「セーーーーーーーーフッ」
「ギリッギリな」
教室のドアをスパァンッと開けて高らかに喜びを噛み締めていると、背後から来た担任に頭をはたかれた。
チャイムの余韻を残した教室に足を踏み入れ、先生にすみません、とはにかむ。
苦笑しながらも早く席につけと言われて、私はわらわらと座るクラスメイトに混ざった。
日直の号令に合わせて起立、礼。
しぁーす、とかうーす、とかやる気のない挨拶は今日も健在で、いつも通りの朝が始まる。
HRの間に鞄の中から今日の授業の教科書とノート、それから筆箱を取り出した辺りで、斜め後ろからぽんぽんと肩を叩かれた。手紙の合図だ。
担任にバレないようこっそり後ろ手でその小さい紙を受け取り、机の下で内容を確認する。
『後で数学の宿題写させておくれ 宮』
差出人は宮ちゃん。数学は一限目だから、今しかないと踏んだのだろう。
提出用のプリントをできる限り小さく折り畳み、筆箱から出したメモ帳に『次は忘れんなよ 葵』と書き添えてから、それら二つを重ねる。
その時宮ちゃんからの手紙の裏に、文字が見えた。
何か読み落としたのかと何の気無しに裏返してみると、そこには『PS.朝から顔赤いけどなんかあった?』と書かれている。
朝――というにはまだ30分にも満たない程度の時間しか経っていないけど――の事件を思い出した。
忘れたくても忘れられない、まだ微かに感覚の残った柔らかさが彷彿と沸き上がってきて、私は慌てて『全速力で来たからかな!』と書き足した。
宮ちゃん…なんでそんなに鋭いんですか……!
返事の手紙と一緒に数学のプリントを担任が黒板を向いた瞬間に斜め後ろに突きだし、指の間から抜かれたのを確認してからさっと手を引っ込める。
宮ちゃんの席の方向から「ありがと」と息声がうっすらと聞こえて、私は前を向いたまま彼女に親指を立てた。
後ろめたさと気恥ずかしさとほんのちょっとの罪悪感も織り混ぜて、いつもとは何だか違う一日が、始まろうとしていた。
神様シャングリラ
『きす [鱚]キス科の海魚。シロギス』
「………葵、鱚が食べたいの?」
「うおっふぉおん!」
無意識のうちに調べてしまっていた検索ワードを、宮ちゃんに後ろから覗き込まれた。
慌ててホームに戻り携帯の電源ボタンを押して画面をシャットダウンする。
「そうそう、この時期はやっぱり鱚が旬だよね〜」とか笑顔を貼り付けた顔で言いながら、私はさりげなく携帯をポケットにしまった。
宮ちゃんはそうだっけ、と首を傾げつつも私の言い訳に納得したように頷く。
不思議そうな表情をした宮ちゃんを見て、私はキスって調べてなくて本当に良かったと胸を撫で下ろす。グッジョブ鱚、グッジョブ私。
「鱚で思い出したけど、私最近彼氏とキスしてないなあ」
「ぶふぉっ」
私が必死に意識をそらしていた言葉を宮ちゃんがあまりにもぽんと言うものだから、思わず飲んでいた野菜ジュースを吹きそうになった。
宮ちゃんはそんな私の様子を見て益々怪しそうな瞳を向けた後、変なの、とまた呟いてチョコレートをつまむ。
昼休み、今日はよく晴れているので、グラウンドに居る生徒も多かった。
お互いに一種類ずつお菓子を持ってきてお弁当の後に二人で食べるというのは、最早習慣だ。
喉の変な気管に入った野菜ジュースに噎せて咳き込むと、なんか葵今日おかしいよね、と真顔で言われる。
「妙に顔赤いし、どっかよくわかんない所見てるし、話しかけても上の空だし、また熱でも出たんじゃないの?」
無理しないで保健室行きなよ、とかなり真面目なトーンで諭されてしまい、そんなにぼんやりしていたのかと反省した。
確かに何をするにも今朝のキスが頭の中を侵食してきて、手がつかなかったのだ。
まさか起きていた訳はないだろうけど、それでも私が夕の寝込みを襲った事に変わりはない。
でもあれだね、寝込みを襲うって卑猥な響きだね。何言ってんだろう私。
「……ガッデム!!」
「葵……?本当に大丈夫?やっぱり帰って寝なよ。絶対アンタおかしいから」
突如叫んで机に突っ伏した私の背中を優しくさすりながら、宮ちゃんが一周回ってものすごく優しい目で見てくる。
熱い顔を両手で覆って視界を真っ暗にすれば脳内を飽きることなくぐるぐるぐるぐる初めての感触が思い出された。
私と夕は1年前に付き合っていたとはいえ、幼馴染みから抜け出せずキスはおろか手も繋がなかった。
正直何が変わったのかと言われてしまうと自分でもわからないのだけど、少なくともその時の私には夕とキスしたいなんていう感情はなかったのだ。
それがどうだ。
付き合ってもないのに、ただの幼馴染みなのに、夕に触れたい、なんて。
この感情は―――――
「………………欲求不満?」
「なに欲求不満なの、葵」
「そうなのかも知れない…」
「ふーん。じゃあ彼氏作ればいいじゃん」
私の持参したじゃがりこをかじりながら、宮ちゃんは「まあなるよね、欲求不満」と同意する。
「どうしたら解消できるかな」
「え、やっぱ一番は彼氏とキスとかあれやこれなんじゃないの?」
「彼氏としたい訳じゃなくて、特定の人となんだよー……」
むずがる子供のように呟いた私に、宮ちゃんはなーんだ、と苦笑混じりに言った。
どういう意味かわからずに顔を上げると、バリボリとじゃがりこを噛み砕いた彼女があっけらかんと口を開く。
「葵、アンタのそれは欲求不満じゃなくて、」
恋、っていうんじゃないの?
