short | ナノ




本を探そうと思っていつもの場所に行ったら、そこには先客がいた。
一般の生徒はほとんど来ない、図書室の一番奥の棚。
ぎっしり詰まった洋書の数々、僕以外借りているのを見たことがなかったのに。

―――――今日は違う。

知らない女子生徒が、ひとり、分厚い本を読んでいた。
上履きの色から判断して、2年生。
肩にかかる程度の髪の毛を耳にかけ、白魚のように細く白い指で静かにページを捲る。

もちろん需要があるから置いているんだろうけど、僕と同じような本を読む人を見たのは初めてだ。
彼女の周りだけ時が止まっているように感じられて、思わず息を止める。
伏し目がちの瞳が紙の上を滑るように文字を追い、またぱらりとページが進んでいく。
茶色い革表紙に、金箔貼りのタイトル、聖書並みに薄い紙とくれば、中に書かれている文字も全て英語だろう。

英和辞書なんて使わず滑らかに読んでいくのは、そんなものが必要の無い程英語ができるのか、それとも内容は読んでいないのか。

どっちだって良いと思った。


どっちだって良いから、この儚い人の姿をもっと見ていたいと思った。













ナイものねだり













「…………………あ」


声をかけることもできずその場に立ち尽くしていると、気配を感じたのかその人が顔を上げた。
視線がぶつかり合い、何故だかわからないけど体が硬直する。
驚いたように瞬きを数回した彼女は僕に向かって軽く会釈をすると、また本に目を戻した。
そこでようやく、止めていた息を吐く。

集中して読んでいるのに邪魔したら悪いかなと思って、少し離れた所に立った。
隣の本棚に目を向けて、次に借りる本は何にしようかと上から眺めていくと、前回僕が借りた本がない。
あんな極太の洋書、いったい誰が借りたんだろうと疑問に思っていると、右側から声がした。


「………あなた、月島蛍くん?」


凛とした涼やかな声にハッとして、顔を向ける。
恐らく今僕の事を呼んだであろう人物は本から目を離さないまま、その唇を動かした。


「この本を借りた人でしょう、私の他に読む人がいたなんてびっくりしたわ」


抑揚もなく淡々と紡がれるのに、その言葉にはどこか温かみがある。
はあ、と曖昧な返事をしたら、その人はくすりと笑って、僕の方を向いた。


「初めまして。この本を読んだのは、貴方で2人目よ」


烏野の図書室の貸し出しはまだアナログで、本の後ろのカードに学年組名前を書くタイプだ。
じゃあきっと、目の前にいる彼女が僕の前に唯一名前を書いた人だろう。


「えーと……河野葵さん…」

「覚えてくれてるの?まあ2人しか名前書いてないんじゃ当たり前か」


借りた本のほぼ全てに書かれていたその名前は、自然に記憶していた。
相当前に借りたのか、日付けなんかを書く欄が汚れて見辛かったのを覚えている。
実際に会ったのは初めてだけど。


「……こんな本ばっか読んでるんだから、ものすごいガリ勉だと思ってました」

「ご期待に沿えなくてごめんね。でも筋金入りの洋書オタク。月島君も?」

「まあオタクって程じゃないですけど、そこそこ読みます」


じゃあ私の後輩だね、と笑みを浮かべて、河野さんは本に何かを挟んだ。
細長い、紙のような物。栞だろうか。

学校の蔵書に勝手に栞を挟んで、しかも借りないなんて。
誰かに盗られても知らないですよと言いたかったけど、やめておいた。
だって多分、こんな本を読むのは僕達くらいしかいないと思ったから。






『lonely person』

それが、葵さんと初めて出会った日に彼女が読んでいた本だった。
直訳して『孤独な人』。題名に相応しい、天涯孤独の男の物語だ。

僕は変わらず図書室に通っていたし、借りる本にはいつだって先頭に河野葵の名前があった。
そしていつしかあの本棚には常に葵さんが先に来ていて、僕達が会うのは日課のようになっていた。


「ねー月島君、君彼女とかいないの?」


ここの本は全部読んだと言って借りず、堂々と立ち読みする葵さんが出し抜けに聞いてきた。
前振りも何もないド直球ストレートな質問に一瞬たじろぐ。


「何ですか急に」

「いや、今時こんなに洋書読む男子高校生って珍しいんじゃないかと思ってさ。英語できる人って格好いいじゃん」

「……はあ」

「それに月島君って背も高いし顔もそれなりに良いし、彼女くらい居てもおかしくないと私は思うんだけど」


葵さんは、意外にお喋りな人だ。
冗談も普通に言うし、日常会話のテンションは僕より高い。

だけど、一旦本を読み始めた時の集中力は、声をかけるのを躊躇う程だったりする。
ページを捲る動作のひとつひとつが丁寧で、ずっと見ていたくなる。


「………葵さんが、彼女になってくれたら嬉しいんですが」


僕としては、最大級にしぼった勇気の結晶だった。
葵さんの表情が凍り付き、それから不格好な笑顔で「なに言ってんの」と笑う。
失敗したな、と思った。
もう少しタイミングを見計らえばよかった。今のは完全に僕の落ち度だ。


