純情シャングリラ | ナノ




幾らか開放的になった首もとに、ひんやりとしたものが当てられる。
濡れたタオルがしっとりと汗ばんでいた皮膚をなぞり、それが気持ち良い。
優しく労るように動くタオルの持ち主を見ようとしたのだけど瞼がどうにも重くて、私はじっとしていた。


「熱…は学校で計ったよな。じゃあなんだ、冷えピタか」


多分同年代の男子より少しだけ高い声が、上から降ってくる。
そして、ガサガサとビニール袋の中を漁る音がした。

意識はあるのに目は開かない。
頭は鉛でも付けられたみたいに重いし、顔は熱くて布団は重い。
夕に何か言おうと思ったのに、口もうまく動かなかった。

シートを剥ぐ音の後夕の手は汗で額に貼り付いた私の前髪を横に払い、その代わりに熱冷ましシートを貼った。


「……ん…………」

「あ、悪い。起こしちまったか?」


いきなり貼られた冷たさに息を漏らして身じろげば、夕が私からパッと手を離す。
脳が強制的に冷やされてるからなのか瞼はさっきよりも重くなくて、私はゆっくりと目を開けた。

ぼやけた視界。
私を覗き込んでいる瞳に無理矢理ピントを合わせて、どうにかこうにか霞を取ろうとする。


「熱出たっておばさんから連絡もらったから、合鍵借りて勝手に入ったぞ」

「……いま何時?」

「8時半。部活終わってダッシュで帰ってきた」


家に着いたのが2時前くらいだったから、かれこれ6時間以上寝ている事になる。
そりゃ頭も重くなるわけだ。

体を起こそうと腕を立てたら思ったよりも力が入らなくて、肘ががくんと崩れた。
夕の手が私の背中を押さえてくれて、やっとの思いで上半身をたてる。
血液が急速に流れていくような感覚と共に酷い頭痛がやってきて、私は思わず眉間に皺を寄せた。


「ほら、無理すんなって。薬買ってきたから飲んどけよ」

「ごめん、ありがと……お金後で払うから……」

「いいって。それより、何も飯食ってねえよな?じゃあ薬飲めないな…」

「あー……それなら私、お粥でも作ってくる、」

「だーっ、葵はじっとしてろ!」


台所に行くため立ち上がろうとしたら肩を押さえつけられて止められる。
ベッドの脇に立った夕が妙にキラキラした目で、私を見た。

嫌な予感しかしない。


「俺が作る!!」

「死亡フラグしか立ってないよ夕?!」

「台所借りるぜー、あとなんか食いもんも」

「………こんな弱ってる状態で夕の手料理とか、私前世でどれだけ悪いことしたんだろ」


一回、家庭科の調理実習の為に夕と料理をしたことがある。
言わずもがな、結果は散々だった。
それはもう散々だった。
地獄絵図と言い換えたってなんら遜色はない。文字通り、台所は酷いことになった。

唯一の救いと言えば、夕の作ったご飯は、見た目は男らし過ぎるけど味はそこまで酷くないことだ。
ただ後片付けをするのは私なんだなと考えると、今から胃が痛い。あれ、悪化してない?


「…後ろの棚の上から2番目に、お湯入れるだけのお粥もあるからねー」


後ろ姿に声をかけると、「そんなん必要ねえよ!」と非常に潔い返事が返ってきた。
それから少し経つとパリーン!という甲高い音。
今回はいくつの調理器具と食器が犠牲になるのかと、頭を抱える。

力の入らない体を引き摺ってでも台所に様子を見に行こうかと思ったけど、今の体力で料理中の夕の相手をするのは無謀な挑戦だった。
ここはもう止めることを諦めて元気になってから片付けよう。それが一番、被害が少なくて済む。

ガシャーン、とかドゴーン、とかおよそお粥作りに鳴る筈のない擬音を聞きながら、私はぼんやりと宙を見ていた。














看病シャングリラ














ふと思い出したのは、昨日の部室での出来事だ。

『返事はいつでもいいから』

そう言ってはにかんだ村田君の顔がふわりと浮かんで、霧が晴れるように消えていく。
いつでもいいって、いつまで?
答えを悩んでる訳じゃなくて、いつでもと言われてしまうとタイミングが掴めない。

一瞬夕に相談してみようかと考えたけど、その案はすぐにボツにした。
もし『付き合っちゃえよ』とか言われたりしたら、それはそれでダメージが大きすぎる。

あんまり待たせるのは、勇気を出してくれた彼に失礼だ。誠意には誠意で返す。
とりあえず熱が引いて学校に行けたら、部活の前に村田君と話そう。
決心したのとほぼ同じタイミングで、私の部屋のドアが開かれた。
お皿とスプーンを持った夕が、心なしかしょんぼりとした様子で入ってくる。


「………日本の技術って、すげえよな」


差し出されたお粥と夕の顔を見て、私は悟った。
…………インスタントに諦めてくれたんですね、夕さん。
恐ろしい擬音の末生まれたお粥は失敗したらしく、結局お湯を入れるやつにしたとのこと。
私からはナイスジャッジとしか言えない。


