純情シャングリラ | ナノ




夕と潔ちゃんは私達とすれ違った後、すぐに帰ったんだろう。
携帯で時間を確認し窓の外の景色を眺める。
駅前のショッピングモールはすぐ近くからバスが出ていて、逃げるように店を出た私はちょうど来た便に慌てて飛び乗ったのだ。

一番後ろの窓際、心臓を素手で掴まれて絶えず鼓動を打たされているような感覚に襲われながら、次々と変わっていく町並みを見つめる。
夕焼けの綺麗な空とだだっ広い道が見えてくると、ようやく近くに帰ってきたなと思った。
駅の近くの大型ショッピングモールも楽しいけれど、私にはやっぱりこっちの空気が合っている。
運転手さんが最寄りのバス停の名前を読み上げて、私が指を伸ばす前にピンポーン、という電子音が鳴り響いた。
次、止まります。
家が、近付いてくる。私と夕の家が、すぐそこにある。

ガスを吹き出す音と共に、バスの扉がゆっくりと開いた。
ベビーカーを押すお母さんが降りるのを待ってから、黄色い線の引かれたステップを降りる。

夕方とは言えまだ暑さが残っていた。頬を優しく撫でる風はぬるく、家を出る前にセットした髪型はとっくに崩れかかっている。

心臓は鳴り止まないのに、私はこの高鳴りの正体がわからなかった。
どんな顔をして会ったらいいのかわからないという、漠然とした恐怖によるものか。

足の甲は未だに赤く腫れていて、踵は薄く皮が向けていた。
靴を今すぐ脱ぎ捨てて裸足で歩きたいのを我慢しつつ、私はいつもより気持ち早足で帰路につく。
夕に会いたいと思った。
夕に会わなくちゃいけないと思った。
人通りの少ない住宅地を縫うように進み、坂を越え、空のグラデーションが青からオレンジに変わり始めた頃、私の目が見慣れた屋根をとらえる。


『ベランダで待ってる』


心なしか熱を持った携帯をポケットの中で握り締め、私は深く息を吸った。
肺の隅々にまで酸素が行き渡る。ここ最近私の心に居座っていたどす黒いものを追い出すように、吸った息を吐いた。

どんな顔で会おうか、なんて声をかけようか、何の話をしようか。

夕が私を呼び出した理由を、私は本当は知っていたのかもしれない。
心の奥底で芽吹いた気持ちを、わざわざ自分の手で摘み取る必要はないのに、私は一体何を恐れていたんだろう。


幼馴染みじゃもの足りない。
私の隣は夕がいい。


「………なんで、我慢できると思ったのかな」


そっと呟いた問いは、私が私自身に発したものだった。
色鉛筆でもクレヨンでも絵の具でもコンピューターでもきっと表せない程美しい真上を見上げて、私はもう一度呟く。
ああ、この言葉が風に乗ってでもなんでもいいから、夕に届きますように。
世界一格好よくて世界一大好きな幼馴染みに会うために、私は家のドアノブに手をかけた。




「………………幼馴染みは、いやなんだ」















星空シャングリラ














一目散に階段を掛け上がり、部屋のドアを勢いよく開ける。
明かりを点けてからカーテンを引けば、お向かいのベランダが見えた。

だけど、私の真正面に、夕は居なかった。

電話に出なかったから、怒ったのだろうか。返信をしなかったから、諦めてしまったのだろうか。
夕の部屋に電気が点いているのを確認してから鞄と上着をベッドの上に放り投げて、携帯を出す。
着信履歴から夕の名前を選んで、ちょっと悩んでからタップし耳に当てると、呼び出し音が鳴り始めた。
うるさい心臓をどうにか静めようとしつつ窓の鍵を外す。
生ぬるい空気が室内に入り込んでくるのと同時に、不意にずっと続いていたプルルル、という音が途切れた。