「………そう言えば、葵さんって自分の読む本に栞挟んでますよね」


この変な空気を解消すべく、僕は何もなかったかのように尋ねる。
葵さんは嗚呼あれね、と読んでいた本を捲った。
ページとページの隙間に挟まっていたのは、小さな青い花で作られた栞。


「可愛いでしょ、自分で押し花にしたんだ」

「なんていう花ですか?」


覗き込んだ花を見ながら、何の気なしに聞いた。


「…………内緒」


妙な沈黙があって、彼女が悪戯っぽく笑う。
それ以上追求させない雰囲気を醸し出した葵さんは、本をパタンと閉めてから、そろそろ戻った方がいいんじゃない、と言った。
確か、次は体育だ。
休み時間のうちに着替えておかなきゃいけない。

結局花の名前はわからないまま、僕は図書室を出て教室に戻った。
だけど体育の間中、彼女の笑顔が瞼の裏から離れなかった。







次の日も、僕と葵さんは図書室の一番奥で会った。
ただいつもと違うのは、二人とも無言ということだ。

昨日の告白もどきが気まずくて僕からは話しかけず、普段なら声をかけてくる葵さんもだんまり。
お互いが本のページを進める音だけが静かに空気に溶けていく。


「………………cry for the moon」


そんな中、思い出したように葵さんが呟いたのだ。
『cry for the moon』。
聞いたことがあるような、ないような。

もやもやとした記憶の断片を探っていると、ぽつりと正解が隣から呟かれる。


「『lonely person』の副題よ」


ああ確かに、と納得する前に、彼女がまた口を開いた。
初めて会った時と同じような、淡々とした喋り方。浮かんだ違和感、なんだろうこの感じは。


「月島君、あなたなら何て訳す?」

「……手の届かないものを欲しがる、ですかね」


月が欲しいと泣いたって、それは無駄なこと。
だって、月は誰の物でもないんだから。

抑揚の無い声で紡がれる言葉は、何かを諦めているような節があった。


「……ないものねだりなのよ、ほんと」


囁くように落とされたその言葉は、涙で震えているような気がした。


ごめんね月島君、貴方の事は好きよ。
でもね、私貴方と付き合う価値なんてないの。


葵さんはそう言って、どうしようもないくらいに儚く微笑む。
もう、僕にはなにも言えなかった。

彼女の秘密をうっすらと気づき始めていた僕は、かけるべき言葉を見つけることができなかった。








「河野葵?知らねーなあ。龍知ってるか?」

「いんや、俺も知らねえ。そいつ本当に2年なのかよ月島」

「……あー、イエもう大丈夫です。その、名前の聞き間違いだったっぽいんで」


わかってはいたけれど、2年生の先輩は誰一人葵さんの事を知らなかった。



それから、葵さんはあの場所には来なくなった。
彼女の借りた本のカードを見てみると、そこには学年と組と名前と、それから貸し出しの年と日付と曜日まで細かく記されている。

文字にこびりついた古い埃を丁寧に取ってその年数を確認すれば、今から十数年前のこと。
もう20年近く勤めている司書の先生に河野葵の名前を出すと、先生は驚いたように教えてくれた。

些細なきっかけで始まったいじめを苦に自殺した、とても悲しい少女だったと。



『lonely person』なんて、彼女の事のようだ。

本棚に入れられたその茶色い背表紙を抜き、中をパラパラと見る。
紙の間をすり抜けて何かが落ちる。

拾い上げたそれは、青い小さな花が付いた、彼女が死んでから十数年本に挟まったままだった、栞。

花の名前は知っている。


「……ワスレナグサ、っていうんですよね」


ネットで見た画像とそっくりの花弁、その栞を裏返すと、ボールペンで何やら英語が書いてあった。


「forget-me-not」


―――――私を忘れないで。


僕は栞を本に戻して、それから少し考えて栞を自分のポケットに入れた。


「…ないものねだりは、僕もですね」


もうここにはいない貴女の事を、こんなにも想っているんですから。


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