「お、それ朝貰ってたやつ」
「そう!可愛かったから、すぐ使いたくて」
鞄から出したハンカチは、午前中の部活終わりに後輩マネージャーの小野ちゃんがくれたものだ。
パステルを基調としたデザインがとても可愛くて、早速使わせて頂いている。
ショッピングモールの4階、フードエリアにあったそこそこ有名なレストランにて。
通された席は運良く見晴らしの良い窓際で、なんだかいつも行くご飯屋さんとは違う高級感に、私は若干高揚していた。
まあ、折角の誕生日だからいっか。
横文字の多いメニューからどうにか味の想像できる料理を選び(カルパッチョは多分酸っぱい、とか)注文を終え、向かい合った村田くんと雑談に花を咲かせる。
喉の奥にせり上がってきて私の気道を狭める絶望感からは必死に意識をそらして、先に届いたオレンジジュースを一口飲んだ。
「あ、乾杯とかするべきだったかな」
「あー、いいんじゃね?別に酒飲んでるわけじゃないし」
外はまだ明るく、大人なムードという感じではない。
ただ周囲の客層が違うため、いきなり異世界にぽんと放り込まれたような気分だった。
店内に静かに流れる聞いたこともないクラシックに耳を傾けながら、村田くんの話に中身の伴わない相槌を打つ。
ほどよく設定されている筈の冷房にさえ寒気をおぼえて、指の先から冷たくなっていく感覚をじっと追う。
『初恋というものは叶わないようにできている』
何かで聞いたそのフレーズはなんと的を得ている事だろうか。
近すぎて気づけなかったその存在の大切さを今更認識するなんて、我ながら滑稽だ。
諦めれば済む話なのに。
私がこの気持ちに蓋をすれば、私と夕はきっとまた元通りになれる。
お互いの部屋を気兼ねなく行き来して、新しいゲームが出たら2人で徹夜プレイして、嫌な事があったらベランダで愚痴を言い合って、夜ご飯を一緒に食べて朝はたまに一緒に行って帰りもたまに一緒になって、それ以上私は何を望んでいるの?
もし私が夕に気持ちを伝えたとして、その先に一体なにがあるの?
2人で出掛けたい?人前でイチャイチャしたい?嫉妬されたい?独り占めしたい?束縛したい?私だけを見てほしい?手を繋ぎたい?キスしたい?
答えは出ない。
私の夕に対する気持ちはどこまでも一方通行で、加えて自分じゃ制御が効かないのだ。
答えを出したくない。
自分の中で何かが激しくぶつかり合っていて、私なのに私じゃないみたいだ。
胸の奥で繰り広げられている感情の衝突を感じながら、この感情が事故を起こして心が粉々に壊れてしまえばいいのにと思った。
選択シャングリラ
―――例えば、例えばの話として。
私の夕への気持ちを全て幼馴染み故のものに置き換えて、あの日されたキスも全部気の迷いとかそういう事にしてしまえば、もう少し前までの関係を保っていられる。
多少ぎこちなくはなるかも知れないけれど、きっと時間が解決してくれる。
幼い頃と同じように、意識せずとも意識の中にいる一番近くの幼馴染みに戻れる。
だけどそうしたら、私のこのどうしようもない熱情は、欲望は、醜い程の愛情は、一体何処へやればいいのだろうか。
それともこの恋さえも、飴か何かのようにいつかは舌の上で溶けてなくなるのだろうか。
無理をして飲み込まずとも、自然に、消えてしまうのだろうか。
「………河野、やっぱり具合悪いんじゃないか?」
心配そうに目を細めて語りかけてくれるその優しい声音に、不満は何もない。
村田くんに文句がある訳じゃないし、彼じゃ駄目な理由なんてない。
「ごめん…なんだろ、今日はなんか調子悪いのかな……」
はは、と愛想笑いにもなれなかった乾いた声は、場の空気から水分を吸い取るように消えた。
重い緊張感。とてもお誕生日ケーキを囲んで喜べるような雰囲気じゃない。いや、端からそんなつもりはないのだけど。
「………村田、くん」
短く深呼吸をしてから名前を呼ぶと、彼は少しだけ佇まいを改めた。
何を言おうと思って村田くんの名を口にしたのかはわからない。わからないけどわからないなりに、けじめはつけなくちゃいけないと思った。
「なに?」
私のトーンから何を悟ったのか。
村田くんは若干ひきつった笑みを浮かべて、それから頬に刻んだ皺をくしゃりと深くする。
不格好な笑顔はまるで全てを諦めているようで、その表情はとても身に覚えがあった。
あの日、中庭の見える空き教室で、返事をする前に村田くんがしていた表情だ。
「……私、貴方に謝らなきゃいけな、」
プルル、と。
鞄の中から携帯の鳴る音がした。
確認しようと見た画面の液晶に出た『西谷夕』の文字に心臓が止まりそうになる。
体が金縛りにでもあったかのように動かなくなって、応答も拒否も押せない。
プルル、プルル、と断続的に見えて規則的な呼び出し音がレストランに響いていた。
他のお客さんにも迷惑だから、止めないと。
出るか出ないかは別だとしても、せめて音は出さないようにしないと。
頭に体が従わない。私の右手は震える携帯を握ったままで、私の目はただ呆然とかけてきた相手の名前の上を滑る。
この電話に出るべきか、出ないべきか。
電子音を流したまま微動だにしない私の目の前で、村田くんもまた微動だにしなかった。
プツッ、ツー、ツー、と、呼び出し音は唐突に終わりを告げる。
訳のわからない息苦しさから一瞬だけ解放され、間髪入れずにメールの着信音が鳴った。
『you get a mail!』
不釣り合いにも思える明るい音楽が流れて、先ほどまでよりも幾分動くようになった指で、新着メールをタップする。
差出人は夕、内容には一言だけ、
ベランダで待ってる
慌てて打ったのか、それとも他の全ての言葉を排除してこうなったのか。
未読フォルダを開くと、ずらりと夕の名前が並んでいた。
キスされた日の夜から毎日来ていたけど、怖くて開けなかったメールの数々。
ひとつひとつ、手のひらから溢れそうな言葉を溢さないように、読んでいく。
全部を読み終わった時、私は反射的に椅子から立ち上がった。
携帯をぎゅっと握り締めたままなんと言おうかと村田くんの顔を見ると、彼はとても静かな声で「行ってきなよ」と呟いた。
村田くんは俯いていて、その表情は読めない。またさっきのような笑顔を浮かべているんだろうか。
小さく顎を引いて頼んだ料理の分のお金を出そうとしたら、村田くんに止められた。
「でも、」
「いいから。せめてこれくらいはいい格好させて」
隣に居るのが彼じゃ駄目な理由なんて、ない。ない、のに。
「河野」
テーブルに背を向けた私に、村田くんはごく普通に声をかけた。
廊下ですれ違った時に軽く挨拶をするような気さくさで、私を呼んだ。
「理由だけ、聞いていいかな」
嗚咽にも似た圧迫感が胸の中を満たす。
沸き上がってくる感情はふつふつと泡を作り、ぱちんと弾けては消える。
村田くんじゃ駄目な理由なんてない。
だけど、それでもやっぱり、
「―――ごめんね、村田くんは夕じゃない」
私の隣には、夕が必要なんだ。
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