ベランダに置かれたサンダルに足を引っ掛けて一歩外に出る。




『「もしもし」』




薄い膜越しのようなくぐもった声と、よく通るはっきりとした声が、

重なった。


「……え?」


予想していなかった状況に、思考回路が完全に停止する。
関節が錆びたのかと思うほどにぎこちなく声の主の方を振り返ると、窓ガラスにもたれ掛かりしゃがんだ夕が、そこに居た。


「………おかえり、葵」


にしし、と歯を見せて笑う夕の顔を見るのは、ひどく懐かしく感じられる。
携帯の通話終了ボタンを押した夕が立ち上がり、「やっと目え合った!」と心底嬉しそうに言った。
柵に腕を置いて体重を前に預けた夕にならい、私も隣に並ぶ。太陽の陽は、静かに、でも確実に落ちていく。


「………メール、全然見てなくてごめん」


あの日から毎日来ていた夕からのメールには、ベランダに出てきてくれ、と綴られていた。
私が無視をしてしまっている間に、彼はずっと話し合う機会を作ろうとしてくれていたのに。
夕がゆるりと首を振って、また重い沈黙が訪れる。青とオレンジは段々と光を失っていき、紺の隙間を縫うようにして弱いライトが私達の顔に当たる。

2人ともただじっと、目の前を見ていた。
何を言うわけでも何をするわけでもなく、ただただ微動だにしないまま、肩が触れ合う距離に立ち尽くしていた。
そう言えば、夕に告白されたのも夕と別れたのもここだったな、とぼんやりとした回想に浸る。
そういう意味じゃ、このベランダはとても思い出深い場所だ。

―――私は今、何をしているんだろうか。

途端沸き起こったのは焦燥感に似た感情だった。
何か言わなきゃ。何でもいい、いまの私の気持ちを伝える言葉なら、何だって。



「――――――悪かった」

「――――――ごめん」



私と夕の言葉が重なる。
弾かれたように顔を隣に向けると、夕の方も目を開いてぱちぱちと瞬きを繰り返した。
夕の口元が笑って、呼応するみたいに私からも笑いが洩れる。くすくす、くすくす、と笑い合う。
夕と2人で笑うのが、数年ぶりのような気がした。それぐらいに、私達はぎくしゃくとしていたのか。
わだかまりがスーっと消えていく。









「夕、好きだよ」









自分でも驚く程自然に、告白の言葉が喉から発せられた。
詰まることなく、するりと。
目の前のベランダを見ていて夕の反応がわからない。でもいい。


「…夕と潔ちゃんが付き合ってるのは知ってるけど、それでもやっぱり、私夕が好きなの」


―――もう遅い。
誰に言われた訳でもない私自身が一番よくわかってる事が、私を取り囲むように回る。
喉の奥から熱いものが込み上げてきて、目頭がカッと熱を持った。
泣くな、泣くな私。
どうして涙が出るんだろう。もっと早くこの感情に気付いていれば、という後悔なのか。


「…ごめん、今さら………」


涙が零れないように瞬きをしないでいると、私の視界が瞬く間にぼやけた。
後から後から溢れてくる涙をどうにかしようと柵の上で組んだ腕に顔を伏せる。

例えば心に一つのグラスがあったとして、注がれた感情がグラスの容量を超えた時、人は涙を流すらしい。

とぷとぷとぷと水面がぶつかる音がして、私のグラスに琥珀色の液体が溜まっていく。溢れる。透明なグラスを伝って、真っ白いテーブルクロスが染まっていく。

夕は黙ったままで、ああやっぱり、と思った。
止まらない涙を腕でごしごしと擦って私は顔を上げ、夕の方を向いて無理矢理笑顔を作る。


「………………ごめん、やっぱ今の忘れ」



「俺、潔子さんと付き合ってねえぞ?」



「……………は?」


時が止まった。
この瞬間だけは、私の周りの時間が止まった。
頭の中がものすごいスピードで真っ白になり、夕の言葉がぐるぐる再生される。反芻される。
夕と、潔ちゃんが、付き合って、ない?
いや、でも、だって、中庭で告白してて、今日だって2人で出掛けてて。
言いたいことは山ほどあるのに、私の口は酸素不足の金魚よろしくぱくぱくと開閉を繰り返すのみだった。
何が何やらわからないでいると、夕がこちらを向いて向かい合う形になる。

