純情シャングリラ | ナノ




「おはよう葵、あんた相当顔が酷いわよ」

「……数日ぶりに顔を合わせた娘への第一声がそれですか…」

「だって事実だもの。何そのクマ、連勤明けの私より死にそうってどういうことよ」


珍しく明かりのついていたリビングには、全身から疲労が見え隠れするお母さんがいた。
眠気覚ましなのかなんなのかコーヒーを啜りながらクロワッサンを食べる姿は無駄に優雅である。

一晩まともに眠れず全力で寝不足を実感している私は自分の頬を触ってみた。
………ふむ、中々にガサガサしている。
実際1日でそんなに変わるものとは思えないが、なんというか、ハリがなかった。
鏡を見なくともわかる。きっと今の私はバイオハザードのゾンビも逃げ出す程酷い顔色の筈だ。


「なに、ストレス?」

「…んー………ストレスかなあ…」


昨日の部活前の事を思い出して、私は思わず顔をしかめる。
夕からと思われるメールが昨夜から何度も来ているけど、怖くて一通も開けていなかった。

怖いのだ。

何が引き金かわからないけど唐突に爆発した夕の感情に、私はうまく応対しきれていない。
だって、夕は潔ちゃんと付き合っていて、それなのに私にキスをしたなんて、誰がはいそうですかと納得できるものか。

夕の気持ちがわからない。
わからないから、怖い。
へその後ろで渦巻く疑念と葛藤はコーヒーに落としたミルクのようにぐるぐると円を描いて、答えは出なかった。

ほとんど一睡も出来ずに迎えた朝は河野葵の17年の歴史の中でもトップ3に入るバッドコンディション。益々テンションが下がる。


「あ、そうだ葵、来週の土曜の事なんだけどさ」


クロワッサンを食べ終え皿をカチャカチャと重ねたお母さんが、台所に向かいながら私に声をかけた。
脇に抱えた制服をソファに置いて、着替えようとしていた手を止める。


「来週の土曜?」


何かあっただろうか、と頭の中でカレンダーを広げてみたが、これと言って思い付くものがなかった。
睡眠不足の脳味噌は回転が鈍く、それが余計にもやもやとしたわだかまりを増長する。
首を傾げる私を見て「忘れたの?」と呆れた口調で言うお母さんは私並みに顔色が悪いように感じられた。
それでもいつものテンションを保っているのだから、これくらいの不調は慣れっこに違いない。

ボサボサの髪の毛を手首につけたゴムで無造作にくくり、欠伸を噛み殺したような顔で正解を発表した。


「葵の誕生日でしょ」

「…………あー…そう言えば」

「そう言えばって、自分の生まれた日くらい覚えておきなさいよ」

「完全に忘れてたわ」


きれいさっぱり頭から抜けていたけど、よくよく思い返せば私の18の誕生日がくる。
ここ最近立て続けに色々な事がありすぎて、意識もしていなかった。


「その日私絶対休むなって言われちゃって。お父さんも帰ってくるの難しいみたいだから、次の日の夜にご飯食べに行くのでいい?」

「……合点承知ー」

「よし。じゃあ私は寝るから、おやすみ」

「おやすみなさーい」


大きな欠伸をひとつしてのそのそとリビングから出ていくお母さんの後ろ姿を見送ってから、私は壁にかけてあるカレンダーに目をやる。
近くのペンで土曜日の日付に丸を書いて、誕生日に何をしようかと考えた。
バスケ部は午前中に練習試合があるけど、午後からはまるっと空いている。
折角の誕生日なんだから、ちょっと出掛けようかな。
誰かを誘おうと携帯のメールを開き半ば無意識のうちに宛先に選んでいた夕の名前を慌てて消して、私は電源ボタンを押した。
…今日宮ちゃんとかに声をかけてみよう。

今一番欲しいものは何かな、なんて聞かれてもいないのに勝手に妄想しつつ、私はまたパジャマの裾に手をかけた。














顔色シャングリラ














天気は雨だった。
朝の天気予報で今日は雨だと言っていたけど何となく傘を差す気になれず、そのまま自転車に跨がる。
幸い勢いの弱い小雨で、私は鞄にタオルを突っ込んで前かごに入れそのまま学校に向かってペダルを踏み込んだ。
しとしとと降る雨は世界中の音を吸い込んでいるようで、雑音は全く耳に入ってこない。
1週間程前から行われている下水管の工事のせいか水溜まりの表面には薄く油が浮いていて、雲の隙間を縫うように降り注ぐ日光に反射して曖昧な虹色をつくっていた。

学校が近付くにつれて段々と痛むような疼くような不思議な感覚を訴え始めたお腹を抱えて、私は一人坂を上る。


――――どうか、夕に会いませんように。









「……………葵おはよう、死にそうだよ?」

「うん、自覚済み」


私の顔を見るなりおっかなびっくりそう言った宮ちゃんは、ポケットから出したハンカチで私の額を拭ってくれた。
ショートの髪の毛は滴るまではいかないもののしっとりと雨粒を吸っていて、絞れば水が出てきそうだ。

いつもより気持ち重い髪といつもより確実に重い頭。そんな日に限って移動教室が多いのだから、たまったものじゃない。
水滴をつけた鞄を置き今日使う教科書を机の中にしまった所で、宮ちゃんが私の前の席の椅子を反対側に向け、私の真正面に座った。


