膝の上に抱えた鞄の中で、ペットボトルに入ったお茶が揺れる音がした。
窓の外は次々と景色を変えていき、しかし少しずつ視界に占める自然の割合が増えていく。
最近地下鉄ばっか乗っていたから、つい1年前までは当たり前だったことが妙に新鮮だった。
新幹線の中は思いの外暖房が効いていて暖かく、寒いかと思って持ってきた上着を脱いで膝にかける。
ポケットに入っていたスマホを取り出して時間を確認すると、液晶に浮かんだ数字は5時過ぎを示していた。
6時前には家につけると連絡したよな、と昨夜の電話の内容を思い出しながら、持っていたそれをしまう。
外はもうほとんど日が落ちていて、薄い雲からは光が申し訳程度に降り注いでいるだけだ。
今年も桜は咲いていないに違いない。
丸1年前振りに訪れる母校に想いを馳せ、私は静かに目を閉じた。
背もたれの固さは絶妙に眠気を誘っていて、ふと力を抜けば意識を持っていかれそうだ。
卒業式にいきなり行ったら、夕驚くかな。
直前まで予定が入っていた為、今回の帰省はかなり唐突に決まったものだった。ゆえに、まだ夕には報告していない。
目を見開いて唖然としている幼馴染みの顔を思い浮かべたら、自然と口許に笑みが浮かんだ。
1月の春高で会って以来だから、かれこれ2ヶ月振りだ。加えてあの日も1時間くらいしか一緒に居られなかったから、ちゃんと時間が取れるのは本当に久し振りになる。
鞄から取り出した教会での家族写真を持ったまま、心地好い微睡みの中で、私の意識はゆっくりと落ちていった。
卒業シャングリラ
「やほ、卒業おめでとさん」
一応ちゃんとした格好をしておくべきかと思って、いつもより落ち着いたデザインのワンピースを選んだ。
実家に着いてすぐに西谷家に挨拶をしに行くと夕は帰ってきておらず、おばさんと玄関前で立ち話をすること30分弱。
どうせなら急に顔見せてやったら、という茶目っ気たっぷりなお誘いに乗り、夕の家族という括りに入れてもらい今に至る。
「葵?!」
学ランのボタンを上まで閉め、きちんと詰め襟を立てた夕を見るのは久々だった。
胸には見覚えのある造花が揺れていて、自分の卒業式がつい先日の事のように思えてくる。
友達と話していた夕が、私を見つけて走り寄ってきた。
卒業証書の入った筒を持ち驚愕に目を真ん丸くした表情はまさしく想像した通りで、変わらないなあと笑ってしまう。
お母さんに貸してもらったハンドバッグを小脇に抱えて手を振ると、いまいち状況を掴めていない様子の夕は訳もなくきょろきょろと辺りを見回す。
「え、お前なんでここにいるんだよ。だって、あっちで忙しいって、」
「なに、居ちゃいけないの」
「いやいやいやいや、いやだって、東京からわざわざ来たのか?なんで?」
瞬きを繰り返す夕はひどく混乱していて、そんな彼を見るのはとても楽しかった。
だけど戸惑いっぱなしでは可哀想だと思い、苦笑混じりに経緯を説明する。
………卒業式に来てるんだから、どうして戻ってきたのかなんて気づきそうなものだけど、それもまあ夕らしくていっか。
「そりゃまあ幼馴染みの大事な日だし、」
それに、夕にも会いたかったから。
2人を隔てた時間がそうさせたのか、端から聞いていたら恥ずかしいような台詞もするりと音になった。
ぽかんとした夕に卒業おめでとうともう一度付け足すと、体が不意に強く抱き締められる。
肩口に顎を乗せると耳元で「俺も会いたかった」と囁かれてしまい、余裕のない声音が可愛らしいと思ってしまった。
クリーニングしたての制服から香る洗剤の匂いに混ざって、夕の匂いが私の鼻孔をくすぐる。
がっしりとした背中に腕を回して軽く叩くと、ようやく夕が体を離した。
ほんのり赤く染まった頬。歯を見せて笑った夕が、とびきり嬉しそうに言った。
「―――――お帰り、葵!」
「えーと、どこだったかな……」
解散の指示を受けた夕と二人で、部室棟の壁をなめるように見ていく。
おばさんとおじさんには先に帰ってもらい、今日は私の時と同じように河野家と西谷家で一緒にご飯を食べに行く予定だ。
「葵ー、どの辺か覚えてねえのかよー」
「1年前の事だからな……実際書いたのは2年前だし」
壁からつまらなそうに目を離した夕が、私の隣に並ぶ。
随分と汚れたクリーム色を指でなぞりながらあの日見た文字を探してみるも、いかんせん記憶が曖昧で、闇雲に見ていくしかなかった。
2年生の春に夕と書いた約束。
何だかんだうやむやになっていたそれを、折角だから思い出したくなったのだ。
「あ、これ」
夕の指が、私の耳朶にそっと触れる。
優しく挟まれる感覚、そこには星空の下でもらった白い花のピアスがついていた。
心なしか弾んだ声色で「まだつけてんのか」と言われて、私も笑顔で頷く。
