純情シャングリラ | ナノ




現文は完全に暗記系のみに絞って、無理矢理詰め込ませたまま迎えたテスト。
夕に教える一方で私も自分の勉強を進めなければならなかったので、今回はかなり密度の濃いテスト勉強だったように思う。

最終日、最後の1教科の終わりを告げるチャイムが鳴った瞬間、教室が歓喜に揺れた。
解放感にハイタッチをしあい、早くも今日の帰りにどこに寄るか話している子達もいる。


化学の大問2さ、答え何番にした?

英語の長文今回難しすぎたよね!

やばい、漢字ミスった気しかしない。


答案を前に回し挨拶が済んだ瞬間に答え合わせが繰り広げられるのは、いつもの光景だ。
机の上に出していた筆記用具を鞄から出した筆箱にしまい、ふう、と一息つく。
一応見直しはくまなくしたけど、まあどう頑張ったって1、2個はミスしてしまっただろう。
それよりも、私は正直夕の方が心配だった。
直前にやったプリントの結果ははじめの頃に比べたらかなりよくなってはいるものの、自信を持って赤点回避していると言える程ではない。
あとはもう夕の本番の勝負強さに賭けるしかなかった。


「葵ー、今日マック行って帰らない?」


数人の女子と話していた宮ちゃんが、顔だけ私に向ける。
どうやらそっちはそっちで盛り上がっているようで、新発売の何々がどうこうという会話がちらりと聞こえた。
問題用紙を重ねて束にし鞄に入れながら、私は少し考える。
それから申し訳なさそうな顔を作って、顔の前で手を合わせた。


「ごめん、部活行かないと」


そう言えば、そろそろ公式戦のトーナメント表が発表されてもおかしくない頃だ。
「そっか、じゃあまた今度ね」軽い調子で返事が返ってきて、私はもう一度「ごめん」と謝る。
宮ちゃんは既に私に背を向け、そのグループとの雑談に興じていた。

ふと話す人がいなくなり、私だけの妙な沈黙に包まれる。
教室を見渡すと各人はそれぞれ固まってテストの話だとかをしていて、私一人ゼリー状の膜に囲まれ隔離されているような気がした。
実際、私とクラスメイトの間にはゆるやかな隔たりがある。
それは私が作り上げた防御壁であるし、自分自身で引いた境界線でもあった。


「……………ごめん、夕」


大切なものが出来てしまうと、代わりに何かを捨てなければならなくなる時がくる。
それはひとつ目の大切なものの時かも知れないし、もしかしたら全部を両立することだって可能かも知れない。
結果は誰にもわからなくて、つまるところ悩んだってしょうがないのだ。
足を止めていたって時間は進む。遅れた分を巻き返す為には途方もない努力がいる。

私の目の前に現れた選択肢、どちらを選べば私は幸せになれるんだろうか。
どちらを選んでも変わらず幸せかも知れない。どちらを選んでも幸せにはなれないかも知れない。
そもそも、幸せになろうという考え方が間違っているのかも知れない。


私が下した決断は、やっぱり彼を傷付けるんだろう。
2人で幸せを掴もうとはせず、私は今夕を置いて自分の幸せを追おうとしているんだから。




―――ごめんなさい、最低なのは私の方だ。














約束シャングリラ














テスト明け最初の部活が終わって体育館から出ると、ひんやりとした空気に包まれた。
ここ最近暖かい日が続いていたから、隙をつかれた気分だ。ジャージのチャックを一番上まで上げて、それとなく暖を取る。

私今日歩きじゃん、と気付いたのは駐輪場に向かう途中だった。
空気入れるのを長いことサボっていたら、今朝ついに自転車が前進を拒んだのだ。
時間もなかったのでチャリ通を諦め、全力ダッシュした記憶は一生忘れない。
しょうがない、帰りも歩くか。
朝経験した意外に長い道のりを思い出してげんなりしてしまったが、悲しいまでに自業自得なので、しぶしぶ踵を返し行き先を校門へ変えた。


「…………あ」


門前にいた人影に、足を止める。
真っ黒いジャージを腰に巻いてスタンドを立てた自転車に跨がった、夕がいた。
バンドルを握って時折思い付いたようにベルのレバーを弾き、甲高い音が不規則に夜の闇へ溶けていく。
目が合い数秒の沈黙があってから、夕が口を開いた。


