「葵、なんでそんなに怒ってんだよ」
「問2、ア」
「なんだよ、昨日の夜からずーっとむっつりしてさあ」
「問3、幸男は喜んだ」
「……やっぱり、エロ本持ってたのが駄目だったのか?あれは、本当に龍の奴が…」
「問4、8段落5行目『幸男の財布にはジンバブエ・ドルしかなかった』から『幸男はミヤコへのプレゼントを諦めた』まで」
「なあおい、葵!」
夕の顔を見ずに淡々と答えを読み上げていると、眉間に皺を寄せた夕に解答冊子を取られた。
ノートに書いた回答にはきちんと丸付けをしてあるのが夕らしい。
私が怒っている理由を本気でわかっていない夕に溜め息をひとつついて、私は彼の顔をびしっと指差した。
「………あんたが私のお父さんに変なこと吹き込んだからでしょうが!!」
テスト前でお互いの部活がない、土曜日の昼下がり。
幾度となくお邪魔している夕の部屋に、私の声が響く。
理由を言ったにも関わらず、夕は未だに『それの何が駄目なんだ』とでも言いたげな表情で「それの何が駄目なんだ?」……ほら。
とぼけているとかじゃなくて、素なのだからこの男はたちが悪い。
「…あのねえ、昨日家帰ってから大変だったの!お父さんに質問攻めにされるわ、お母さんが式場のパンフレット見てるわで…」
夕の衝撃発言のあと、恐る恐る帰宅した私を待っていたのは、珍しいくらいに狼狽えた父と満面の笑みを浮かべた母だった。
『葵っ!に、西谷くんとけけけ結婚なんて、まだは、早いぞ!』
『もー、葵ったら隅に置けないんだから!夕くんなら安心だし、さっさと結婚して孫の顔見せてよ?』
興奮した2人を宥めて、夕に文句を言ってやろうと電話をするも出ず。ベランダに消しゴムをぶつけても応答無し。
そして、今日の朝約束していた通り、勉強会をするために西谷家のチャイムを鳴らしたというわけだ。
「葵は、嫌なのかよ」
「何が」
「俺と結婚すんの」
机の上で腕を組み、そこに顎を載せた夕が上目遣いで私を見つめる。
ああ、駄目。
そんなつぶらな瞳で見られてしまうと、どんな横暴な要求だろうと二つ返事で頷いてしまいそうだ。なんて罪作りな奴なんだろうか。
ド直球な言葉に何も言えなくなり、私の視線はふらふらと宙を舞う。
「嫌、とかじゃないけど…、ほらまだ早いって言うか、さ」
「ふーん。俺は1日でも早く葵と暮らしたいんだけど、お前は違うんだな」
わかりやすく唇を尖らせた夕は、頬を膨らませて呟いた。
「っそ、そんなことない!わ、私だって、出来るなら今すぐにでも夕のお嫁さんになりたいけど、学生結婚ってまだ風当たりつよ……い、し…」
バンッと机を叩いて、気が付くと私は大声で力説していた。
途中でふと我に返り、言葉尻がどんどんと小さくなる。自分が何を言ったかが頭の中で反芻されて、顔に血液が集まる。
熱くなった頬を隠すように俯いて、もにょもにょと口を動かした。今の私、めっちゃ恥ずかしい子ですやん。
夕をこっそり盗み見ると、彼はにやにやとした悪戯っぽい笑顔で私を見ていて、それが余計に腹立たしい。
「………な、なによ」
「いや、俺愛されてんなって」
「うっ、うるさい夕!」
ほら、早く次の問題!
解答を取り返して慌ててページを捲ると、夕の顔の皺は益々深くなる。
今の私はきっと真っ赤に違いない。問5の答えを読み上げようと大きく息を吸い込んだ時、先程までとは打って変わって真面目なトーンの声が、私の耳に入った。
「今はまだ、無理だけどさ」
私の胸の奥に、ちりっとした電流のような痛みが走る。
私を真っ直ぐに見つめる夕は強い意志を宿した目をしていて、私は思わず息を止めた。
「いつか、俺と葵と、それから俺達の子供と3人で暮らせたらいいな」
にしし、と照れることもなく言った夕に向かって苦笑を洩らしてから、私は手元の解答冊子に目を戻す。
この人は、私の決断に反対はしないだろう。
きっと全力で応援してくれるだろう。
だからこそ、怖い。
この先にある未来がまだ上手く想像出来ないから、一歩先に踏み出すのが怖い。
「……その為には、ちゃんと勉強しないとね」
おう!と元気よく返事をした夕に、私は助けてもらってばかりだ。
私が迷って迷って進めなくなった時でも、夕はその先をお日様みたいな笑顔で照らして、力強く私の手を引いてくれる。
ひとつ年下の格好いい幼馴染みに、まだしっかりとした答えを出すことが出来ない自分が嫌だ。
だけどそんな私を好きだと言ってくれる夕の事を、私は誰よりも愛してる。
だから、今は曖昧な答えで許してください。
「それから、」
赤ペンを握った夕が、顔を上げた。
「……子供は、2人がいいかな」
一瞬目を見開いて、すぐに夕の口元に笑みが広がる。
さっきよりもっと元気よく返事をした目の前の愛しい人は、心底嬉しそうな様子でペンを握りなおした。
いつか、そう遠くない未来。
私の下した決断が、どうか彼を悲しませんように。
勉強シャングリラ
「あーーーー、疲れたー」
ちょっと休憩、と伸びをする夕に倣って、私も体を伸ばした。
背後のベッドにもたれかかると背中の関節がバキバキと音を立てて、それがなんだか気持ちいい。
おばさんとおじさんは出かけていたので私が軽くご飯を作り、少し遅めの昼食を摂ってから早1時間半。テスト範囲の基本問題はわりかし解けるようになってきたものの、相変わらず現文の出来だけは絶望的だった。
「なんだろうなー…数学とかは結構できてるから、純粋に日本語通じないのかな」
「俺今すっげえけなされたよな」