「ありがとね、夕」

「ん、まあ困った時はお互い様だな!」


今さら気も使わないで良いし、と晴れやかな笑顔につられ、私も笑顔でお粥を口に運んだ。
お腹が若干満たされた所で薬を出し、夕の注いでくれた水で流し込む。
これで一晩寝たら相当良くなる筈だ。


「葵が寝るまで俺ここに居るから、何かあったら言えよ」


私の勉強机から持ってきた椅子に座り、ぴっちりとベッドの横につける。
背もたれに顎を乗せて、夕は「さっさと寝ろ」と笑った。
そっと頭に乗せられた夕の手のひらが心地よくて、私は瞼を閉じた。







背中が遠くなっていく。


『ごめんね、葵。私今日はどうしても仕事を休めないの。夜になったらお父さんが帰ってくるから、それまでちゃんと寝ておいてね』

ご飯とお薬はテーブルの上、何かあったら電話してね。
緊急連絡先としてメモに書かれた電話番号から目を外して、私は顔に笑みを貼り付けた。

『大丈夫。私もう5年生になるんだから、安心してお母さん』

始まりはそう、ただ心配をかけたくなかったからだ。
本当は行かないでほしかった。一日中傍に居て、優しくしてほしかった。
だけどそんな我が儘言ってもお母さんは困るだけだから、心配しないでと嘘をつく。嘘をついて、笑う。
良い子でいたいから、笑う。嫌われたくないから、笑う。
笑って、笑って、笑う。
―――――全部、偽物じゃないか。

申し訳なさそうに去っていく後ろ姿に手を伸ばして、私は気が付くと服の裾を掴んでいた。
ぐい、と引っ張るとその主はバランスを崩す。
熱に浮かされた頭はぐらぐらと揺れている。視界が安定しない。


「………っい、行かない、で」


ずっと言いたかったけど言えなかった言葉。


「行かないで、置いてかないで、一人に、しないで……っ」


ぽろりと、涙が落ちて枕に染みていく。
ハッとしたように息を飲んだのは、お母さん?それとも夕?
うわ言のように行かないで、と繰り返していると急に抱き締められて、耳元で力強く囁かれた。


「……どこにも行かねえよ。俺は、絶対に」


鼻孔をくすぐる落ち着く臭いに頬をすりよせ、私も小柄な背中に腕を回す。
ぼろぼろと涙を溢しながら、私はもう一度意識を手放した。









次に目が覚めると、朝だった。

カーテンから射し込む光は眩しくて、爽やかな朝の訪れを示している。
のそのそと上半身を起こすと、左手が何かに繋がれている事に気が付いた。
ベッドにもたれかかって寝ている夕の手と私の手は繋いであって、どうしたものかと口をつぐむ。

すぴー…と可愛らしい寝息を立てる幼馴染みの伏せられた睫毛は意外にも長く、驚いてしまった。
若干開いた唇は薄く、あまり出ていない喉仏も何やら怪しい魅力を放っていた。


魔が差した。
差してしまったのだ。

握られた左手をはずし、夕を起こさないよう静かにベッドを降りる。
爆睡している夕の目の前にしゃがんで顔をまじまじと見た時、私の中で何かがきた。むらっと、きた。


「………ありがと、夕」


血色のよい夕の唇と、私のそれを、重ねる。
一瞬の出来事で、とんでもないことをやらかしたと気付いたのは数テンポ遅れてからだった。
自分の行動を振り返ると、余りの羞恥に顔から火どころかマグマでも溶け落ちてくるんじゃないかと言うほど熱くなる。

キス、キスだ。
前に完徹ゲームした時同じような事があったけれど、今回はそれと全く違う。
マウス・トゥ・マウス。重みが違いすぎるでしょ。

夕が寝たまま眉をひそめて体を動かしたので、私は弾かれるように離れた。
ベッドに戻って寝たふりをすると、夕が目を覚ます気配。ぺしぺしと叩かれて起こされる。


「…葵ー……起きろー…」


ふわああ、と大きな欠伸をしたのを聞いて、私はいま起きたような体を装って目を開いた。
だけど真正面から夕と目が合い、顔中に血液が集まる。
目線はどうしても唇に行ってしまい、思っていたよりもずっと柔らかい感覚が鮮明に沸き上がってきた。


「?! 葵顔真っ赤だぞ?!熱下がってないのか?!」

「へっ?あ、いや、うん大丈夫ダヨー」

「いやいやいや、全然大丈夫じゃねえだろ」


熱上がってんのか、と額をごつんと合わせられて、私は固まる。

おかしい、おかしい、おかしい、おかしい、おかしい、おかしい!!
今まで平気だったことが、どうしてだかどうしようもなく恥ずかしい。
……だから忘れていた。今日も学校ということに。



真っ赤になったまま固まった私と訝しげに首を傾げる夕が現在の時刻に気づくまであと1分。
時計を見て自転車全力コースを思い浮かべた私達は、声を揃えて叫んだ。


「「デジャヴ!!!!!!!」」


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