「今日、自転車じゃないんだろ」


何で知ってるんだろう、と思って、駐輪場になかったからかな、とゆるい予想を立てる。
その通りなので素直に頷けば、夕は歯を見せて笑い、オレンジ色の自転車の後ろを指差した。


「ちょっと、付き合ってくれよ」


その『付き合って』の意味が『行きたいところに』という意味だと気付くまでに何秒かかかった。
ようやく理解した私が首を傾げながらも頷くと、夕は嬉しそうにもう一度ベルを鳴らした。







「ねえ夕、どこに向かってんの?」

「着いてからのお楽しみだなー」


私達の家がある道の1本手前で曲がった夕の自転車は、同じペースを保ったまま平坦な道路を進む。
前カゴには私と夕二人分の鞄が入っていて、大きくバランスを崩したらぽーんと投げ出されそうな程不安定だ。
荷台に座った私は夕の腰に手を回して、何回目かわからない質問を彼に投げ掛ける。
返事も変わらず、夕は「着いてから」の一点張りだった。


「夕さーん、こっち行っても川しかないよー」


迷うことなくペダルを漕ぐ夕の背中に頬を押しあて、流れていく景色を見る。
…景色っていったって家ばかりだから何も楽しくないけど。

ほの暗い街灯に照らされる住宅街は、静かすぎて不気味だ。自転車がコンクリートの上を勢いよく滑る音だけが、反響するように鳴っている。
すぐ近くに感じる夕の体温が心地よくて、私は回した腕にほんの少し力を込めた。
腹筋というか背筋というか、触れる体は存外がっしりとしている。
いつかは私も夕に身長抜かされちゃうのかなあ、それはそれで悲しいなあ、と恐らく成長期である幼馴染みの背を見つめ、わざとらしくため息をついた。


「どうしたんだよ」

「いや、夕に背抜かれたら寂しいなって」


俺は伸びるぞ、牛乳も毎日飲んでるしな!
返ってきたのは自信に満ち溢れた声で、私は口元の笑みを隠しながら「そうだね、伸びるね」と返事をする。
夕と出掛ける時は絶対ヒール履いてってやろう、と思った私は、自分で思ってる以上に意地が悪い。


「テキトーな返事だな……お、ついた」


夕がブレーキをかけたのは、近所の人達のランニングコースにもなっている河川敷だった。
夜なので人影は全くなく、今まで通ってきた道の街灯よりも遥かに光度の低い蛍光灯が、申し訳程度に光っているだけだ。
夕が降りるのに合わせ私も自転車から降りる。
鍵をかけた夕は秘密基地を見せびらかしたい子供みたいな、好奇心に満ち溢れた顔を私に向けて、「葵、目ぇ瞑れ!」と言った。


「目?」

「いいから!」


後ろから視界をふさがれ、しぶしぶ自分の手を目元にあてがう。
夕が私の背中を押して誘導しながら「絶対絶対絶対絶対目開けんなよ」と念を押すものだから、私は素直に目を瞑っていた。

靴越しに伝わる感覚がコンクリートから草っぽいものになり、急に足元に現れた傾斜に転びそうになる。

夕が咄嗟に支えてくれたお陰でどうにか体勢を持ち直し、促されるまま恐る恐る腰をおろした。


「すっげえからな、ほんとに!」


嬉々とした声が上から降ってくる。
言われた通り斜面に寝転がると少しチクチクしたから、芝生の上にいるんだろう。


「321で開けろよ!」


はいはい、とテンションを上げた夕に苦笑混じりの返事をして、私はカウントダウンを待った。


さん、に、いち、オープン!!


