純情シャングリラ | ナノ




『話があるから、部活始まる前に部室棟のとこ来てくんねーか』

昼休みに夕から届いたメールを開いて、その内容を読んでから返信の文字をタップする。
カーソルを2、3回押して合わせ文章を打とうとしたけど、私の指は画面の前でふと止まった。

……………話って、なんだろう。
とは言いつつも、本当は夕が私を呼び出す理由なんてわかりきっている。
ここ何日か私が彼のことをあからさまに避けていたからだ。
朝は元々お互いに顔を合わせない事が多かったが、放課後も先に帰って校内でも極力会わないようにしていたら、流石の夕でも気付いたか。

理由は呆れるほどに単純で、『夕の顔を見たくないから』。
潔ちゃんとのツーショットを見てから夕に会うのが馬鹿みたいに嫌になって、彼は何も悪くないってわかっていても気持ちは変わらなかった。
嫌いになったとかじゃなくて、今はまだうまく整理がついてないだけなんだ、きっと。
心の中の柔らかい部分が目に見えない何かでメッタ刺しにされたような気がした。そしてそれは、誰のせいでも何のせいでもない、ただの被害妄想なのだからたちが悪い。


物心ついた時からずっと隣にいた。
ずっとずっと手を繋いで手を取り合って一緒に育ってきた、大切な男の子だった。
それが『幼馴染み』の限界なんだって、どうしてもっと早く気付けなかったのか。

当たり前のように握っていたあまり大きくないけど温かい掌は、いつかは私以外の女の子と繋がれて、知らない女の子の頬を包んで、私もまた違う誰かと手を繋ぐのかも知れない。
この胸をちりちりと焼かれるような痛みも、お腹の奥でとぐろを巻くドロドロとした暗い感情も、数年後には笑って話せるのかも知れない。

時間は止まってはくれないのだ。
心地好くて幸せだった幼馴染みはしばらくお預けにしよう。
私が夕と潔ちゃんの仲を笑って祝福できるようになるその日まで、どうか待っていてほしい。

―――だから今は、今だけは、鼻の奥に感じるツーンとしたものの正体は隠さなくてもいいですか。
とびきりの笑顔で二人を見れるようになるまでは、貴方を思って枕を濡らしてもいいですか。


失恋の痛みなんてのは、色に表すとしたら何色なんだろう。
恋をすると世界が輝いて見えるらしいから、私の世界はくすんで見えているのだろうか。
じわじわと色を失っていく視界をぼんやりと想像しながら、私は一文だけ打ち込んで、「ばか」と呟いて送信ボタンを押した。

『ごめん、用事あるから』














墜落シャングリラ















行かない、そう決めたし返事もしたのに、放課後私の足は自然と部室棟の方に向かっている。
ちらほらと部員が集まり始めた第一体育館を抜け出し、様子だけでも見ようかなと第二体育館の陰から窺っても、そこには夕の姿はなかった。
当然だ、待ち合わせを断ったんだからいるわけがない。
頭ではそうわかっているのに自分の目で確認しないと気がすまないなんて、我ながら面倒で女々しい性格だなと自嘲気味に笑った。

誰もいないのを確かめたら何だか肩の荷が降りたような気がして、私は先程より軽い足取りで部室棟に近付く。
その時あることを思い出して、小走りで裏側に回った。


「……えーと…確かこのへん………」


クリーム色の壁の隅っこ、ボールペンでごりごりと書いた文字を探す。


「あったあった」


2年の春に夕と二人でこっそり落書きをしたのだ。
どういう流れでそうなったのかは覚えてないけど、売り言葉に買い言葉みたいなノリで建物の壁に刻んだ文字が懐かしくて、もう汚れてうっすらとしか見えないインクを指でなぞる。

太く男らしい字で『でかい男になってやる!!』と書いたのは夕だ。
でかいが意味するのは身長的な意味なのか、それとも人間的な意味なのか。結局夕にはついぞ聞けなかった。身長的な意味であったなら、あまり達成はできていないようだ。
その隣書かれたのが私の言葉で、夕の宣言以上に読みづらいそれをどうにか読み取ろうと顔を近付けた時、後ろから声をかけられた。