とりあえずひたすら解いて、と渡しておいた問題集を採点しながら、私は頭を抱える。
最後の方になればなるほど正答率が低いのは、単純に集中力が落ちているからだろう。
夕が問題を解く間にやっていた自分の教材を閉じて、知恵熱でも出しそうな勢いでぐったりとする夕にある提案をしてみることにした。
「…………学校、行ってみる?」
宿直の先生がいるはずだから、もしかすると図書室とかを開けてくれるかも知れない。
このままここで勉強を続けても、夕の集中力は切れたままだろう。
気分転換も兼ねて、と理由を付け足した時には、夕はもう既に勉強道具をまとめて鞄に突っ込んでいた。
………そんなにここから出たかったんですね、夕さん。
「図書室ゥ?担当の先生がいないから開けられないよォ」
「「……デスヨネー」」
職員室で仕事をしていた教師に聞いてみても、返ってきたのは期待から大きく外れた返事だった。
2人で顔を見合わせ溜め息をつき、沈んだ声音を隠そうともせず「…ありがとうございました」とお礼を言って職員室を出る。
後ろから「さっさと帰って勉強しなよォ」という声が聞こえてきて「その勉強をするためにここに来たんだよ学ぶ校舎が学校だろうが学ばせろゴルァ(巻き舌)」と言い返してやりたくもなったが、そこはぐっとこらえた。
職員玄関で脱いだローファーを履きながら夕に声をかける。
「どうする?こうなったらスタバでも行っちゃう?」
それとも私の部屋で勉強する?と振り返ると、新しい悪戯を思い出した小学生のような顔をした夕が、職員室の前に続く廊下を指差して楽しそうに言い放った。
「学校探検しようぜ!」
1年以上通った高校内を探索して、いまさら何が楽しいのだろうか。
高校生らしからぬ(いやこのバカさ加減はある意味高校生らしいと言えるのか)提案をした夕も夕だけど、結局は乗った私も私で相当重症だな、と思った。
「うわ、2年の教室懐かしいなー」
テスト前でどの部活も活動を行っていないので、学校は珍しく静まり返っている。
他学年にお邪魔することなんて滅多にないから、こうやって去年まで普通に授業を受けていたクラスに居るのは何だか不思議な気分だ。
「夕の今の席どこ?」
「ここだ!窓際後ろから3番目!」
ここ、と座った夕の隣の席をお借りして、私は椅子を引く。
横を見れば夕が居るというのは、とても変な感じがした。
普段この席に座ってる子は、授業中に夕の横顔が見れるんだ。
きっと大口開けて寝ているんだろうなあ、と涎を垂らした顔を想像したら笑いが込み上げてきたけれど、私が決して見ることのできないその光景を見れるというのは、羨ましい。
1才違うというだけで、同じクラスや近い席になれるかどうかでドキドキしたり、教科書の貸し借りなんかが出来ないのだ。
そういう意味で言うと、学校内においての私達の距離というのは遠い。少女マンガ的展開をことごとくスルーしてしまうのだから。
「2年の時1回だけ潔ちゃんと前後になったんだよね」
一瞬芽生えた暗い感情を隠すように、私は明るく言ってから当時の席に移動した。
その時は確か村田くんが隣だった、と名前を出してからふと気づく。
嫌な予感がして夕の方を向くと、案の定釈然としない表情を浮かべていた。
「……何もないってわかってても、なんかむかつく」
「ちゃんと話し合ったんだから、きっと大丈夫」
―――ごめんなさいと、たくさんのありがとうを。
あの日レストランを出た時点で覚悟を決めていた、と笑ってくれる村田くんの優しさは目に染みた。
だって河野、あの幼馴染と話してる時だけ『素』って感じするんだよなあ。
頭を掻きながらいつもの調子で言った村田くんは、「まあこれからもよろしく、河野マネージャー」と手を振って、そうして私と彼の短いお付き合いが終わった。
「だってそのバスケ野郎は、授業中に葵の事見れたんだろ?それだけでうらやましいっつーの」
「……それ、今私も思ってた」
「え?」
「夕の隣の席の子いいなあって、ちょっと嫉妬しちゃった」
なんだ、私たち似た者同士じゃん。
必要なかったね、嫉妬とか。くすくすと2人で笑って、それから今度は私の教室に行くことになった。
2年の教室とそんなに変わらないけど、と前置きしてから階段を昇る。
見慣れたポスターの貼られた踊り場にさしかかったとき、1段上を進んでいた夕が急に足を止めた。
私もつられて止まり、何を考えているのかわからない幼馴染を見る。
夕はくるりと振り返ったかと思うと非常に満足そうに笑い私を見下ろした。
「いつも俺の方が低いからなー。新鮮」
「うわー、夕に見下ろされるとか衝撃的な展開だよ」
冗談めかして肩をすくめると、不意に唇がしっとりとしたもので塞がれる。
柔らかくて、熱い。普段と違う角度のキスは妙な興奮をもたらして、私はされるがままに唇を預けた。
「………葵、好きだ」
「……知ってる」
筋肉のついたしっかりとした腕で抱きしめられ、私もその背中に手を回す。
言いたいことと言わなくちゃいけないこととがごちゃごちゃになって、頭の整理がつかない。
だけど、今言わなかったら私はタイミングをずるずると引き延ばしたまま、言えずじまいになるだろう。
飲み込んでしまった言葉を発しようと、私は短く息を吸ってから口を開いた。
「―――夕聞いて。あのね、」
大切な話があるの。
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