フリーズ状態の私の手を夕が取った。


「それより今、何て言った?!」


驚きとよろこびが半分ずつない交ぜになったような表情に、私の体の強張りが少しとける。
太陽の光はどこか遠くの方でまだ粘ってはいるものの、空はもうすっかりと夜の顔を見せ始めていた。
私の手を掴んで真っ直ぐに見据えられて、しどろもどろになりながらも答える。


「え……今さらだけど、」

「違う、その前!」


ぐん、と。
爛々とした瞳の引力に引っ張られるようにして、私の唇がもう一度、一番伝えたかった言葉を紡いだ。



「夕の事が、好き」



面と向かって言うとどうしようもなく恥ずかしいのはどうしてだろう。
照れ隠しのつもりで微笑むと、急に視界が変わった。
耳元に熱い吐息がかかる。体が触れる部分が熾火に炙られたかのようにじんわりと熱くなっていく。
抱き締められてると気付いたのは、コンマ数秒後だった。


「……やっと、俺のもんだ」


私を包む手に力が込められ、熱っぽい声が甘く鼓膜を震わす。
私もおずおずと腕を伸ばして、私よりはるかに男らしい背中をかき抱いた。
グラスから溢れ出る感情は、どうしようもない愛しさだ。
またぽつりと涙が零れて、夕の肩に小さな染みを作る。


「葵、」


名前を呼ばれて体を少し離すと、夕の掌が私の頬を包んだ。
微かに潤んだ瞳は確かな熱を孕んでいて、形のよい唇がゆっくりと近付いてくる。
私も瞳を閉じて、間近に夕の呼吸を感じて、あと数ミリだ、という至近距離で、夕がぴたりと動きを止めた。


「キス、してもいいか」

「…………」


空気読めない男認定されてもおかしくないタイミングで、夕がそう言う。
至極真面目な顔をした夕を見ているとなんだかおかしくて、私は喉の奥で笑ってしまった。
この一つ下の幼馴染みは、どうしてあんなに格好いいのにこんなに可愛いんだろう。


「………………馬鹿だなあ、夕」

「んなっ、だって無理矢理したくねえし!」

「まあ、そういう変に生真面目なとこも好きなんだけど」


空を見上げてから悪戯っぽく笑って夕を見ると、彼は不満そうに唇を尖らせて、つんつんに逆立った髪の毛を弄る。
今度は、私が夕の頬を包む番だった。
おでこをこつんと合わせれば、睫毛が触れ合いそうな位置に夕がいる。

私よりほんの少しだけ低い背。
青アザだらけの男らしい腕。
細かい作業が苦手な指。
やたらと速い脚。
夕の全てが愛しくて、歯痒くて、どうにかなってしまいそう。





「ねえ夕」

「なんだよ」

「キスしていい?」

「葵も聞くのかよ!」

「嫌なの?」

「……んなわけあるか」





もう1回、もう1回。
唇がくっついて、離れて、またくっついて、熱と吐息がお互いを行き来する。

いつの間にか空には星が出ていて、夕の頭の向こう側に月が見えた。
真っ白い逆光。
影をつくった夕の顔が晴れやかな笑みを浮かべ、私の額に口付けた。


子供じみた恋だと大人たちは思うかも知れない。
高校生のお遊びみたいなものだと思われるかも知れない。
それでも、今この瞬間のこの感情に、決して嘘は混じってないと断言できる。明言できる。


「葵、好きだ」


死にそうなくらい幸せ、とか、死んでもいいくらい幸せ、とか、そういうのじゃ足りないんだ。



息ができなくなるような幸福感を噛み締めながら、私はそっと目を閉じた。




神様、やっぱり貴方は神様です。





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