夕と会えなかった月日の間、嫌な事があったり気合いを入れたかったりする時にはこのピアスを見て何度も自分を奮い立たせた。
大学に入って持っているアクセサリーの量も増えたけれど、一番上に飾ってあるのはいつだってこれだ。
へへ、と照れ臭そうに頬を掻いた夕に、体の向きを変えられる。
部室棟の壁を背に彼と向き合う形になって、改めて背が伸びたなと感じた。
「……私、今日ちょっとだけヒール履いてきたのになあ」
あの頃よりも広くなった肩幅。
筋肉の詰まった体。
腕は服に隠れているけど、きっと相変わらずアザだらけなんだろう。
いざ正面から見つめあうと、悔しいかな、夕の方が私よりも高い位置に目線があった。
腕の中にすっぽり包み込まれる感覚というのは新鮮だけど、大好きな人の成長をすぐ隣で見ていたかったなという淡い後悔が胸を打つ。
節々が固くなった男らしい指が、私の髪の毛をゆるりと絡めとった。
首筋に当たるくすぐったさに、くすくすと笑いながら身をよじる。
「葵は髪が伸びたな」
「ふふふ、ロングも案外似合うでしょ」
「ああ。すっげえ可愛い」
軽い気持ちで言った言葉に真正面ど真ん中に直球を投げられて、思わず顔が熱くなった。
赤面不可避の台詞をさらりと言ってしまうスキルはやっぱり健在らしい。
曰く指に巻き付けてもするんとほどける感覚が好きとのことで、昨日の夜念入りにトリートメントをした効果があったのかも知れないと一人自分を褒めた。
ふわりと重なった唇は、落ちてくるという表現がよく似合う。
うっすらと開けた目に映ったのは熱っぽく潤んだ瞳で、その奥に揺れる強い感情に丸裸にされた気分になった。
卒業した学校、夕は制服のままという妙な背徳感が、背筋をぞわりと撫でていく。
私の腰を抱き寄せる腕は記憶の中の夕よりも幾分力強く、乱れた吐息は熱く湿っていた。
この場所、村田くんと抱き合っているのを夕に見られた場所だ。
デジャヴを感じて夕を見上げると、彼も同じタイミングで思い出したらしく、苦い顔をした。
「……………あん時は、悪かったな」
その、無理矢理キスして。
ぼそぼそと歯切れ悪く言う夕は当時の記憶を辿っているのだろう、バツが悪そうに私から目を逸らす。
「大丈夫だよ、初めてな訳じゃなかったし」
私こそ唇噛んでごめん、と続けるつもりだった。
しかし「え?」と呟かれた夕の言葉にうっすらとした憤りを感じ、墓穴を掘ったと慌てて訂正する。
「あ、いやだから、その、夕が来る前に、む、村田くんと……その、」
「じゃあ、葵の最初の相手はあのバスケ部なのか?」
「ちがっ、違うっ……て……」
言葉尻がどんどん萎み、もう誤魔化せないと腹をくくった。
「…………初めてキスしたのは、ゆ、夕だって」
数秒の間をおいて、間抜けな声が聞こえた。
「え、それいつの話だよ」
「私が熱出た日、夕朝まで一緒に居てくれたでしょ。それでその日、夕より早く目が覚めて、それで……」
まさか、付き合ってもいない幼馴染みの寝込みを襲った話を本人にする日が来るとは思わなかった。
顔中に血液が集まるのが手に取るようにわかる。心臓はバクンバクンと謎の動悸を起こし、夕を直視できずにうつむいた。
「……………なあ」
呼ばれた声に恐る恐る顔を上げると、間髪入れずにまた唇を塞がれた。
えらく満足そうな夕はもう一度私を抱き締め、腕に力を込める。
「なんだよそれ、嬉しすぎんだろ!」
「わっ」
ぐいっと抱えられて、足が地面から浮いた。今度は私が見下ろす側になって、心底幸せそうな夕の笑顔につられる。
そのとき、ふとどこに夕と宣言を書いたのかを思い出した。
急いで下ろしてもらい壁に駆け寄り目で追えば、あの時と同じ、ボールペンで書かれた『でかい男になってやる!!』にくすりと笑い、すぐ隣の私の文字を読む。
表面についた土を払い私の書いた文を読んで、思わず笑ってしまった。
「…………私も私で、変わんないなあ」
「なんて書いてあんだ?」
「んー、教えない」
なんでだよ!と抗議をしてきた夕にしょうがないなと肩をすくめて、ちょいちょいと手招きする。
耳を寄せてきた無防備な夕の頬にそっと口付けて、またくすくすと笑う。
18年隣にいた幼馴染みに、まだまだこれからも隣で歩かせてくれますかと尋ねてみた。
速攻で返ってきた返事に私もとびきりの笑顔を見せて、夕の腕に自分の腕を絡める。
私の願いはずっと前から、夕と一緒に居ることだよ。
いつになく上機嫌なトーンで種明かしをするまで、あと数秒。
顔の笑みを濃くして、絡めた腕を引き寄せた。
貴方にとって私が最初の相手で最後の相手であれば、それ以上の幸せなんてあるわけがない。
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