「はふ、はほへほへほほほへはひほふへ」
「うん夕、とりあえず飲み込んで」
口いっぱいにおかずを詰め込んだまま興奮した様子で何かを言ってくる夕の前に麦茶を置く。
コップを傾け食べ物もろとも喉に流し込み、ぷはーとオヤジのような声を洩らして、夕はまた話し出した。
「それでさ、新しい1年がすげぇんだよ!すっげぇサーブ打ってさ、北川第一出身なんだけど。あ、北川第一ってのは、」
「夕達のチームが負けた所でしょ?」
「葵なんで知ってんだ?」
「あんたが中学の時私に散々愚痴ったんじゃん」
そうだったっけ、ときょとん顔をする夕に苦笑し、お茶碗によそわれたご飯を口に運ぶ。
昔から私達の会話はこんな感じで、私は彼のマシンガントークの聞き役だった。
夕が話すのはもっぱらバレーか部活の話だったけど、私も中学までは運動部所属だったから聞いてて飽きない。
ガツガツと白米をかきこむ夕を見て思わず笑みがもれて、その自然さに自分でも驚いた。
私の作り笑いがなくなるのは、きっと夕の前だけだ。
心がじんわり温かくなるような感じがして、私も夕に負けじとおかずを箸でつまむ。
いつぶりかと思えるほど楽しい食卓を囲み、西谷家のリビングからは明るい笑い声が絶えなかった。
衝撃シャングリラ
「葵ちゃん、お風呂入っていきなさいよ」
山盛りあった夕飯は主に夕の異常な食欲でなくなり、お腹も心も存分に満たされた。
おばさんが冷凍庫から出してくれたデザートのアイス食べながら、夕と二人でソファに座ってテレビを見ていた時。
洗い物をしていたおばさんに、言われた。
「え、いや晩ごはんも頂いたんで、もうそろそろ帰りますよ!」
時刻は9時前。
お母さんが約束していたのは夕飯までだった筈だから、自分の家に帰らなきゃいけない。
「遠慮しないでって、汗かいてるでしょ。流してきた方がさっぱりするわよ〜」
「じゃあ俺、部屋で待ってるわ」
私より一足早くアイスを食べ終えた夕が、残った棒を捨てるために立ち上がった。
いや、部屋で待ってるって、私がお風呂入ってから夕の部屋に行ったら、帰るのは何時になるんだ。
夕の部屋の窓と私の部屋の窓は向かい合っていて、お互いベランダに出て手を伸ばしたら触れられる距離だったりする。
小さい頃はよく行き来して、お母さんとかに危ないって怒られたな……。
なんて回想をしていると夕はすたすたと2階に上がってしまい、おばさんは「廊下出て突き当たりを右ね」なんて言うし、私は諦めて言った。
「………お風呂お借りします」
―――汗ばんだ体を熱めのお湯が清めていく。
頭からシャワーを被れば柑橘系のボディーソープの匂いが浴室を包み込んだ。
身体中がすっきりした所で蛇口を捻り、ドアを開けてバスタオルを取る。
ショートカットにしてから髪が乾くのが圧倒的に速くなったのが嬉しい。
水分をあらかた取って体に巻いてから、私はある事に気づいてしまった。
「……やべぇ、着替えがない」
そう。着替えがない。
下着はまあいい。ちょっと嫌だけど、さっきまで着てたやつを着よう。
しかしながら、私服は洗濯籠の中に入ってなかった。
きっと、おばさんが洋服だけ先に洗ってくれたんだろう。
「ありがたいけど……ありがたいけど………!!」
とりあえず微かに汗のついた下着を着て、何かしら洋服をもらうしかない。
寝る時はブラを着けない派の人間なので、パンツだけ履いてバスタオルをもう一度まく。
あれだ、温泉レポータースタイルだ。
洗面所の扉の隙間からリビングにいる筈のおばさんに声をかけるべく、息を大きく吸った。
「おばさ――――」
ガラリとドアが開いて、自分よりやや低い位置にある瞳と、目が合う。
特徴的な色をした前髪がぴこんと跳ね、私はそのまま目線を下げた。
くたびれた襟から覗く鎖骨、半袖から伸びる筋肉質だけどアザだらけ腕、Tシャツに書かれた『うどの大木』……。
「「あ」」
夕がいた。
バスタオルを一枚巻いただけの私(見えないけどパンツは履いてるよ!)の目の前には、手に何かを持った夕がいた。
お互い動けず、何とも言えない沈黙が洗面所を満たす。
頭の中が真っ白になって、口を開けたままの夕をただただ見つめる。
先に我に返ったのは夕で、傍から見ても分かるくらいに顔が真っ赤になった彼はぎこちない動きで私に持っていた何かを渡した。
「あ、う、その……わ、悪い!」
茹でタコのような顔のまま背を向け、脱兎の如く洗面所を出ると廊下をダッシュで走っていく。
その後ろ姿を呆然と見てから、今しがた手渡された物を見た。
Tシャツとジャージだ。
胸の所に『巨人』と書かれてあるデザインを見る限り、きっと夕のTシャツに違いない。
見覚えのあるジャージはやっぱり千鳥山の物で、丈の長さ的にショートパンツくらいだ。
夕の履いていたのが冬用で、これが夏用みたいなもんかな。
人間は自分より焦っている人を見れば不思議と落ち着くらしく、私はさっきの夕の顔を思い出して一人で笑ってしまった。
貸してもらったTシャツからは柔軟剤の匂いに混ざってほのかに夕の匂いもして、なんだか安心した。
(本人は不服だろうけど)少しだけ小さいその服を着て、妙な気恥ずかしさを抱えたままリビングに入る。
「お風呂ありがとうおばさん!」
「いいのよぉ。それにしても葵ちゃん、お風呂上がりは色っぽいねえ」
「いやいや、そんな事ないですって」
「あのバカ息子にはやっぱ勿体ないわ。まあ夕には狼に変身する度胸ないと思うけど」
豪快に笑うおばさんに苦笑いを返す。
「じゃあ私、夕の部屋にいますね」
「はいはい。お母さんから連絡来たら呼ぶから、それまでね」
思春期の男女二人を部屋に入れていいのか、なんて意見は、私達の間にはもうとっくにない。
別れたのは1年前だし、それ以前に夕は家族みたいなものなのだから。
久しぶりだな、なんてうきうきしながら階段を上がって、私は夕の部屋のドアを叩いた。
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