ぱっと手を離し目を開いた私の目の前には、

無数の星が散らばっていた。


黒い絵の具の上にラメか何かをぶちまけたような、空一面の星。
周りに余計な明かりがないからこそ際立つ輝きは絶景と呼ぶのに相応しく、言葉を失う。


「ものっすんごい綺麗だろ?俺も最近たまたま見つけたんだよ」


私の隣に座った夕はその大きな瞳いっぱいに星の光を浮かべて、満足気に微笑んだ。
ふわりと吹いた風が優しく頬を撫で、微かな囁きを残して去っていく。


「……………綺麗」


人間本当に美しいものに出会うと、ありふれた言葉しか出てこないらしい。
貧相な語彙力が恨めしくもあったけど、それ以上に胸を震わす感動を噛み締めていた。
だろ、と振り返った夕の笑顔はどこまでも晴れやかで、私も笑って頷く。


それからお互い口を開かず、ただじっと、満天の星を眺めていた。
夕が私をここに連れてきた理由も、何を話そうとしているかも、正直予想がついていた。
だからこそ唇を閉じて、目の前の美しさに身を委ねる。

隣で息を吸い込んだのがわかって、静かな世界に夕の声が響いた。


「………こっち出てくん、だよな」


『夕、私高校卒業したら、多分東京に行くよ』


あの日、階段で私の話した言葉が、夕に重なる。


「……半年以上先のことだよ」


――――河野、お前T大受けてみないか?
まだ夏休みにも入ってない、3年一発目の進路相談で、担任は唐突に切り出した。

今のままの成績を維持し続ければ、絶対とは言わなくても充分狙える。それを確実にするためには、夏休みの内から考えておいた方がいい。

頭によぎったのは夕の事で、私が先に卒業するという事実に抗う術はない。
加えて大学を東京で通おうと思えば少なくとも夕が卒業するまでの1年間は会えないだろう。


「葵は、行きたいんだろ?」


空を見上げたままの夕は、後ろ手をついた姿勢で私に尋ねた。
倒した上半身を起こしてその横顔を見つめ、小さく頷く。


「やりたいことが、できたの」


夕にバレーがあるように、私にも夢中になれるものが欲しいの。
前だけを向いている夕の隣に、胸を張って立ちたい。



「じゃあ、しょうがないな!」



明るく跳んだ夕の声に、顔を上げた。
ニカッと眩しい笑顔を浮かべた、大好きな、大好きな人。


「夢があって、その為にしなきゃいけない事がわかってて、頭もあるんだ。じゃあ行くしかないだろ!」

「……いいの?」

「俺が止めたって、行くときゃ行くしな、葵は」


悪戯っぽく笑った夕は、体を寝かせて目を瞑る。
「あ、でも浮気はなしな」と付け足した彼に「ばか」と返して、私もそっと瞳を閉じた。


「……………そうだ、葵」

「なに?」

「渡すもんあったんだった」


ごそごそと鞄の中を漁った夕が、何やら四角い箱を取り出す。
白とパステルを基調としたお洒落な箱。見覚えのあるようなないような色使いのパッケージだ。


「買ったまんま渡すの忘れてたからさ」


ほい、と手の上に載せられ夕の顔を見返すと、「開けてみ」と促される。
中身の想像が全くつかないままに箱の蓋を取れば、そこには可愛らしいピアスが入っていた。

小さな白い花がモチーフの、可愛いピアス。
最近流行りの海外ブランドで見た、あの、ピアス。


「……実は潔子さんにお願いして、お前の誕生日プレゼント買いに行ったんだよ。色々あって、渡せてなくて」

「………これ………夕が、選んだの?」


震える手で掴んだそれは、紛れもなくあの時私があきらめたものだ。


「おう!見た瞬間に葵が好きそうだなって、こう、ビビッと来てさ」


ぽろ、と意味のわからない涙が零れる。
「どうした?!」と慌てた様子で夕に覗き込まれても、頬を伝っては落ちていく雫は止まらない。


「そんなに気に入らないのか?!」


首を振るのがやっとで、握りしめたピアスを胸に押し当てた。


「……ピアス、つけらんないよ」

「あっ、そっか」


しまった!と頭を抱えた夕に思わず笑みが漏れて、泣きながら笑うという不思議な状態になってしまう。

不意に視線が絡んで、静謐に宵闇が浸されて、私達はどちらからともなく唇を重ねた。
触れるだけの子供じみたキスを、何度も何度も繰り返す。


「……絶対、行くからな」


湿っぽい吐息を空気に混ぜながら、夕が真っ直ぐに私を見つめて言った。



「絶対、迎えに行く」



半年後と、遠いようで近い未来。


どうか、どうか、眩しいほどに輝いていますように。



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