイレに逃げ込んで深呼吸、乱れた息は整わず、鼓動は早い。
はっきりとした形の悪意というのに慣れていなくて、頭を氷の塊か何かで殴られたような感覚だった。

私と付き合ってると、夕くんが馬鹿にされる。
彼は何も悪くないのに、彼の評判を下げてしまう。




「……だから、これでいいの」


目をごしごしと擦って笑って見せると、いちごミルクのパックを潰しながらむっちゃんは上を指差した。
彼女の人差し指を追うと、その先には屋上のドアしかない。


「今の話、本人に直接聞かせてやんなよ」

「……へ?」


がチャリという音に反射的に肩をすくませ、扉が開くのが気配でわかった。
振り向くのが怖くて、でも振り向かなきゃいけない気がして、思いきって体を捻ればそこには夕くんがいた。

なんでいるの、とか話聞いてたの、とか屋上は立ち入り禁止だよ、とか言いたい事が次々と浮かんで、どれも言葉にならないまま消えていく。
「私が呼んどいた。ちゃんと話し合いなよー」とむっちゃんはすぐに去ってしまって、鈍い沈黙が場を埋める。

口火を切ったのは彼だ。


「…………………ほんとか?」

「え?」

「俺に迷惑がかかるから、別れるって言ったのか?」


隣にすとんと腰を下ろした夕くんは私をじっと見たまま、どストレートな質問を向けてくる。
もう誤魔化しは利かないなと思って、私は小さく顎を引いた。

呆れた?嫌いになった?愛想尽かした?

何を言われる覚悟もできていた筈なのに、いざこうなると嫌われたくないなんて思ってしまう私がいる。


「ばっかじゃねーの」


予想だにしなかった答えに驚いた。
隣の夕くんは拗ねたように唇を尖らせていて、しきりに「バカだな」「バカだ」「俺よりバカ」「ほんとバカ」と繰り返している。


「あ、あの夕くん、」

「そんな事気にしてんじゃねーよ、バカ」


不意に眼鏡を外されて、鼻の付け根に甘噛みされた。
唐突な出来事に脳みその処理がついていかない。これが噂のキャパオーバーか。

じりじりと近付いてくる夕くんからじりじりと逃げているうちに、背中が壁に当たった。
踊り場に上がって体育座りをして、体を縮こませる。




「………馬鹿にしたい奴らになんか、言わせときゃ良いんだよ。俺は葵が居ればいい」




それともなんだ、俺の言葉よりそいつらの言葉の方を信じるのかよ。

不満そうに言う夕くんに首を横に振って、また零れそうになる涙を今度は塞き止める。


「わ、私でほんとにいいの?」

「葵じゃなきゃ嫌だ!」


即答とともにおでこにキスをされて、顔が赤くなっていくのがわかった。

好きだ。私もやっぱり、夕くんじゃなきゃ駄目なんだ。


「俺と、付き合ってくれ」


心臓が止まりそうになる。


「……はい」


だけど止まらない。
その代わりに、激しく鼓動を刻み続ける。


「ゆ、夕くん!ここ学校だってば!」

「大丈夫、俺がバレないって言ったらバレない!」


謎の自信に満ちた言葉と共に降ってくるキスの嵐を受けながら、私はむっちゃんに心の底から感謝した。




「あ、夕くんって眼鏡好きなの?」

「眼鏡っつーか葵ならなんでも好きだ」

「……やめて、恥ずかしいからこっち見ないで」








「おはよ、むっちゃん」

「あーおはよー……………え?」


朝一番に声をかけると、むっちゃんは頬杖を崩して私を見た。


「だ、大丈夫かな、変じゃない?」

「いや、うん、むしろ完璧だと思うけど、何、どういう心境の変化?」

「見た目だけでも変わったら、少しは嫌な事言われなくなるかなと思って……」


胸の辺りまであった髪の毛は、思いきってショートカットにしてみた。
長年付き合ってきた眼鏡とはおさらばして、慣れないコンタクトをつけてみた。
こんなことでお喋り上手になるわけでも明るくなるわけでもないのはわかっているけど、せめて形から入ろう。

胸を張って、貴方の隣に並べるように。





「………だってさ。愛されてるじゃん西谷サン」

「…かわいい…ものっすごくかわいいけど………」

「ちなみにクラスの野郎共は、なんか良くね?って話してたよ」

「うがーっっ!!それが嫌だったんだよ!!葵が可愛いのがわかってもらえんのは嬉しいんだけどさ、変な奴に言い寄られないか心配で心配で……どうにかクラス変更できねーかな…」

「まああの子もあんたにぞっこんだから、大丈夫じゃない」

「……………ならよし」


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