「河野、こんな所で何やってんだよ」

「……村田、くん」


練習着に着替えた村田くんが、そこに居た。
もう部活の始まる時間だったかな、と時計を見ると、「まだだから大丈夫」と付け足される。


「あー、いや、後ろ姿が見えたからさ、どこ行くのかなって」


さっぱりとした髪型の頭をかきながら近づいてくるので、私もやや屈んでいた体勢を起こして彼の方を向いた。
なんとなく体で私たちの落書きを隠して、そっか、と笑顔をつくる。

―――私が告白の返事をした時、村田くんは目をまんまるに見開いてから、


『………………まじで?』


と呟いた。
中庭からは目をそらして、胸の奥でじくじくと疼くものに気付かないふりをして頷けば、正面から強く抱き締められる。
私よりも20センチ近く高い背、村田くんの腕の中でおずおずと腕を彼の背中に回すと、私を包む手に更に力が込められた。


『……もう駄目かと思った』


耳元で熱っぽく囁かれた言葉が私の傷を抉るように刺さってくるのをじっと感じながら、罪悪感に蓋をして『遅くなってごめん』と言う。
夕とは違う匂いに顔をうずめて目をつむると目頭がじわりと熱くなって、零れそうになる涙を必死で堪えた。
これでいいんだと自分を無理矢理に納得させて。


付き合う事になっても村田くんの態度が特に変わるということはなかった。
いつも通り部活で顔を合わせて、廊下ですれ違ったらちょっと話をして、目が合ったら手を振るくらい。
それに反比例するように夕とコミュニケーションをとる機会が減っていき、ああ、人はこうやって誰かと誰かを天秤にかけてどちらかを選ぶんだろうな、なんて考えた。
心に燻った想いは時間と共に流れていき、夕はいつまでも仲の良い幼馴染みのままで、きっとそれが誰も傷付かない選択肢なんだと信じることにしよう。

―――じゃないと、私の心が折れてしまいそうだから。


「今日は確か4時から木ノ沢高校と練習試合だったよね」

「ああ。夏休みに入ったら即公式戦だから、気合い入れていかないとな」

「期待してるからね、村田キャプテン」

「何点入れたかちゃんとメモしとけよ、河野マネージャー」


任せて!と胸を張ると村田くんは爽やかな笑顔で頷いて、私達からくすくす笑いが漏れる。
「……じゃあ、戻ろっか」そう言って第一体育館の方へ歩き出すと、不意に後ろ手を掴まれた。


「どうしたの?」

「………あの、さ、河野」


俯いた彼の顔を覗き込むように尋ねれば、妙に真剣なトーンの声が頭上から降ってくる。
陰になっていてあまり表情は読み取れないけれど、その頬が心なしか赤いような気がした。
掴まれていた腕は解放されたかと思うと村田くんの手はそのまま私の肩に移動し、体をがっちりと押さえられる。
彼の意図がよくわからなくて村田くん、と疑問符をつけて名前を呼ぶと、見上げた先からは思わぬ言葉が発せられた。




「…キス、してもいいかな」




「へ?」


予想だにしなかった台詞に素頓狂な声を上げてしまい、そこでようやく私の体が固定された理由を理解する。

え、いや、待って、うそ、は、いや、キス?

「はい」も「いいえ」も咄嗟には浮かばず思わず押し黙ってしまった沈黙を肯定と受け取ったのか、村田くんの顔が徐々に近付いてきた。
軽くパニック状態に陥った脳は正常な判断を下せないようで、私には今の状況をどうにかする妙案は思い付けそうにない。

もういいや、なるようになれ。


やけくそ気味に瞑った目、しっとりと塞がれる唇。
蘇ったのはあの日の朝の記憶で、でも目の前にいるのは夕じゃなくて、彼氏の、村田くんだ。
付き合って数日目のキスは5秒にも満たない短いものだった。
すっと離れた柔らかさに合わせてうっすらと目を開くと、照れたようにはにかんだ村田くんの腕に抱かれる。


「……河野、好きだ」


一瞬迷ってから「わたしも」と続けようとして、私は口をつぐんだ。






時が止まったような気がした。






村田くんの肩越しに見えたその見慣れた顔は驚愕に目を見開いていて、唇は真一文字に引き結ばれている。
ザッ、と地面を踏む音に気がついた村田くんは振り返り、そこに立っていた人物に気付いた。


