『多分夕には、私なんかよりもっと良い人がいると思うよ』
そう言って笑ったら、彼は驚いたような傷ついたような諦めたような曖昧な笑みを浮かべて、「そっか」と呟いた。
引き留めてくれると思った、なんて言うつもりは毛頭ない。
私は駆け引きとかできるタイプじゃないし、何より、彼の気を引くために別れ話を切り出すとか無理。
つまり、つまり何が言いたいかと言うと。
『……じゃあ俺、そろそろ寝るわ』
夕は小さく「明日も朝練だから」と付け足すと、私に背を向けた。
『おやすみ』
いつもと変わらない声の調子、なのにどこか冷たく感じるのは私の勝手な思い込みだ。
幼馴染みから恋人になって、また幼馴染みに戻った、ただそれだけなんだから。
『おや、すみ』
窓を開けてカーテンの奥に消えていく夕を目で追いながら、私はベランダの柵をつよく握りしめた。
嗚呼、なんだろうこの気持ちは。
言いたかった事が言えたのに、胸の真ん中がドーナツみたいにぽっかりまあるく穴が空いたみたいで、途端にすきま風が入り込んでくる。
強く握った拳に、少し錆び付いた鉄柵に、ぽつり、ぽつりと雫が落ちていく。
『おやすみ………夕……』
きっと明日から、また何でもないように日々が始まるんだろう。
彼は学校で会ったら敬語も使わず大声で私の名前を呼んで、その小さな体いっぱいに手を振ってくれるんだろう。
『葵!今日の晩飯うちで食べろって、母さんが言ってた!』
こっちが体育の時間だろうとお構いなしに、窓から伝えてくるんだろう。
また、戻る。
彼は1つ下の幼馴染みへと、戻る。
戻したのは私。
ならどうして、涙が止まらないの?
『……っ、おやすみぃ…夕……っ』
彼の部屋の窓はぴっちり閉まっていて、私の声なんて届かない。
夏の夜空に高く昇った月は奇しくも満月で、澄んだ夜空には星が輝いていて、ベランダで泣いている私はどうしようもなく惨めだ。
つまり、つまり何が言いたいかと言うと。
――――世界一格好良い幼馴染みの事が、私は世界一大好きなんです。
日常シャングリラ
河野家の朝は、トーストとオレンジジュースで始まる。
……河野家って言ったって、朝ごはんは大抵私一人しかいないけど。
机の上に置かれた『今日も明日も夜勤なので、昼食は自分で買ってね。晩ごはんは西谷さん家に頼んであります 母』というメモを読んでから、隣にある野口さんを手に取った。
今日明日は購買でパンでも買おう。
「夕ん家にまたお世話になるのか…」
相当長い付き合いだから今さら遠慮も何もないけど、流石にこうも連続してるとおばさんに申し訳なくなってくる。
『葵ちゃんならいつでも大歓迎よ!』
夕も喜ぶしね、と茶目っ気たっぷりに笑うおばさんは、お母さんの親友だ。
豪快な性格で多趣味で、病院に勤めるお母さんに夜勤が多くなってからは、夜一人になる私を毎回夕飯に呼んでくれる。
「お父さんは…明後日まで出張」
家族のカレンダーには飛行機のシールが貼ってあって、『シンガポール』と書いてあった。
家具のデザイナーをやっている父も滅多に帰ってこず、基本的には出張で家を留守にしがちだ。
時計を見たら何気にやばい時間で、焼き上がったトーストを口にくわえたまま着替えを始める。
今日から夏服だ。
「行ってきまーす」
家に鍵がかかっているのを確認して、自転車のチェーンを外す。
愛用のママチャリに股がり、ペダルを一歩漕げば、ぐんと体が前に引っ張られた。
隣の西谷家にはもうオレンジ色の自転車はなくて、余計急がなきゃという焦りが出てくる。
あ、そっか。夕はもう謹慎がとけたのか。
納得してうなずく、が、すぐに今遅刻するかしないかの瀬戸際であることを思い出した。
チャイムが鳴り終わるのと同時に教室に滑り込み、クラスメイトの笑い声に包まれるもセーフ。
こうして今日もまた、変わり映えのしない私の日常が始まる。
初夏という名に相応しい晴天に恵まれた空を窓の外に見上げながら、私はあの日の夜空を思い出していた。
夏休みを控えた6月の終わり。
私と夕が別れた日から、もうすぐ1年が経とうとしていた。
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