純情シャングリラ | ナノ




「由梨、次由梨の番ー」


進路相談を終えて教室に戻ると、皆適当に席を立って雑談に興じていた。
出席番号が私の一つ後の由梨を呼んで、宮ちゃんの前の席に座る。
最高学年に上がって最初の進路相談が実施されたその日は、カッターシャツを半袖に切り替えた人も多かった。


「葵、随分長く話し込んでたじゃーん」

「あー…なんか、思ったより長引いちゃった」


ふうん、やっぱずば抜けて頭いい生徒がいると、先生達も必死だねえ。

にやにやと笑いながら言う宮ちゃんに肩をすくめて見せて、私は緑の繁ってきた校門前の樹を見た。
今日は風が強いのか、ザワザワと忙しなく音を立てて揺れている。


「葵は進学希望でしょ?」

「そりゃまあね。一応進学クラスですし」

「だよねー。私まだ大学決まってないわ」


ぐでーっと両腕を伸ばして机に倒れ込むと、宮ちゃんは長い息を吐いた。

進路。

進学にしろ就職にしろ、皆が一度は悩む人生の分岐点だ。
自分の5年後あるいは10年後というのは、一体どんな風なんだろうか。
結婚してるかな、それとも案外OLだったりして。
想像もつかない未来を考えるのは楽しいし、将来の私には勿論幸せであってほしい。
だけど、そのいつかの私の隣に、夕はいるのだろうか。


「……昨日ね、彼氏とケンカしたんだー」


宮ちゃんは顔を伏せたまま、嘆くように呟いた。
朝から微妙に元気が無かったからどうしたのかと思っていたけど、そういうことか。
私は身を若干乗り出して、話を聞く体勢に入る。


「大学どうする、みたいになってさ。私はまだあと半年あるから焦んなくてもいいって言ったら、お前はいいかも知れないけど俺は、って言われて……。彼普通クラスだからって、なんか私の事遠くに見てるんだよね」


はあ、とまた溜め息をついて、宮ちゃんは窓を見上げた。
依然として、葉の揺れ方は落ち着かない。ザワザワ、ザワザワ、数年後について迷っている私達の心をかき乱すかのように、ザワザワ、ザワザワ、と。


あれから、私と夕は付き合う事になった。
事情をお互いに話し合った結果、思ったよりも誤解が多く、とんでもないすれ違いが重なっていた事もわかった。
でもそれ以上に幸せで、その日の夜はベッドの中でずっと電話をした。


「……私も、どうなるのかなあ」


あと、半年と少し。
当たり前だけど、私は1年早く夕より烏野を卒業して、そこにはどうしたって溝が生まれるだろう。
中学から高校に上がるのとは訳が違う、もっと大きな溝が。


「憂鬱だよねえ、受験生って」


諦め混じりのトーンで放たれた宮ちゃんの言葉に頷いて、私も彼女に覆い被さるように上半身を倒した。

色んなものを抱え込む夏は、私の待ったを聞いてくれる筈もなく、すぐそこにまで近付いてきている。

夕、今君は、何を考えているんだろう。














宣言シャングリラ














「……………夕、ちょっとそこに正座しなさい」


おばさん上げてもらった夕の部屋で、彼を待つこと十数分。
バスケ部よりいくらか終わるのが遅かったバレー部の練習を終えて、夕が帰ってきた。
ベッドの上にかしこまった私は、入り口で呆然とする夕に床を指す。さっさと座れ、私は目力をフル動員してそう伝えた。


「お、おう。……葵、なんで俺の部屋にいるんだ?」


夕が密かに目線を室内に配らせたのは、きっと前科があるからだろう。
物色した部屋の中から田中君のエロ本が見つかったのも、今となってはそこそこいい思い出だ。少なくとも、私にとってはだけど。


「あ、夕が引き出しに隠してた『変態24時!〜美人教師とイケナイ放課後〜』ならもう見つけたから気にしなくて大丈夫だよ」

「ノオォォォォォォ!」


絶叫しながら頭を抱えて膝から崩れ落ちたタイミングで、私は話を続けた。
ちょうど正座っぽいポーズだし、まあ良しとしよう。


「あれも、あれも龍に押し付けられたんだよ!信じてくれって!」

「はいはい。で、夕の大人の参考書はどうだっていいの今は。私が言ってるのはこっち」


どうだってよくないだろ、いや、いいのか?と戸惑ったように首を傾げる夕に向かって、私は勢いよく紙の束を突き出した。
それを見た夕が、ぴしりと表情を固める。そして自主的に正座のポーズを取り、菩薩のような神々しさを放ち始めた。

雑に書きなぐられた文字と、合ってる問題を数えた方が明らかに採点が楽な程に多い×、赤いマジックで太々と書かれた数字。
エロ本はあくまでたまたま見つかった物であり、真の目的はこれだ。
ご丁寧に折り畳まれて隠されていたその答案用紙は、口に出すのも憚られるような酷い点数を叩き出していた。


「…夕、あんた次のテストで赤点パスしないと、部活の合宿参加出来ないんだってね」


夕の菩薩顔が石化する。


「澤村くんに今日廊下で呼び止められたんだ。『西谷の勉強見てやってくれないか』って」


仏像となった夕にヒビが入った。


「…………今すぐ筆箱を出して座りなさい、夕」


夕は無表情を崩さずこくりと頷いて、傍らの鞄のチャックを開けた。











「……じゃあ、その合宿にはあんたのライバルも来るって訳か。あ、そこ間違ってる」


私が2年の頃使っていた問題集を持ち込んで、夕と2人の勉強会が始まった。
夕飯とお風呂を済ませた午後10時半。夕が問題をひたすら解いて、わからない所にぶつかる度私が解説をするスタイルだ。