予想だにしなかったワードにしばし思考が停止した。
恋、恋、恋恋恋恋恋!
宮ちゃんの言葉がじわじわと脳細胞の一つ一つに染み込んでいくように、段々意味を理解し始める。
「その人に触れたい、とか、その人に私だけを見てほしい、とかさ。言っちゃえば独占欲なんだけどね。でもそういうのを恋って呼ぶんでしょ」
少し長めのじゃがりこを手で弄びながら、宮ちゃんは「私もそうだったなあ」と懐かしそうに口許を弛めた。
きっと、彼氏の事を思い出しているんだと思う。
その横顔はまさしく恋する乙女のそれで、自分が目の前の彼女と同じ『恋をしている人』というのがいまいちピンと来なかった。
家族愛の延長線上にいたあの頃とは違う、もっと深くて強くて、それでいて甘やかな愛しさ。
言われてみれば驚くほどにすとんと胸に入ってきて、今さらのように私は夕の事が好きなんだと気付く。
「だって今、葵、恋してる子の顔してるもん」
触ってみれば私の頬は確かに熱くて、内側から溢れるような熱を帯びていた。
「………なんか、ありがとう宮ちゃん」
「河野ー、バスケ部の主将が呼んでるよー」
教室の後ろのドアから私を呼んだ声の主に目をやり、私はもう一度宮ちゃんにお礼を言う。
宮ちゃんは何だか自慢気に「どういたしまして」と笑ってから、チョコレートを口に入れた。
廊下に出て私を待っていた村田君の肩を後ろからぽんと叩くと、かなり大柄な体躯が振り向く。
その手は部活の予定表を握っていて、差し出されたプリントを受け取った。
「これ、早いけど夏休みの予定な。合宿があるから先に渡しといたいいかなと思ったんだ」
「あ、うんありがとう。私合宿って初めてだから楽しみ!」
「河野と小野は夜になったらちゃんと帰るんだぞ」
「え、そういうものなの?」
「まあ大体そうだな」
流石に野郎共と雑魚寝させるわけにもいかないだろ、と補足を聞いてなるほどと頷く。
そりゃ確かに駄目だわ。
「あー……じゃ、また部活でな」
連絡事項を伝え終わり短い沈黙が流れたあと、村田君はどこか気まずそうに笑った。
私はまだ、彼に告白の返事をしていない。
軽く手をあげて踵を返した村田君のカーディガンを、気が付けば掴んでいた。
このままズルズルと引き延ばすのは、彼にも、そして夕にも失礼だと思ったから。
「まだ何かあった?」
振り返った村田君の目を真っ直ぐに見据えて、深く息を吸う。
「お話が、あるんだけど」
一瞬きょとんとした彼はすぐに察したようで、じゃあ空き教室に行こうかと曖昧な笑顔をつくった。
使われなくなった教室は机や椅子が散乱していて埃っぽかった。
窓からは中庭が見えて、電気を点けなくとも外から入ってくる光で十分に明るい。
「……話って、この間の事だよな」
「うん」
何とも言えない表情でぽりぽりと頬を掻いた村田君は、半ば諦めたように「……返事、わかってるけど」と口の中で呟いた。
きっと私の内でも返事を決まっていたんだ。
口に出さなかっただけで、ずっと、ずっと、はじめから。
けじめの意味も込めて深呼吸をし、真剣な顔をした村田君を見た時、
ふと中庭の光景が、目に入った。
そこには頭を下げた夕と潔ちゃんの姿があって、言おうとした言葉は世に出される前にしゅわりと消える。
お願いします!
………私でいいの?
はい!潔子さんしかいないんです!
ここは2階、加えて私は目がいい。
見たいものも見たくないものも両方よく見えてしまう私の瞳は、今回後者の為に役に立った。
血の気が一気に失せていくような気がした。
頭のてっぺんから足の指に向かって、真っ赤な血が、流れていく。
………………好き?
潔ちゃんの横顔を斜め上から見ていると、その唇はそう動いた。
夕は、と思い彼に視点を合わせると、夕は戸惑ったようにたじろぐ。
だけどそのあと、惚れ惚れしてしまうほど晴れやかな表情で、はい!と口を動かした。
後頭部を鉄アレイで殴られた方がよっぽどマシなんじゃないかと思った。
こんな光景見たくなかった。夕が潔ちゃんに告白してる所、なんて。
「………河野?」
窓の外を呆然と見ていた私は、村田君の声で我に返る。
そして、気が付いた時には私の口は勝手に言葉を紡いでいた。
「村田君、私と付き合ってください」
――――だって、あんまりじゃないか。
夕への恋を認識したその日に、失恋するなんて。
神様の、ばか野郎。
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