「……お前、幼馴染みの…………」


私と抱き合っている体勢が恥ずかしくなったのか、村田くんは私から手を離すと気まずそうに頬を掻く。
―――夕の険しい視線は真っ直ぐに私を見つめていた。


「あー、……河野、俺先に戻ってるから、ちょっと時間ずらして来なよ」

「…う、ん」


私と夕を交互に見比べぱたぱたと走り去っていく村田くんの背を見て、それからぎこちなく夕に体を向ける。

見られた。
村田くんに抱き締められている所を夕に見られた。もしかしたらキスも見られているかもしれない。
――いいじゃないか別に。
だって、村田くんは私の彼氏で、夕はただの幼馴染みで、そりゃあ気まずくはあるけれど引け目に感じる必要は全くと言っていい程ない。

ない、のに。

怖いくらいに重い沈黙が恐ろしくて何か言おうと口を開くのと同時に、今まで聞いたこともないような低い声が響いた。


「―――――――アイツと会うから、話ができねえって言ったのかよ」


確かな憤りが込められた言葉に開けた口を閉じる。
夕が足を一歩踏み出して、私は反射的に足を引いた。それが繰り返されて、気が付いた時には私の背中が壁にぶつかる。


「俺よりもあの、バスケ部の奴の方が大事って事だよな」

「待って、夕、それ、は」

「………なんだよそれ。なんなんだよ」


怒りにくしゃりと歪められた表情がすぐ目の前に迫っていて、夕の腕は私の両耳の横に付かれていた。


「……俺の気持ちは、一体どこにいくんだよ……っ!」


―――――不意に光が遮られる。


声をあげる間もなく重ねられた唇は驚くほどに熱く、乾いていた。
噛みつくような、遠慮も余裕もない激しいキスに思考が奪われる。


「んーっ……んっ、ゆ、っ…」


酸素を求めて薄く開いた唇の間を割って入ってきたのはぬるりとした柔らかいもので、一瞬何かわからなかった。
私の舌に絡み付いたそれは縦横無尽に口腔を貪り、重なりあった場所からぐずぐずに溶けていくようだ。
押した肩はぴくりとも動かず、壁に押し付けられたまま抵抗らしい抵抗もできない。
頭も頬も唇も何もかもが熱くて、ただただされるがままだ。


「………や、夕…っ…んん…ーっ」


顔を背けてもその都度角度を変えて追ってくる夕の舌はまるで別物のように動いて、空気をうまく吸えないまま生理的に涙が零れた。
あまりに激しいキスに足から力が抜けてしまい、私の体は壁を伝ってずるずると落ちていく。
夕の腕が腰に回されてぐ、と引き寄せられた。


「ん、んんーっ…ふ、…ぁ……ん」

「……っは、葵……っ」


もっと深く交わった舌が怖くなって、私は思わず重なった唇に歯を立てた。
ガリッ、と皮膚の裂ける音、血の味が口の中に広がる。


「…痛っ……」


顔を引いた夕は顔をしかめて下唇を押さえていた。真っ赤な唇には真っ赤な血が滲んでいて、私の目尻からぼろぼろと涙が溢れては頬を伝っていく。


「……………葵…」

「…………………っ、最低!」


感情的に口から零れた言葉に、夕が傷付いたように表情を曇らせた。
それでも、涙は止まらない。


「……潔ちゃんがいるくせに、最低だよ夕」

「……え?」

「夕なんて、……大っ嫌い」


夕の体を押し退けて走り出す。後から後から流れていく涙をごしごしと拳で拭って、第一体育館の陰にしゃがみこんだ。
心臓はまだバクバクと鼓動を打っている。
胸は確かに痛いのにどこかで喜んでいるような自分がいて、それが余計に辛かった。

――ぐちゃぐちゃに入り交じった心が涙と一緒に出ていってしまえばいいのに。
止めどなく流れる雫が地面に染みを作るのを見つめながら、私は声を殺して泣いた。


幸せだと思っていた関係が、急速に、墜ちていく。


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