幸い、人並み以上に勉強は出来る。
というか、私の幼馴染みが赤点で合宿に参加出来ないというのは、なんとなく癪に障ったのだ。

そういや夕が烏野受けるときも、こうやって受験勉強に付き合ったっけ。


「おう!音駒のリベロすんげーレベル高くてさ、旭さんのスパイクも、こう、バッととるんだよ!バッと!」

「実演しなくていいから。烏養コーチって私も噂だけは聞いたことあったけど、東京にも繋がりがあったんだね」

「何てったって、メイショウだからな」

「夕、今発音怪しかったから名将って漢字で書いてみて」


問題集の答えを開いたまま指摘すると、夕はぐ、と言葉を詰まらせる。
そんなに超がつくほどバカだったかな、と昔の記憶を手繰り寄せてみて、バカだったわと納得した。
私の記憶が間違いじゃなければ、中学の頃のテストで下から数えて十何番目だった気がする。こりゃ駄目だ。

でも、いっそ出来ない訳ではない。
教えた問題は何とか解けるし、気合いと根性が取り柄だから、暗記系もいけるだろう。
完全な応用さえ捨ててしまえば、あとはひたすら基礎を固めればいい。補習を回避するというのが、今回の第一目標なんだから。


「……だーっ、わっかんねえ!」


頭をぐしゃぐしゃとかきむしる夕の正面のベッドに座ったまま、私は丸めた答案集を急かすように叩く。
シャーペンを机の上に転がし、後ろに倒れ仰向けになった夕を真上から覗き込んで、その額をぺしぺしと軽くはたいた。


「ほれほれ、頑張りなさい。とりあえずこの問題ちゃんと出来たら、今度夕飯に何か好きな物作ってあげるから」


ちょっと甘すぎるかなと思ったけど、そこはまあ良いとしよう。
葵さんお手製ハンバーグなんかはおばさんからお墨付きをもらったし、料理にはそれなりの自信があるのだ。

しかし喜ぶかと思った夕はどこか不満気な表情で上半身を起こし、私はその反応に首を傾げる。
すると夕は唇を尖らせたまま、ぼそりと呟いた。


「……葵がキスしてくれたら、やる」


――――ああもう、と。
両手を上げて降参したい気分になった。

ああもう、どうしてこの幼馴染みは、格好よくて可愛くて、こんなにも愛しいんだろうか。

これは夕のやる気を出させるため、これは夕のため、と心の中で呟いてから、私は短く息を吸った。
それで、覚悟を決める。


「………目、瞑って」


赤い頬を隠すように俯いてそう言うと、目の前の夕がパッと顔を上げたのがわかった。
夕を確認するとその瞼は降りていて、突然鼓動のスピードが跳ね上がる。

私は折り畳み式の机に手をついて、体重をそこに乗せた。ぎし、と板の軋む音が鳴って、それがさして広くない部屋に響く。

閉じられた唇。頭の中が心臓になったみたいにドクドクと血が流れていき、そのあまりの血圧に目眩がした。
ゆっくり、ゆっくり。
夕の唇が近付いてくる。夕の唇に近付いていく。

額にそっと口付けると、夕はむ、と眉間に皺を寄せた。


「……えー、でこかよ」

「も、文句言わないの!」


想いが通じた時には唇が腫れそうになるくらいキスをしたけれど、いざ改まってとなると、どうにも気恥ずかしい。


「ほら!私は約束守ったんだから、夕は続きをやりなさい!」


一旦置いた解答の冊子を手に取り、問題を解くよう夕を促す。
気が付くと勉強を始めてから結構な時間が経っていて、にも関わらずノルマの半分近くしか終わっていなかった。


「葵、目んとこまつ毛付いてるぞ」

「え、ほんと?」


目元に指をやって当てずっぽうにまつ毛を探すと、違うと夕に言われてしまい、彼に任せる。
目を閉じた時にぐんと夕の体温が近くなり、それから唇に柔らかいものが当たった。


「っしゃー、これで頑張れるぜ!」


非常に満足気に笑った夕は言葉通りバリバリと問題を解き始めたので、責めるに責められず、私は唇を押さえたまま何とも言えずに固まる。
恨みがましく夕を見ると、悪戯っぽく笑った瞳と目が合って、なんだか私の方が恥ずかしくなってきた。

その清々しいまでの笑顔に「ばか」と言葉をぶつけて、でも思わずにやけてしまうようなくすぐったさが込み上げてくる。



5年後あるいは10年後の未来に、私は何をしているんだろう。どこにいるんだろう。
どんな場所でどんな事をしているかは想像も出来ない。
それが例えどれだけ過酷であったって、この目の前の愛しい人が隣に居ればどれだけ幸せだろうかと、包み込まれるような幸福感に酔いながら、私は笑みを洩らした。





「あ、そういやこの間、葵のとこのおじさんに家の前でたまたま会ってさ」

「ああ、うん。最近帰ってきたからね」

「数年のうちに葵を嫁にもらいに行くって言ってきたぞ」



「…………………え?」





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