「で、なんかあったの?」


『幼馴染みにいきなりキスされて眠れませんでした』なんて、口が裂けても言えるわけがない。


「……勉強の根を詰めすぎちゃって。ほら、もうすぐテストじゃん?」

「ふーん……2年の学年末が総合4位の葵様ともあろうお方が、今さら勉強のし過ぎで寝不足ねえ」

「まあ受験生ですからね」


うまい嘘のコツは真実を混ぜること。
何かの本で読んだ知識をうっすらと思い出しながら、私は不自然にならない程度にお茶を濁す。
実際眠れなくて、深夜3時頃から勉強をしていたのも事実だ。驚くほどに内容は頭に入ってこなかったけど。


「あんま辛いなら保健室行きなよ。今にもぶっ倒れそうな顔してるからね?」

「あいよ」


ふと土曜日の事を思い出して、私は提出するプリントの期限を確認しつつ目の前の宮ちゃんに話を切り出した。


「あ、ねえ宮ちゃん、来週の土曜って空いてない?」

「来週?ちょっと待って」


スマホを取り出して予定を見る仕草を見せた宮ちゃんは、ごめん、と先に謝る。


「その日出掛ける予定立てちゃってた」

「彼氏ですかい?」

「彼氏ですな」


にやにやと、でも確かに嬉しそうな表情の宮ちゃんに、じゃあしょうがないねと答えてから、どうしようかと唇を尖らせた。
折角の誕生日に家に一人というのは流石に寂しいけれど、かと言って特に過ごしたい人が居るわけでもない。
部屋に居たら嫌が応でもベランダの向こうの夕の事を意識してしまうので、出来れば丸1日外に出掛けておきたかった。

他愛もない雑談を続けているとチャイムが鳴って、皆緩慢な動きで自分の席についていく。
『葵葵、聞いてくれよ!今日さ…』
脳内で再生されたのは1年前の夕の声、私はあの時から何一つ成長できていないのだ。

何気なく目を向けた校庭は傍目でわかるほどにぬかるんでいて、3限目の体育なくなるといいな、と時間割りを見ながらぼんやり考える。
眠気よりも私を追い詰めるのは気道が狭まっていくような気持ちの悪さだった。








「河野、今日一緒に帰らないか?」


部活を終えて体育館の鍵を閉める村田くんは、鍵穴に目をやったまま私にそんな提案をしてきた。
一瞬何を言われたのかわからなくて、それから数テンポ遅れて頷く。
夕はきっといないし、村田くんとは方向が途中まで同じだ。断る理由がなかった。


「うん、勿論!」


満面の笑みを「つくった」私は心に若干の罪悪感を感じつつも、それを見せないように村田くんを見上げる。
脳内に大音量で流れる夕の声をどうにかして消したくて、私はわざと少し大きい声を出した。


『葵!バレー部のマネージャーの先輩がすっげえ綺麗なんだけどさ、話しかけれねえんだよ!』

『潔子さんと初めて会話したぜ!やっぱ美人は声も綺麗なんだな!』

『お前潔子さんと知り合いってほんとか?なんで教えてくれなかったんだよー』


今日潔子さんが潔子さんで潔子さんに潔子さんだった。
烏野に入学して当然のように男子バレー部に入った夕は、来る日も来る日も私に潔ちゃんの話をした。
共通の知人の話題として盛り上がれたのはそれこそ最初のうちだけで、回数が重ねられれば重ねられるほどにもやっとした黒い塊が私の胸の中で生まれたのだ。

……どこの世界に彼女に向かって他の女の子の誉め言葉を捲し立てる男がいるんだよ。

もしかしたら私は心が狭いのかも知れない。でも、夕の唇から溢れ出る潔ちゃんの話を聞きたくなかった。


夕と別れたのは夕が嫌いになったわけでも幼馴染みに戻りたかったわけでもない。
私の馬鹿みたいな独占欲と、馬鹿みたいな嫉妬心が私を突き動かしたような気がしたからだ。


「村田くんってこっち曲がるの?」

「ああ。でも送っていくよ」

「ほんと?ありがとう」


街灯がぽつぽつと照らす通学路を二人で歩きながら、私は思ったよりも自分が普通な事に気が付く。
今まで隣にいた幼馴染みの姿はないけれど、なんだ、私案外平気じゃん。

今日、移動の際に一度夕とすれ違った。
反対側から歩いてきた夕の唇には痛々しいかさぶたができていて、私は思わず目を合わせてしまったのだ。
だけど、それだけ。お互い口を開かず、交わった視線は何事もなかったかのようにそらされる。
私の中の何かがパリンと小さな音をたてて割れたような、そんな未知の感覚だった。


「………ああそうだ。河野、今度どこかに出掛けないか?」


角で立ち止まった村田くんがさらりと言う。
いいよ、と即答してから気付いた。これ、デートの話じゃない?

夕以外の同年代の男子と出掛けたことなんて記憶の限りではなかった。
さっき宮ちゃんにフラれたので、と希望の日を伝えてみると、快いOKが出る。
私と村田くんの初デートの日取りが、今決定した。








「じゃあ、来週の土曜日ね」








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